二度目の夜を駆ける 十一話「オノゴロジマ」


「ウゼェ、アイツら皆殺しだな」

 いやいやいやいや。
 ちょっと、いやかなり、物騒すぎない?
 不良でも「ブッ殺す」までだと思うけど。
 思春期真っ盛りの感じが同世代でも恥ずかしい。肌がプツプツしてくる。

「一血卍傑。さ-て、とっととやっちまおうか」

 いっちばんけつ?
 なにそれ。聞き慣れない四字熟語。一致団結の響きに似ているから類義語かもしれない。
 そういえば明日は国語の小テストだっけ。休み時間全部使えばなんとかなるかな。再テめっちゃだるいからなんとか八割はあって欲しいんだけど。
 あー、そろそろ起きないと時間きついかも。

「っ!!!」

 起き上がろうとした瞬間、腹部からの痛みが電気の如く駆け抜け、枕に後頭部を打ちつけた。
 ぐわんぐわんと揺れる頭に静かに耐えていると、顔の整った男がひょっこり現れた。

「おい。起きたのか!?」
「え。ま、」
「マジかよ!? 呼んでくる!!」

 紫頭の男はダダダダッと駆けて行った。なんなんだ今の。角が見えた気がしたけれど気のせい?

 そもそもここどこ。

 天井は家の三倍高く、畳は何十枚も敷き詰められていて、縁側の向こうには池付きの庭が見える。所謂和風のお屋敷だ。
 浴衣なんて着させられて、ちくちくする腹部は包帯が何重にも巻かれて、蒲団の上に寝かされている。

 …………うーん、なにがなんだか。

 廊下でバタバタと足音が響き、黒髪の少年と目があった。どろどろに融けた鉄みたいな真っ赤な目に、私は少し身構えた。彼はスタスタと私の傍に駆け寄ると、すとんと腰を下ろした。

「起きたの……?」

 心底心配そうな顔をするので私は話を合わせてうんと頷いた。
 たったそれだけで、少年は顔の緊張を解いた。

「まあ、君のことだからそう簡単に死ぬわけないと思ってたけどね」

 へそ曲がりな少年である。
 言葉とは裏腹に私の無事を嬉しそうにしてくれているじゃないか。
 はにかむ顔を無理に抑えつけている。こうも喜ばれると誰だか判っていないことがひどく申し訳ない。私なんかを心配する貴重な存在なのに。
 なんとかして思い出せないかとじろじろ見ていると、少年は怪訝そうに言った。

「痛む? 声出ないの?」
「う? ううん。出る。出るよ。大丈夫!」

 慌てて否定した。
 それを疑いの目で見る少年は、私の蒲団を剥いだ。

「っ……!」
「なんだ。傷が開いたわけじゃないんだね。いちいち驚かせないでよ」

 蒲団を元に戻した。
 一瞬やばい人なのかと思った。

「紛らわしいんだから」

 小言を呟いて、横になったままの私を見下ろした。私がぱちぱちと瞬きをする。
 彼はなんだよと言いたげであったが、勝手に赤くなり、口をつぐんでしまった。

 沈黙。

 ボロが出るので私からは何も言えない。向こうが喋るのを待っているのに、なかなか喋ってくれない。
 この男の子は誰だろう。長い刀を背負っているが、私には剣道部の知り合いはいない。遠い親戚なら可能性も僅かにある。
 彼が口を開く前に、トトトと床板を鳴らして現れたのは紫がかった白髪の男性だった。

「気づいたか! 其方は爺の寿命をいくつ縮めれば気が済むのやら」

 笑って近づく青年は、私を見てふっと眉を顰めた。

「其方は独神だぞ。覚えているな?」

 優しい声色が記憶の扉に触れた。
 独神。私は独神。
 何かのスイッチが入ったみたいに、頭がすっきりしてくる。

「なんとなくは……」

 えっと言う顔をして私を見る少年にごめんと頭を下げ、私は記憶を掘り返す作業に集中した。
 白髪の人は見た目は若いが中身は老人という設定。
 黒髪の少年……は、少年というほど若くはなく、かといって大人と言い切れない年下設定。
 …………いやいや設定ってなんだ。個性をカテゴライズするものじゃない、失礼だ。
 二人はハジメマシテではない。そこまでは判るが彼らを思い出す決め手に欠ける。

「致し方ない」

 白髪のおじいさんは四つん這いになって私に迫った。あっという間に覆い被された。逃げ場はない。端正な顔が近い。

「其方と儂はな、祝言を挙げる関係だ」

 祝言……って、確か結婚のことで。
 私、この人と結婚した、ってこと!?
 見た目は良いけど、歳の差あり過ぎでしょ!?
 学生で人妻になった私もどうかしてる。卒業するまで待っても悪くないでしょ。
 おかしい。なんかおかしいな。
 ……学生ってなんだっけ。独神でしょ、私は。

「白無垢に包まれた其方は見違えるほど美しくてな、儂は殆ど目を合わせられなんだ、多分」
「事実無根ですよね!!!! やめてくださいよ! 記憶が曖昧な人間に嘘の記憶刷り込むの!」
「なんだ騙されぬのか」

 すまんすまんと軽く笑っているが、すまんで済むものじゃない。
 こんなことされては、おちおち記憶も飛ばせない。

「ちょっと! 本当に僕が誰だか判ってるの? ねえ?」

 一方のモモタロウくんはヌラリヒョンさんを押しのけ、私に詰め寄ってきた。

「モモタロウくん、でしょ。ここが八百万界だってことも、私が刺されたことも、ちゃんと判ってる」

 包帯で膨れた自分の腹をそっと撫でた。
 日本刀が身体を貫通したはずだが、よくもまあ医療技術の劣った世界で無事でいられたものだ。
 そういえば、モモタロウくんにボコボコに殴られた時も怪我の治りが早かったような。となると治癒力は独神由来か。

「じゃあさ」

 しんと鎮まり、庭の葉擦れの音さえ止んだ。緊張感が高まる。

「あの日、君は誰に刺されたの」

 心臓の音がドクンドクンと大きく響く。唇が重くて、言葉を紡げない。
 二人の視線が蛇のように私に巻き付いて、じわじわと締め上げてくる。
 膠着状態が続いていると、ありがたいことにシュテンドウジさんが部屋に入って来てくれた。
 タイミングが良すぎるので廊下で聞き耳を立てていたのだろう。

「おれにも聞かせろよ。ここまで運ぶのに協力してやったんだぜ? 手間賃代わりに言いな」

 重い雰囲気にメスが入り、私はふっと息を吐いた。

「私の傍に顔を隠した人、いたでしょ。竹藪で見つけた人。あの人、オダノブナガだったの」

 肌がちりっとひりついた。
 これが殺気であることを半年の八百万界生活で知っている。

「ノブナガは、自分なら私を殺せるって言ってた」

 八百万界でもトップレベルに強いモモタロウくんでも私を切り伏せることは出来なかった。
 活動中の富士山も私を殺せなかった。
 なのにノブナガだけがいとも簡単に刃を突き立ててみせた。

「私の殺し方なんて、私も知らないのに」

 不可解なのは、彼は私に以前会ったような口ぶりだったことだ。
 私もまた、一目でオダノブナガだと判った。
 となると、私たちはどこかで会ったことがあると考えるのが自然だが、一切記憶がない。
 ぽんぽん記憶が曖昧になる私であるが、八百万界の始まりはいつも遠野だ。
 これはいつだって変わらない。
 そこから東京へ行って、西へ西へと移動し、京都へ辿り着いた。
 この間にオダノブナガの名を耳にしたのは鳴海宿が最初だ。
 高札に書かれた「オダノブナガ」と町民の会話内の「オダノブナガ」。顔は全く知らない。人相書きは見ていない。
 なのにどうして、彼がオダノブナガと気づけたのだろう。

「どうしてあの人は私を知っているんでしょうね……」

 私に向けられた優しい眼差しが頭から離れない。初対面の人間に注ぐものではない。
 思い返せば、日本刀の刺し方もどことなく慈愛に満ちていたような……ことはないな。
 あれは確実に殺しにきていた。
 私の中で彼の評価が定まらない以上、まだみんなにはあの日のことは伏せた方が良いだろう。

「そう。判った」

 モモタロウくんがすくっと立ち上がる。

「しばらく暇を貰うよ」
「ちょ、ちょっと!」

 追いかけようとしたが腹が痛んで立てなかった。
 穴の空いた腹を押さえて、その遠くなる背中へ投げかけた。

「帰る気あるんだよね?」

 念を押した。

「あるよ」
「ちゃんとこっち見て言って」

 私と目を合わせて、改めて言った。

「戻るよ。じゃないと意味がないから」

 行ってしまった。
 あっという間のことだった。

「泣いて追いかけねぇのか?」

 私は曖昧に笑った。

「いやいや……あれが聞いてくれる顔に見えます?」

 二人は確かにと肩を竦めた。
 言葉を交わさなくても今のモモタロウくんが考えていることは容易に察せられる。
 あの日私に一番近い所にいながら、刺した瞬間を見ることもなかった。血を流して倒れる私を目撃した時はどれほどショックだったろう。
 それもモモタロウくんは私の護衛だった。
 私の油断が招いたことなのに、自分を責めただろう。今もきっと続いている。
 私の言葉では彼の苦悩は晴れない。私には止める権利がない。

「戻って来る気があるようですし、あれこれ言いませんよ」
「意外と冷めてんじゃねぇか。それなら大丈夫そうだな」
「はい。大丈夫です」

 嘘だって平気でつける。
 だから私の方は大丈夫。

「じゃあ次はおれの話だ」

 シュテンドウジさんは言った。

「子分たちに大きな怪我はなかった。けどもう少し遅けりゃどうなってたか想像したくもねェ。おまえが行けって言った判断は正しかった。……けど肝心のおまえがこのザマだ」

 他人に指摘されると情けなくなってくる。
 私だってこんな風穴は予想外だった。

「悪かった」

 シュテンドウジさんの頭がすっと下がり後頭部が見えた。
 泣く子も黙る鬼の頭領の頭だ。ずっしりと重い。

「いやいや! やめてくださいよ!!」
「おまえに協力してやるって話だったろ。結局ちょっと足止めしたくらいで何の役にも立ってねェ。いねェ間におまえの腹が抉られたこと、悪いと思ってんだからな!」

 シュテンドウジさんに責任があったなんてちっとも思っていない。
 いつも通り行き当たりばったりの私に対し、ノブナガはきちんと用意をして挑んできた。
 そりゃ勝ち目だって向こうにある。
 負けるべくして負けたのだ。シュテンドウジさんが頭を下げる必要はない。

「おまえと過ごして借りを返すのも考えたんだけどよ、京が完全にノブナガのもんになっちまって、ちっとばかし厄介なんだ」

 それが本当なら、私の所にいる場合ではない。
 大江山へは長い山道を歩かなければならない。そこをノブナガ軍の大軍が塞げば、鬼たちは大江山に籠城を余儀なくされる。
 豊富な資源と人材を持つノブナガ軍に居座られて、勝てるビジョンが見えない。絶望的だ。

「おれらは人になんざ負ける気はしねェ! 戦って死ぬなら本望だ」

 膝を叩いてシュテンドウジさんは吠えた。

「……けど中には逃げてェ奴もいるだろ。そん時はここに置いてやってくんねぇか」

 置く?

「ああ。おまえまだ見てねえんだな。ここはすげーぞ。最初っから結界は張ってあるし、部屋数は多いし、水も豊富で、風呂もデカイ。二百くらい住めるんじゃねえか?」

 なにそれすごい。
 驚く私にヌラリヒョンさんが説明する。

「其方が夢で見たと聞かせてくれたろう? 儂はここなのではと思っておるのだが、後で見てもらえるか」
「え!! あれ現実の話だったんですか!?」
「恐らくな」
「で、どうなんだ」

 そう結論をせっつかれても、そもそも建物の全貌を見てもおないのに。
 でもまあ場所を提供するくらい良いだろう。

「良いですよ。部屋には困らないらしいですし」
「おれたちがどういうもんか判ってるよな?」
「勿論。だから住むのは構わないけど壊したら修理はしてもらいますよ。モモタロウくんの説得は私に任せて下さい」

 モモタロウくんだってオダノブナガが鬼を殲滅してくれるなんてラッキーとは思わないはず。
 過ごすうちにトラブルは起こるだろうが、その時はまた考えれば良い。

「言ったな! 約束破るんじゃねえぞ!」
「破りませんよ! それより危ない時は早めに逃げて下さいよ!!」

 避難場所に選ぶくらいだからここは京から遠いのだろうか。
 結界の強度は。
 何も判っていないのに大人数を預かる約束なんてして良いものなのか。
 でも真に迫っていたシュテンドウジさんの願いだ。断ることは出来ない。

「たまには頭目らしくしてみただけだからな! 次会う時はノブナガの首を土産にやるから待ってろよ!」

 用は済んだと、すくっと立ち上がった。

「おまえの元気そうなツラも見たことだしおれは山に帰るぜ。じゃあな」
「え。え。え、ちょっと!?」
「名残惜しいのか? さてはおれに惚れたか」
「なわけないでしょ!」
「そりゃ残念だ」

 にやりと笑い、そのまま小走りで行ってしまった。
 部屋には私と、ヌラリヒョンさんと。二人。
 起きてまだ三十分も経たない間にみんな去っていく。
 もしかして、ヌラリヒョンさんも……。

「判りやすいなあ。其方は」

 呆れたような笑みだ。

「じゃ、じゃあ……」
「儂はまだ遠野には戻らぬよ」

 心の底から安堵して目を固く瞑った。
 濁流のように襲い掛かる情報に疲れてしまった。

 京がオダノブナガの手に落ちた。周辺地域も全てオダノブナガの領土となっただろう。大江山のような抵抗勢力はいくつもあるだろうが、勝機があるとは言い難い。
 実際に対峙してみて、手練れは少なかったが数に圧倒された。
 悪霊と違い、全員が八百万界で生きる普通の人だったのも戦いづらかった。
 これだけで苦戦していたのに、私たちはオダノブナガ率いる、ヒデヨシやアケチやらノウヒメやらに会っていない。つまり末端相手にこのザマである。
 力自慢のシュテンドウジさんが子分を留守番させてでも撤退の準備を整えているのが、この勝負の未来を表している。
 オダノブナガは、今までのようになんとかなる気がしない。

「少し疲れたろう。儂は席を外すからゆっくり休むと良い。それとも腹に何か入れるか」
「お茶を一杯頂いても良いですか?」
「判った。すぐ用意する」

 そう言ってヌラリヒョンさんも中座し、部屋には私だけになった。
 みしみしと床板を踏む音が次第になくなり、静まり返った。
 猛スピードでこぼれ落ちていく。
 どんどん。大切なものが。

 モモタロウくんは行ってしまった。
 どこへ行くのか、何をしに行くのかも聞けていない。
 行くな。って、言えば良かったのかな。
 でも言えなかった。止められなかった。
 私が止めたら、モモタロウくんは感情の行き場がなくなってしまうだろうと思ったから。

 シュテンドウジさんも、私の口から子分の身の安全を約束させるとすぐにいなくなった。
 あっさりとした別れだった。名残惜しいとも思わせてくれなかった。京でのことに礼も言っていないのに。

 みんなそれぞれ自分のやるべきことを理解し、実践している。
 なんの思想もない私はせめて、邪魔をしないようにしよう。

「待たせたな」

 小さなお盆の上には、お茶ときゅうりの浅漬けがあった。

「このくらいなら口に出来ると思ったのだが無理はせぬようにな」

 礼を言って、お茶を一口飲んだ。
 ごくんと飲むとつつーと胃の方へ流れていく。飲食に問題はなさそうだ。
 厚く切られたきゅうりを齧るとボリッと大きな音を響かせた。
 一人だけの咀嚼音が恥ずかしくて、なるべく静かに噛み砕く。
 きゅうりの瑞々しさに塩っけが入っていくらでも食べられそうだ。
 腹を斬られたとは到底信じられない。

「あの、今回は何日寝ていたんですか」

 お茶を啜りながらヌラリヒョンさんは考えて言った。

「一週間くらいだな。ここに来てからは一日だ」
「長い間すみません。手当ても。ありがとうございました」
「ああ」

 いつものように気にするな、とは言ってくれなかった。
 怒っているのか。それとも呆れているのか。
 私はお茶を口に含みながら全力で理由を探した。
 さすがに戦中に一週間もお荷物に負わされて堪忍袋の緒が切れたのか。
 何度倒れれば気が済むのかと呆れ切ったのか。
 結局答えは見つからず、ただ気まずい時間が流れた。
 頼みの綱であるお茶ときゅうりがなくなると、ヌラリヒョンさんが「なあ」と声をかけた。

「其方には後でここを見て回って欲しい。其方にしか気づかぬこともあるだろうからな」
「じゃあ今から行きましょう」

 名誉挽回のチャンスだ。
 固まった下半身にぐっと力を籠め、少しずつ膝を立てた。
 そのまま体重を移動させて立ち上がると、頭がくらりとして目の奥が痛んだ。
 頭を抑えてじっとしていると、だんだんと視界が落ち着いてくる。
 ゆっくりとなら歩けそうだ。

「無理するでない」
「いえ大丈夫です。行かせて下さい」

 ヌラリヒョンさんは頷き、私に合わせてゆっくりと歩いて縁側へ出た。
 日差しの強さに目を細めて、眉を顰めた。
 すると頭の上に柔らかなものが被せられた。

「儂ので良ければ使うと良い。気休め程度にはなるだろう」

 私は一回り大きな帽子を押さえて、礼を言った。
 その優しさからいつものヌラリヒョンさんを感じて、私は少しだけ調子を取り戻した。

「いつものじゃーじではないから、色々と気を付けておくのだぞ」
「判りました」

 早速浴衣と裾の乱れを直した。京からの逃亡中に調達したにしては丈がぴったりだ。袖の長さも丁度良い。
 まるで私のために誂えたみたい。
 縁側からまっすぐに歩いて行くと、水に浮かんだ鳥居が見えてくる。
 良き所で身体を反転させた。
 赤い屋根。大きすぎる神社っぽい建物。整った庭に、いくつかの建物。

「そうです! これです! タマモゴゼンさんがいた場所!」
「ここはオノゴロ島と呼ぶ。……知っているか?」

 おのごろじま?
 さあ。聞いたことがない。

「全然。島っていうと、私を連れて海を渡ったんですか? 大変だったでしょう」
「大変……だったのかもな」

 歯切れが悪い。
 私が寝ている間に何があったか気になるが、今はやめておこう。
 今日のヌラリヒョンさんはいつもと違う。
 なんとなく空気がぴりついていて近寄りがたい。
 機嫌を損ねたくないので藪は突かない。

「この島は全て独神の領域だ。其方なしでは結界に阻まれ上陸することも出来なんだ。今後は自由に使うと良い」
「……え!? 私が!? 本当に使っていいものなんですか?」

 突然のことに声が大きくなった。

「島は其方を主と認識している。周辺住民もこの島が独神のものであるとの認識だ。戸惑うだろうがここが其方の領地であることは違いない」

 今後私たちが戦ったり、休んだりするには、島を丸ごと手にしているのはプラスに働くだろう。
 こんなもの対価もなしに貰うことに躊躇いはあるが、どうせ独神なんてものもよく判っていないのだ。
 私を鍵に解放された島だというならば、ありがたく貰ってしまおう。

「じゃあ……使わせてもらいます」

 流れで島と家が手に入ってしまった。RPGみたいなノリだ。

「其方が話してくれたように、建物は神社系の造りで、祭神の住まう本殿、その前に参拝者が出入りする拝殿がある。そしてこの本殿の左右に小間使いに使わせるような空き部屋が広がっておるな。儂はこの形は初めて見る」

 ヌラリヒョンさんが判らないなら私はまーったく判らない。

「この部屋数を有しながらどの部屋も塵一つなく、風もよく通されていた。管理人がいそうなものだが生憎ここには動物一匹見当たらぬ」

 いないんだ。
 だったらタマモゴゼンさんと仲良くしていたその人は。
 何重にも重なって聞こえた楽しそうな声は。
 みんなどこに消えてしまったのか。

「なんか……寂しいですね」
「何故そう思う」
「だって……カラッポですよ? 中身がない箱ってがっかりしませんか」

 さっき去ったばかりの二人を思い出すと胸が苦しくなる。
 二百以上住める住居があったって、人がいなければ意味がない。
 広いからこそ余計に寂しさが募ってしまう。

「そうかな。儂はこれが始まりなのだと感じたぞ」

 そう言ってヌラリヒョンさんは建物を見上げた。私も真似てみる。
 駆け回ってはしゃぐ声が聞こえてくるような気がした。

「じゃあ、今後はここに遊びに来てもらいましょうあk」
「それがいい。美味い茶を常備しておかねばな」

 旅の途中に会ったひとたちは沢山いる。
 カグツチさんやイワナガヒメさん、コノハナサクヤさん、ニニギさん、あとイザナミさんも。
 タマモゴゼンさんが心底嬉しそうにしていたように、私も訪れたひとに笑ってもらえたら良いな。

「早速だが自分の領地にしっかり目を通して貰おうか。お尋ね者の儂らにいつ次の刺客が来るか判らぬからな。いつでも迎撃出来る準備を整えよう」
「お。お尋ね者……って?」

 ヌラリヒョンさんは意外そうに言った。

「あれだけ京で暴れた儂らを奴等が放っておくわけがなかろう」

 言われてみれば。
 京でめちゃくちゃやっていた。

「そう言えばサイゾウさんは?」
「あの者なら周囲の見回りをしているそうだ」

 本物か、果たしてどっちだろう。
 どちらにせよ、まだ私たちの仲間ではいてくれているようだ。実感はないが。
 私が大怪我をして敗走しても仕えてくれるなんて、忍が契約を守るというのは本当のようだ。

「じゃあ後でお話を聞かないとですね」

 今後の話がしたい。
 出来ればヌラリヒョンさんのいない場所で。
 そんな私の心を読んだのか、ヌラリヒョンさんは私の真っ直ぐに見ながら警告した。

「忍と近づき過ぎてはならぬぞ。確かに便利な存在だが、ここで得た情報は解雇後にどこにばらまれるか判ったものじゃない。程よい距離を保つか、死ぬまで雇用するか、良きところで始末するか、だ。それらが嫌なのであれば、最初から関わってはならぬ」

 言っていることは理解できる。
 一先ず私は頷いた。

「肝に銘じます」
「なら良い。では見て回ろうか」

 建物は先程の本殿の他に目立つものが四棟。後は蔵や馬小屋やちょっとした物置がいくつか。井戸も点在しているが、飲み水として機能するかは不明だ。
 建物の一つは五重塔のような建物だった。部屋の中央には大きな金属の球体があり、赤青茶の管が繋がっている。壁際には大きな棚が設置され、ガラス瓶や巻物が詰まっている。薬棚の一つを引き出したが中には何もなかった。

「実験室みたいです」
「南蛮の医師を思い起こすが、この中央の球はなんであろうな」

 次は図書館のような建物だった。山のような書物と巻物が長机に積み上がっている。床にはパリパリに乾いた筆が転がっていた。

「う。この本漢字しかないんですけど……」
「兵法について書かれておるな。しかしこれは眠くなるな」

 次は紫陽花に似た花に囲まれた建物で、渡り廊下で二棟が繋がっていた。目の前には畑があり、傍には茶室もあった。

「畑仕事と休憩所?」
「小屋には農具があった。だが畑にしては随分小さいな。作物の為ではなく花園ではないか?」

 最後が一番よく判らなかった。炉のある土間と八畳間が四つ。

「ここは離れですかね」
「そんな気もする」

 本殿の敷地にある主な建物はこんな感じだ。独神の私が見ても何一つぴんとこない。

「神社ってわりには戦の勉強施設がありますし、なんだかよく判りませんね」
「常に張られた結界から考えるに、ここは島外の攻撃を受けることが多かったのではないか。自衛の為に力をつける他なかったのだろう」

 そういえば、神社の主であるからには、独神は神的立ち位置なんだろうか。
 じゃあ、私って神族?
 うっそだあ。
 どう見たって人族でしょ。

「しかし、オノゴロ島と言うと元々はイザナギとイザナミによってつくられた最初の島だ。それがいつ独神の島となったのか」

 不思議そうに言うヌラリヒョンさんに釣られて私も首を傾げた。
 今度会った時にイザナミさんに聞いてみよう。

 一通りの建物を見た後は拝殿に戻った。さっき寝かされていたところである。
 なんで外から丸見えのところに蒲団を敷いたのか不思議だったが、聞いてみると風通しが一番良く、私が起きた時にすぐに気づけるから、ということだった。
 気がついた今は部屋を使えば良いだろうという事で拝殿から短い渡り廊下で行ける部屋に案内された。

「なんでここ? 他にも沢山部屋があるじゃないですか」

 一人だけ離れた部屋なんて嫌だった。

「拝殿に直通の部屋なら主である其方が相応しい」

 そうかもしれない。
 でもその主である私は嫌だった。

「気に入らぬようだな」

 ヌラリヒョンさんはふう、と息を吐いた。聞き分けのない私をさてどうしようかと思っているのだろう。

「そうだ。使用人部屋が並ぶ廊下から行ける建物は風呂だったぞ」
「本当!?」

 さっきシュテンドウジさんが言ってた。大きなお風呂だって。

「一足先に使わせてもらったが、いやはや、きっと満足できるぞ。少し見てきてはどうだ」
「はい! あ、じゃあついでに身体も流してきます」

 夏場に一週間も入浴していないのは汚すぎる。起きてすぐ人がいたからそのまま接したけど、みんな私のこと、汚いって思ってないかな……。
 ぱっと見小綺麗なのは寝ている間に誰かが世話をしてくれたのだろう。
 誰がどこまでしてくれたのかは判らない。判らないままにしておこう。
 恥ずかしいから。

「この部屋には其方に合う替えの浴衣や着物が揃っていた。手拭いは風呂。儂はその辺をぶらついておるから行っておいで」

 その言葉に甘えて、部屋の桐箪笥を次々に開けていくとヌラリヒョンさんはすぐにいなくなった。
 中にある着物は面白いくらい自分好みで、何を着ようか迷うくらいだった。
 私は涼し気な白くて青い花の模様が入った浴衣を取って風呂へ行った。
 風呂は別棟の建物で、入ると左右に入口が分かれており本物の銭湯のようだった。
 八百万界は男女の境目が曖昧で大衆浴場では混浴の所もあるのに、である。
 わざわざ分けてくれているのは私としてはありがたい。
 暖簾がかかっているわけではないので、私は一先ず右側へ入った。
 着替えを置いて下さいと言わんばかりの棚があり、そこに持ってきた荷物を置く。
 木の引き戸を開けると、檜で造られた大風呂がどんっと構えており、壁際には身体を洗う洗い場がある。
 多少違いはあるが現代の銭湯と殆ど変わらない。
 大風呂に仕切りがあるのが不思議で、一つずつ手を入れてみると、なんと温度が異なっていた。
 熱い風呂でさっぱりするのも良いが、今日はぬるめの風呂でのんびりしよう。
 洗い場で身体を洗った後は、足から慎重に風呂へ漬けていった。
 ぬるいお湯に思わずにんまりする。気持ちが良い。 
 どういう原理だか、壁から飛び出た竹からじゃばじゃばと湯が出ている。
 沸かす装置が見当たらないが、源泉から直接引いているのだろうか。
 贅沢な……。
 この風呂に毎日入れるなんて幸せ過ぎる。

「腹に穴開いてすぐ風呂入らねぇ方が良いぞ」

 叫ぶ前に口を押えられた。後ろに誰かいる。

「叫ぶとヌラリヒョンにバレる。落ち着いてくれりゃ離れるから合図してくれ」

 声の主はサイゾウさんだと判る。
 私は何度も呼吸を繰り返し、頭が回るようになってから頷く。口元を押さえつけていた手が離れた。
 サイゾウさんの気配も少し遠ざかる。
 私は持ち込んでいた手拭いで前を隠した。サイゾウさんはまだこちらを見ているのだろうか。それとも別の方を見てくれている。
 下手に確かめられないので、私は真っ直ぐ前を向いてじっとした。

「風呂に浸かれるってことは、ほぼ完治したと見て良さそうだな。とンでもない治癒力だぜ」

 言われなきゃ気づかなかった。
 普通怪我をしたら風呂には入らない。患部が湯に入らないように無理な体勢で湯船に使ったり、片手でシャンプーしたものだ。
 そうしようとしなかったのは、もう違和感がないくらいに治ってるのだ。一週間前に刀が腹を貫通したのに。

「報告。師匠と話がついた。折を見て会いにくるってよ」
「ありがとうございます。助かります」

 モモチタンバさんと話せるのは願ったり叶ったりだ。
 今後の事を話しておきたい。
 でもその前に。

「入浴中に堂々と入って来るのはちょっと……その……理由は判りますけど…………」

 私とヌラリヒョンさんが離れるタイミングはここだって言うんでしょ。
 それでも出来ればここ以外のタイミングで来て欲しかった。
 または事前に一言言って欲しかった……けど、無理だよね。

「そっか。そうだよな……ごめんなおかしら)

 謝らせたのは自分なのに、いざ謝られると器の小さい自分が情けない。

「詫びはするけど、今後もこういうことはあると思ってくれ」
「判った。私も慣れるようにします」

 トイレよりはマシって思おう。
 サイゾウさんだって仕事なんだから。

「なんか処分はねぇの? 忍が上の機嫌を損ねたンだぜ。なにか罰があるもンだろ」
「ないですよ。なんですその恐ろしいシステムは……」

 罰則を与えるなんて絶対やりたくない。
 誰かの上に立ったらそんなこともしなきゃならないの?

「おかしら)が良いってンなら良いけどよ。今は良くても後々規則は必要になるぜ」
「じゃあその時考えるので今は良いです」

 その考えにはついていけないな。
 これが世間の常識だというなら、私も今後はやっていかなければならないのだろう。
 自分がモモタロウくんを処分したり、モモチタンバさんを叱責したりする図を思うと気分が悪くなった。
 別の道を探らせてもらいたい。

「うっし。じゃあ改めて。俺は伊賀出身の忍のサイゾウだ。約束通りナナシを主として認めてやる。てことで、今後は俺を好きに使っていいぜ。けど、俺はあくまでおかしら)の忍。他のヤツに従う気はねぇ。例え、そいつの判断がおかしら)より正しくても、だ」

 今、さらっと言われたが、私の責任ってもしかしなくても重大じゃないか。
 この上司の判断では被害が出ると判っていても黙って従うということになる。

「……命が掛かる場面では自己判断で動いても良いことにしません?」
「大規模な作戦で個人が勝手に動くなんて全員死んじまうぜ? おかしら)の方が先を見据えてた場合悲惨だぞ」
「でも現状サイゾウさんの方が物事を判って、」
「忍を案じることはねぇよ。どンだけ腕が立つ忍だろうと、所詮使い捨てだ」

 カラッとした笑いに薄寒くなる。本気でそう思ってる。忍なんてって。
 理解し合えない溝に惑う私にサイゾウさんは人に好かれそうな笑みのまま言う。

「おかしら)は俺のことまだ警戒してんだろ。だったら俺に決定権持たせるもんじゃねぇって。ま、これから信用してもらうけどよ。もうちょっと時間くれよな」

 無能に使われて死ぬこと。
 仕方がないで済むものじゃないのに。
 どうしてそんな。自分のことを蔑ろにするんだ。
 にこにこしていられるのは、なんで。
 八百万界の人たちの考えはよく判らないと何度も零したことがある。
 その中でも、忍であるサイゾウさんの考えは異質だ。
 自分の命が捨て石にされても当たり前と受け入れている。
 この様子だと、私がやめてと言って聞き入れてもらえるとは思えない。
 かしら)である私が、間違った判断をしないことしか、死を回避出来ないではないか。

「……私、早くサイゾウさんに安心してもらえるように、頑張りますね」
「応援してるぜ」

 他人事みたいに言ってくれる。
 私に忍を指示するスキルがないのを判っているくせに。
 もやもやするが、これについてはモモチタンバさんと話した時に再度確認しておこう。

「あの、サイゾウさん。色々とありましたが、今後はよろしくお願いしても良いですか」
「おう。任せな」

 急に人の気配がなくなり、私が振りかえると彼は忽然と姿を消していた。
 ひとまずゆっくりと湯に浸かった。
 気持ち良いのに、気が重かった。

 風呂からあがった後は、涼をとるがてら本殿を見て回った。
 がらんとした部屋が続く。タマモゴゼンさんの部屋にも行ってみたが、他と同じく空であった。
 私は薄れていく彼女の笑顔を思い出した。

 ────あるじ)殿

 カスタードみたいに甘ったるくて少し重くて胸焼けしそうなそれが、気になって仕方がない。
 オノゴロ島の主とくればきっと独神である。
 私も同じく独神であるが、その人のように多くの人たちと仲良く出来るのだろうか。
 空き部屋が一つもなくなるくらいに集められたら、オダノブナガにも悪霊にも勝てるのか。
 ふらふらと歩いていると、ヌラリヒョンさんに咎められて部屋へと寝かされた。

「少し前まで意識を失っておったのだぞ。少々回復力が強いからとはいえ調子に乗らぬように」

 食事は白飯に焼き魚だった。米は蔵の中に俵で二つほど転がっていたそう。魚の方は島で捕れたものだという。

「島は今のところ儂らしかいないが、周辺の島には住民が住んでいる。海を渡れば身の回りの物は入手出来るが、あまり多くはなさそうだ」
「そもそもなんですけど、ここって地図のどの辺ですか?」
「……そうか。そこから教えねばならなんだ」

 床に指で島の描く。私の知る日本と同じ形を描き、淡路島の辺りをとんとんと叩いた。

「ここだ。京から近くて驚いたろう」

 なんとまあ、攻めやすそうなことだ。ノブナガが海軍を統べていないことを祈りたい。

「結界の強度も判らぬから防御はやりすぎるくらいで丁度良かろう。島が抑えられた時のため脱出の海路も必要だ。食料や生活用品の調達も考えねばならぬし課題は山積みだぞ」

 オノゴロ島について、そして今後の方針についてレクチャーを受けつつ食べ終えた。
 その後はこの本殿を隅々見て回りたかったのだが、ヌラリヒョンさんはにこりと笑顔を浮かべたまま私を部屋に留めた。休め、ということだ。

「もう大丈夫ですって。なんともないですよ」
「はっはっはっ。面白い冗談だ」
「冗談じゃないですって! 本当です!」

 常識的には大丈夫なわけがないが、私に関しては問題ない。
 入浴も問題はなかったし、今は歩いていてもズキリとしない。
 なのにヌラリヒョンさんは寝ろ寝ろと私を追いやってくる。
 戸の前に陣取って外へ行かすまいと阻んでくるし、どうしようもない。

「もう傷だってないですって」

 これだけ痛みを感じないのだ。きっと傷口は綺麗さっぱり消えているはずだ。

「ならば証拠を見せてみよ」

 見せてやろうとも。
 Tシャツを捲る動作をして違和感に気づいた。そうだった、今は浴衣を着ていた。
 腹だけはだけて見せるとなると、難易度が高い。
 私は蒲団に座り、帯を引き上げ、臍下あたりの襟を掴んで、腹部だけをぱっくり開けてみせた。
 私も傷に視線を落としてみる。

「…………痕が残るであろうな」

 傷があった皮膚が変色して、少し盛り上がっていた。遠目で見れば気づかないだろう。
 だが、裸になって、痕に触れる度に刺されたことを思い出す。
 この先もずっと、不甲斐ない自分を忘れさせてくれない。
 オダノブナガのことも。
 私は思わず浮かんだオダノブナガの顔をかき消し、腹の傷を隠した。
 浴衣の乱れを直していると、ヌラリヒョンさんの手が帯にかかった。
 身の危険を感じて飛んで逃げるところだが、相手はヌラリヒョンさん。
 私はじっと待った。
 ヌラリヒョンさんは眉尻を下げた。

「すまぬ。困らせてしまったな」

 身を引いたヌラリヒョンさんは正座をして居住まいを正した。畏まった空気に私も同じく足を正した。
 ヌラリヒョンさんの視線は私の顔を見ていない。ずっと腹を見ている。
 穴が空くほど見つめる姿に、私は居たたまれなくなった。
 ヌラリヒョンさんは視線を下げたまま言った。

「儂はな、後悔しているのだ。欲をかいた。其方の身体に傷をつけた。もう綺麗な身体には戻れぬ」

 傷に対するショックはない。
 痕が残ると言っても私以外はみんな古傷だらけでようやく同じになれたような気でいる。
 しかしヌラリヒョンさんはそうではないらしい。申し訳なさそうにする姿に私もばつが悪い。

「……悪いのは私です。私が何も考えてないから」
「そもそも戦いの素人を戦場に連れ回す無謀さに問題がある。其方に能力がないことは承知していたのに」

 違う。素人のくせに調子に乗って歩き回っていた自分が悪い。
 ヌラリヒョンさんは悪くない。遠野の頃から何度も警告されていた。私の心の声を聞いてくれた。
 その度に私は行きますやりますと言ってきた。
 ヌラリヒョンさんのせいじゃない。全部私が決めたことだ。
 だからそんな顔しないで。
 いつもみたいに飄々と笑っていて欲しい。

「気にしないで下さいよ。私、全然困ってませんよ!」

 声のトーンも普段より明るくして言ったが、ヌラリヒョンさんは私を見て小さく息を吐いた。
 苦笑いを浮かべている。
 この様子では何をしても響かない気がする。
 私は大人しく口を閉じた。動かないヌラリヒョンさんを見つめた。  
 今まで危険な場面には何度も出くわした。けれど、ここまでヌラリヒョンさんが肩を落とすことはなかった。
 心配性の塊のモモタロウくんとは違い、きっと怪我はすまい、と私程ではないが楽観視していただろう。
 実際、私だけいつも無事だった。
 今回初めてじゃないだろうか。私だけが大怪我をしたのは。
 モモタロウくんもシュテンドウジさんも大勢と戦ったが、大した傷は見受けられなかった。
 ヌラリヒョンさんも。
 百鬼を率いて指揮する立場だったので、直接刃を交えることは少なめだったは──────
 私は、ヌラリヒョンさんの湯上り着の襟を捲った。失礼だとか考えなかった。やらねばならないと思った。

「はは。これは大胆な行動に出たな」
「なんですこれ。……めちゃくちゃ傷深いじゃないですか」

 首から右肩にかけて赤く滲んだ包帯がはりつけられていた。
 私の傷よりも酷い。

「いつの? 京の時ですか?」
「忘れた」

 忘れるわけない。知られて何が不都合だって言うのか。
 問い詰めてやりたいけれど、私はぐっと堪えた。

「……。お医者さんに見せました?」
「そこまでする必要はない。じきに治る」

 がくんと力が抜けた。そんなに酷い傷をずっと隠していたのか。
 それなのに私を心配して。医者だって私のせいで診せられなかったんじゃなかろうか。

「……其方に悲しい顔をさせたくなかった」

 手が伸びてきた。私は目を瞑って待った。
 頭の上に来るはずの感触がなかなか現れず、目を開くとヌラリヒョンさんは困った顔をしていた。
 撫でられるのを待ってしまった自分が恥ずかしい。
 誤魔化す為にも立ち上がった。

「怪我人なんだから早く寝ましょう。お部屋でゆっくり休んで下さい」
「大したことはない」
「じゃあ外も暗いのでもう寝て下さい。町じゃないのですることもないでしょう」
「一人寝で平気か」

 平気じゃない。

「大丈夫ですよ。日本の時は一人寝しかしてないんですから」
「強がりが上手くなったな」

 こんな時にまで心配をかけている。

「気にしないで下さい。こんな時にまで気を使われたら私、情けなくてヌラリヒョンさんの傍にいられない」

 だから一人でゆっくり休んで欲しい。頭を下げて頼むと、静かに「判った」と言って出ていった。
 私は冷たい床板に座り込んだ。あの怪我には血の気が引いた。私より何倍も酷い傷だった。私の傷を案じながら、自身の傷を悟られないようにしていた。
 私のために。じゃない。
 私のせいで。
 私がしっかりしていないから隠していた。

 今回の戦いは最悪だ。
 何にも得られなかった。失うばかりだ。
 モモタロウくんはいなくなるし、シュテンドウジさんもいなくなるし、ヌラリヒョンさんは怪我をした。
 オダノブナガの野望を食い止めることすら出来ていない。
 大江山も危険にさらしてしまった。
 被害一辺倒だ。
 そもそもオダノブナガに関わろうとしなければ良かったのか。
 熊野が支配されていたのだって、私には直接は関係ない。
 京だって私が踏み込まない方がもっと少ない被害で終わっていたかもしれない。
 部外者の私がうだうだと掻きまわした。
 オダノブナガに狙われているなら、京以外で迎え撃てば良かった。
 それか大人しく死んであげれば良かった。一人で。
 モモタロウくんたちとは離れていれば良かった。一緒にいなければ良かった。

 一緒にいなかったら、私は八百万界でどうなっていたんだろう。
 遠野で生きられたかな。変な子供として怪しまれていたかな。
 遠野を下って仙台へ行ったとしても、私は怪しい子供として捨て置かれていた気がする。
 衣食住を提供してくれたヌラリヒョンさんがいなかったら、私は間違いなく乞食だっただろう。
 モモタロウくんは出会いは最悪だったけれど、今は私のことをよく気遣ってくれる。
 心配しすぎなくらい考えてくれて、私のことで平気で傷ついていく。
 大江山の鬼たちも、困っている私をすぐに受け入れてくれたっけ。
 シュテンドウジさんが手を回してくれたから良かったんだよな。

 八百万界のことを考えても考えても良いことばかりが出てくる。
 私の楽しさや幸せには、いつも誰かが関わっている。
 自分の幸せを誰かに壊されたくない。脅かされたくない。
 今まではモモタロウくんやヌラリヒョンさんに火の粉を払ってもらっていた。
 運も良かった。けれど運はいつまでも私に味方してくれるわけじゃない。
 もう運に任せるのはやめる。
 私、強くなりたい。誰にも傷つけられたくない。誰も傷つけたくない。
 私の大事な人を傷つけさせないように守っていきたい。
 そのために、自分を知って、出来ることを強化していきたい。
 具体的な方法は判らない。
 けれど、その方法を知っていそうな人は知っている。

新しい巻に入りました。
なので今回は説明回。

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