全英傑小話-天将-【双代】

カマド    

 春の訪れと共に、カマドは独神と共に新しい農園の準備をすることになった。
 朝露に濡れた草葉が陽の光を受けて輝く中、二人は広大な土地へと足を踏み入れた。

「やったー! ぬし)様と一緒に畑仕事だね! 私の力、存分に発揮しちゃうよ!」

 カマドは目を輝かせて草一面の土地に向かった。
 独神は農園を運営する代表に頭を下げた。

「本日はよろしくおねがいします。早速ですが、皆さんはしばらく下がっていて下さい」
「心配無用。ここの者達も手伝い人です。皆で頑張りましょう」

 独神は首を傾げ、眉を顰めた。

「あの、私は確か、危険なので手伝いは不要とお伝えしたと思っていましたが、行き違いでしょうか」
「いえ伝令係から聞いております。ですが、さすがに独神様だけに任せるのは申し訳なく、人数を集めました」

 胸を張る代表に、独神は頭を下げた。

「お気遣いありがとうございます。……とはいえ、この大人数だと怖いですね」
「怖い、とは」

 突然草まみれの大地に炎が上がった。
 よほど強いのか、枯れ葉でもないのに、ぐんぐんと紅蓮が呑み込んでいく。
 周囲の空気が一瞬で熱くなり、炎の轟音が耳を打つ。

「ど、独神様!? 火事が!!!!」

 代表は顔面蒼白になり、叫んだ。
 一方の独神は一切動じず宥めた。

「大丈夫ですよ。このまま見守って下さい」
「大丈夫なわけないでしょう!?」

 手伝いに来ていた農民たちも一斉に叫び声を上げた。

「大 丈 夫 で す よ」

 慌てふためく人たちを、独神は呪を纏った声で鎮める。
 するとその声には不思議な説得力が生まれ、大混乱になりかけていた群衆を少しずつ落ち着かせていく。
 炎の中から、カマドの声が聞こえた。

「あれ? ちょっと広がりすぎちゃったかな……?」

 カマドは不安を抱きながらも、独神の元へ帰ってきた。
 独神以外が睨むようにカマドを見ていた。気づいたカマドは身体の炎を消し、慌てて謝った。

「ご、ごめんなさい!!! ついやりすぎちゃったんです!!!」

 代表は声を震わせた。

「つい、だって。ついで私の農園を無茶苦茶にする気か! この農園で沢山の雇用が生まれて、安定的に作物をとれれば、多くの人が飢えずに済むんだぞ。みんなの希望を……!!」

 感情に任せて振り上げた手を独神は止めた。
 その仕草は穏やかでありながら、どこか厳かさを感じさせる。

「決めつけるのはまだまだ早いですよ」

 農園を駆けていた炎がふいに消えた。
 炎は跡形もなく消え去り、焼けた大地だけが残った。
 残り火のパチパチという音だけが聞こえる。

「必要箇所しか燃えていませんよ」

 独神の言葉に、人々は驚きの表情を浮かべる。
 畑の予定地だけに灰が積もっている状況に誰もが言葉を失い、ただ呆然と焼け跡を見つめていた。
 しかしカマドは、まだ少し怯えた様子で下を向いていた。まるで叱られた子供のようだった。

「今日の作業はここまでかと思います。後日また来ます」

 独神とカマドはやや重い空気の中、本殿への帰路についた。

「ごめんなさい……」

 カマドは絞り出すように謝った。

「どうして? 綺麗に燃やしてくれたじゃない」
「うん。でも、怒ってるかな……って」

 カマドは不安そうに独神の顔を覗き込んだ。
 独神の表情は穏やかで、微笑みを浮かべていた。

「カマドの火が、新しい命を呼び起こすのに?」
「え……ぬし)様、判ってたの?」
「私を誰だと思ってるの」

 独神はくすりと笑った。その笑顔に、カマドの不安も溶けていくようだった。

「これって火入れでしょ? 火で焼くことで害虫を退治し、灰は植物の栄養となる。昔からの農法じゃない」

 カマドの表情がぱぁっと明るくなった。

「なんだ。知ってたんだね。さっきの人物凄く怒るからびっくりしちゃった」
「あの人も火入れくらい知ってるよ。ただ、あまりに火が強いからびっくりしたんだね」
「うう……。ごめんなさい。もっとゆっくりすれば良かったよね」
「私も事前に説明するべきだったよ。すっかり感覚が麻痺してた」

 二人は互いに反省し、しばらく無言で歩き続けた。

「でもぬし)様。これでたくさんの新しい命が育つよね?」

 独神は静かに頷いた。その仕草に、カマドは安心したように微笑んだ。


 数日後、二人が畑に行くと、灰となった大地から、新しい芽が一斉に顔を出し始めていた。
 柔らかな緑の芽が、黒く焦げた大地を覆い尽くしている。
 春の陽光を浴びて、芽は生き生きと輝いていた。

「わぁ!すごい!こんなにたくさんの芽が!」

 喜びで跳ね回るカマドを見て、独神は微笑んだ。

「さすが神様」

 独神の言葉に、カマドは誇らしげに、でも少し照れくさそうに胸を張る。
 その後、代表が連れてきた農民たちと一緒に畑を耕し、種を蒔いた。
 カマドは時々はしゃぎすぎて小さな火事を起こしそうになったが、その都度消化係として連れてきたツクヨミに鎮火してもらって事なきを得た。
 有用であると判った後も、カマドは農民たちからは遠巻きにされていた。
 独神は何度も説明しようとしたが、カマドは大丈夫と言って制止した。
 農民たちの態度が変わったのは、夜の寒さが厳しく霜害の危険が迫っていた時のことだ。

「このままじゃ、せっかく芽吹いた作物が凍えてしまう…」

 ある農民が不安そうに呟いた。
 カマドはその言葉を聞き、独神に目配せをした。
 独神が頷くと、カマドは畑の端へと歩み出た。

「みんな、ちょっと手伝ってくれる?」

 カマドが言うと、その体から柔らかな光が放たれ始めた。
 農民たちは最初、警戒の目を向けたが、カマドの真剣な表情を見て、協力することにした。
 カマドの指示に従い、畑の周りに石を並べていく。

「よし、これで準備は完璧!」

 カマドが声を上げると、並べられた石に火をつけていった。
 石は不思議な輝きを帯び、ゆっくりと熱を放ち始めた。

「これは…暖かい」

 年配の農民が言った。

「昔、山で焚き火の残り火で温まったことを思い出すよ」

 カマドは嬉しそうに笑った。

「そうなの! 私の火には、長時間じわじわと熱を放つ力があるんだ。この石が畑全体を暖めてくれるよ」

 農民たちは驚きと喜びの声を上げた。

「すごい! これなら霜害から救われるかもしれない」

 カマドと農民たちは交代で夜通し火の番をした。
 朝を迎えると、霜はなく、作物たちは元気に育っていた。
 それ以来、カマドは畑仕事の重要な一員として認められるようになった。
 寒い夜には畑を暖め、虫除けのために煙を焚く。
 時には料理の火として活躍し、みんなで作った料理を囲んで団欒の時間を過ごすこともあった。
 ある晩焚き火を囲んで休憩していた時、一人の若い農民がカマドに声をかけた。

「カマドさん、最初は怖かったけど、今じゃあんたがいないと困るよ。本当にありがとう」

 カマドは照れくさそうに炎を揺らした。

「私こそ、みんなの役に立てて嬉しい!」

 独神はその光景を温かく見守っていた。
 数日共に過ごした農民たちは、カマドの小さな失敗をやれやれとにこやかに受け入れるようになっていた。
 時折起こる小さな火事も、もはや恐れるものではなく、畑の厄除けだと冗談を言い合うほどだった。

 春の陽気の中、皆の笑い声が響く農園には、新しい命の息吹と希望に満ちた空気が漂っていた。

アメフリコゾウ    

「まったく、今日も晴れですか」

 本殿の縁側で、アメフリコゾウは大きな欠伸をした。
 連日の晴天が気に入らず、本殿の見回りをサボって横になっている。
 雨の日が恋しく、ともすればほろほろと涙が出そうな今、誰かと見回りなんて冗談じゃなかった。湿気を帯びた空気が恋しくて仕方がない。

「もう! ここにいたの?」

 独神の声が響き、アメフリコゾウは渋々顔を上げた。

「ああ、あるじ)さま。忙しいのにわざわざやる気ゼロのボクを探すなんて、変なひとですね」

 皮肉げな口調。だが独神は、その言葉の裏側にある意味を感じ取っていた。

「暇でしょう? 悪霊退治の作戦会議に参加しない?」
「はあ? また無駄な会議ですか? まったく、あるじ)さまは相変わらず……」

そう言いつつも立ち上がるアメフリコゾウに、独神は小さく微笑んだ。

 会議の場。炎を操る剣豪、土を操る忍者、雷を呼ぶ力士など、様々な英傑が集う中、アメフリコゾウの小さな姿が際立つ。しかし侮るものは一人もいない。英傑の強さは身体の大きさや逞しさに依らない。

「みんな、聞いて」

 独神の声が、静かに、しかし力強く響く。

「北の地から強大な悪霊の軍団が接近しているって伝令が駆け込んできたよ」

 その言葉に、英傑たちの表情が引き締まる。緊張が広間を支配する。

「私たちの任務は変わらない。彼らを迎え撃ち、この世界の平和を守ること」

 独神の言葉に、英傑たちが頷く中、アメフリコゾウだけが大きなため息をつく。

「はいはい、またですか。平和平和って。もう何度目だか。あるじ)さまは飽きないんですかね」

 皮肉たっぷりの言葉に、他の英傑たちが眉をひそめる。しかし、独神はにこりと笑った。

「今回の作戦の指揮は君に任せるよ、アメフリコゾウ」
「へえ。…………ボク? え? ボクですか!?」

 アメフリコゾウの声が裏返る。他の英傑たちは、意外そうな表情を浮かべながらも、独神の決定を受け入れた。

「明日の夜明けとともに出陣ね。万全の準備でお願いね」

 独神の言葉に英傑たちが頷き、会議は散会となった。
 本殿の縁側。夕暮れ時の柔らかな光が差し込む中、独神が腰を下ろす。横には相変わらず不機嫌そうな顔のアメフリコゾウがちょこんと座る。
 二人の間に流れる沈黙。それは重苦しいものではなく、むしろ心地よい空気が漂っていた。

「あの、あるじ)さま」

 アメフリコゾウが小さな声で呟く。

「本当にボクなんかが役に立つんですか?」
「もちろん。君の力が必要不可欠だよ」

 独神の言葉には迷いがなく、確信に満ちていた。

「ふうん」

 アメフリコゾウは一瞬だけにやけた顔を見せたが、すぐに口をへの字に曲げる。

「でも、見てくださいよ。こんなに晴れてるじゃないですか。ボクの力なんて」

 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、遠くで雷鳴が轟いた。
 アメフリコゾウの視線が空に向けられる。その目を見開きながら、口元が大きく持ち上がる。
 独神が呟く。

「オモイカネの言った通り。雨雲は進軍している悪霊と重なる」

 その言葉に、アメフリコゾウの目が急に輝きを増した。まるで曇り空に差し込む一筋の光のように。

「ふふふふ、ははっははは! ……雨が、雨が来る!」

 まばゆい稲光と同時にアメフリコゾウが声をあげた。その声には、これまでにない熱と力が込められていた。

あるじ)さまっ! ボクに任せてください! この雨と一緒に、どんな敵だって吹っ飛ばしてやりますよ!」

 独神は、人格の変わったアメフリコゾウに少し驚きながらも、優しく頷いた。その瞳には、アメフリコゾウへの揺るぎない信頼が宿っていた。

「うん、お願いね、アメフリコゾウ」

 灰色の雲が急速に広がる中、独神たちは明日の戦闘準備を整えた。
 夜の切れ目を曖昧にする土砂降りを浴びるアメフリコゾウの瞳は澄んでいた。
 背筋をぴんと張り、見晴らしの良い崖から戦況を見下ろしていた。
 普段の気だるげな態度は消え、凛とした空気を纏う。
 それはまるで雨を操る"神"のようだ。

あるじ)さまにしては良い場所を選ぶじゃないですか。褒めてあげますよ」

 普段の皮肉さは影を潜め、戦闘前の高揚と自身の能力への自信に満ち溢れていた。
 陸路で歩いて進軍する悪霊たち。その数は星の数ほど多く、地平線の彼方まで続いているように見えた。
 アメフリコゾウは深呼吸し、天将の特徴である扇を天へ掲げた。
 もうひとりの主である龍神の力が先端の提灯に集まり、アメフリコゾウに宿る。

「ボクの本気、見せてあげますよ」

 提灯を横に振ると、その瞬間、空からの雨が鋭さを増し、まるで無数の矢のように悪霊たちに向かって降り注ぐ。
 攻撃に気づいた悪霊たちは辺りを見回すが、その間に地面はたちまち泥濘と化し進軍を妨げる。
 さらに、アメフリコゾウは雨を集めて巨大な水柱を作り出し、悪霊の軍団を分断した。
 隊列を乱し、右往左往する悪霊たちを英傑達が一体ずつ仕留める。
 悪霊が消滅する様子を見ながら、アメフリコゾウは唇から笑い声を漏らす。
 光が灯り続けている行燈がゆらゆらと揺れる。
 独神が少し離れようとすると、アメフリコゾウは後ろを見もせず腕を掴んだ。

「誰が離れて良いと言いました? 大将の言うことは絶対ですよ。例えあるじ)さまと言えど」

 小さな手には、想像以上の力が込められていた。

「いい子にできないあるじ)さまはボクがしっかり手綱を握らないといけませんね」

 そのまま自身の隣へ引き寄せた。

「心配しなくても、邪魔だなんて思ってません。寧ろボクが守るって言ってるのに従わない方が駄目です」

 アメフリコゾウはじっと戦況を見守る。その目は鋭く、戦場全体を把握していた。
 悪霊たちは順調に数を減らしていた。
 だが突如。黒い気配が忍び寄る。
 一回り大きい悪霊たちが二人の背後に現れた。
 察したアメフリコゾウは独神の前に飛び出し、悪霊に扇を向けた。
 提灯がこおっと強く光り、空から巨大な雨の柱が降り注ぐ。

「コノテイド、ショウガイニモナラズ」
「そうですかぁ?」

 アメフリコゾウはにやりと笑った。
 その瞬間、眩い稲妻が悪霊の身体を貫く。

「龍神様頼みの妖だと思ったら大間違いですよ」

 黒い鎧が崩れ、その魂までもが消滅した。
 ふうと息を吐いたアメフリコゾウは、身体を固くしていた独神に言った。

「ちゃんと守れたでしょ? ね、あるじ)さま」
「ありがと。助かったよ」

 肩を竦めて礼を言い、二人は再び悪霊の大軍へと視線を落とす。
 英傑達の援護を続け、時に二人を狙う悪霊を退けること数刻。
 悪霊の大軍を全て殲滅することができた。
 戦いが終わると、アメフリコゾウはへなへなと座り込んだ。 

「つかれまーしたー……」

 独神がそっとアメフリコゾウの頭を撫でる。

「よくやったね、アメフリコゾウ」

 その言葉に、アメフリコゾウは照れくさそうに笑う。

「ボクって、案外やるじゃないですか?」

 激しい雨が収まり、薄日が差し始めた戦場に鮮やかな虹が架かる。
 その美しさに二人は息を呑んだ。

あるじ)さま……こんな綺麗な虹は初めてかもしれません」

 独神は優しく微笑み、アメフリコゾウの肩に手を置いた。

「この虹は君が作り出したんだよ。ありがとう」

 その言葉に、アメフリコゾウの頬が赤く染まる。
 しかしすぐに照れくさそうに目を逸らした。

「やっぱり一番綺麗な虹はあるじ)さまですね」

 その言葉に、独神も思わず頬を染めた。
 翌朝、本殿の縁側。
 晴れ渡る空の下、アメフリコゾウは昨日の自分の行動を思い出し、顔を真っ赤に染めるのだった。
 昨日の勇姿は何処へやら、今や恥ずかしさで縮こまっている。

「ボク、あるじ)さまに余計なことを言ったような気が……!!」

 縁側で独神を見かけると、アメフリコゾウは慌てて顔を伏せる。

「どうしたの、アメフリコゾウ?」

 独神の声には、少しばかりの面白がりが混じっていた。

「べ、別に! ボクはいつも通りですよ! 昨日のことなんて……忘れてください!」

 必死に取り繕おうとするアメフリコゾウ。
 だが独神は無慈悲に言い渡した。

「絶対忘れないっ」

コンピラ    

「俺んち。たまには掃除しに帰らねーとなー」

 俺、コンピラがそう言い出したのは、超絶平和な春の朝のことだ。
 普段なら天狗に頼んで空から行っちまうとこなんだけど、なんとなく今回は歩いてみっかな。って。
 そしたらぬし)様も「行く!」って言ってくれて、正直気分超アガってる。

 救世主として八百万界の平和を守って、俺たちを導いてくれるぬし)様。
 その可愛らしい横顔を独占しながら、俺は長すぎる階段を一段一段上がっている。
 最初は楽しそうだったぬし)様もさすがにキツくなったのか真ん中あたりで立ち止まった。
 赤い顔して息を切らす姿になんかぐっときちゃって、

ぬし)様大丈夫か? 俺が抱っこしてやろうか?」

 軽口だけど、そのまま本気で抱きしめたい衝動に駆られた。

「…………。大丈夫だよ、これくらい」

 誘惑に負けてくれなかったか。なんて俺は残念に思った。
 ぬし)様は頑張り屋さんだから、こういう提案にはなかなか首を縦に振らない。
 俺としちゃ、頼ってくれた方が全然良いんだけど。
 そういういじらしい所も、嫌いじゃないからタチが悪い。

 結局最後まで一人で歩いて、頂上に着いた。
 掃除する前に疲れて動けないんじゃないかと思えば、そんなことはなく、ぬし)様は元気に境内や本殿を掃除し始めた。
 自分の部屋ってわけでもないのに。俺よりもずっと一生懸命。
 ヤベェ。好き。
 自分の領域でウロチョロしてるぬし)様超好き。好きすぎる。
 ……なんて思ってるなんて知られるのはダサすぎるから、俺はしっかり掃除をしましたとも。
 ある程度は留守を任せた奴らがやってくれていたお陰で、夕方くらいには掃除が終わった。
 汗で前髪をぴったり張り付けたぬし)様に言った。

「帰りに海見ていかね? ついでに帰りは天狗に頼もうぜ」

 疲れ果てていたぬし)様も頷いてくれた。
 さすがに丸一日本殿を空けるわけにはいかないからな。
 てことは、二人きりの時間もこれまでってこと。

 夕暮れの海を眺めながら、俺は浮ついていた。
 いつもなら他の英傑達に囲まれているぬし)様が、すぐ隣にいる。
 こんな機会、下手したらもう二度とないかもしれない。
 俺は思わず、ぬし)様に抱き着いた。
 強張ったぬし)様の身体を、俺は瞬時に放した。

「じょーだん。なんか、海見てたら変な気分になったっぽい」

 ぬし)様は困った顔をしながらも「しょうがないなあ」なんて言って、怒らなかった。
 その感じだと、本気でそう思ってるのか、実は結構嫌だったのかはよく判らなくて勝手に凹んだ。
 先走りすぎちゃったか。
 わざわざ掃除に来てくれたし、俺のことそこまで嫌じゃないだろうなって思ったんだけど。
 ……単純に主だからってだけかあ。

「海。見てたら、日本の海を思い出したの」

 唐突にぬし)様が言った。

「家族で海水浴に行ったんだ。ものすごく混んでて、レジャーシートをこじんまり敷いたの。砂が熱くて痛くて、飛び跳ねながら海へ飛び込んだんだ」

 ぬし)様は小さく息を吐いた。

「……心配、してないと良いんだけど」

 その言葉に胸が締め付けられる。
 世界の危機に立ち向かい、俺たち英傑を率いるぬし)様だって、家族のいる普通の女の子だ。
 そして、世界が平和になれば、元の世界へ帰ってしまう。

「向こうでもさ、海見た時は、今日のこと、思い出してくれよ」

 いつもみたいに明るく笑って見せる。

「ほら、階段でぬし)様がぜーぜー言ってたの超ウケたじゃん? 掃除も夢中になったせいで弁当のおにぎりが潰れちまってさ。ぺちゃんこのおにぎり一緒に食べたろ? 他の奴らから見たらつまんねーことかもしんねーけど、楽しかったっしょ?」

 ぬし)様は笑った。

「コンピラが変なテンションで私に抱きついてきたことも思い出すかもね」

 ってぬし)様は言った。
 少し照れたような、でも嬉しそうな表情を浮かべながら。

「ちょ、ちょっと待って! ……そーゆーのは他の英傑には内緒な? な?」

 ぬし)様にとって俺は数多くいる英傑の一人に過ぎない。
 でも、今日は特別な一日だった。
 夕暮れの海を染める茜色の中で、俺たちだけの思い出ができた。
 それは、きっと俺の心の中で、永遠に輝き続けるんだろう。

「内緒ね。誰にも言わないでよ?」

 そう言うとぬし)様は俺の腕をそっと掴んだ。頬を染めて。
 なんだよその仕草。可愛すぎだろ。

「……言っちゃうかも」
「なんで!?」
ぬし)様が眩しすぎて、胸がやばい」

 本音が零れた。
 だって、もー、そうじゃん!
 ぬし)様、大好き!!
 このまま帰りたくねーーって!!

ぬし)様ぁ……ちゅーしていい?」

 ぬし)様は目を丸くして固まったかと思うと、ゆっくりと瞳を伏せた。
 その仕草に意を決して、俺はぬし)様の唇を塞いだ。
 一瞬のことだった。でも、その柔らかい感触は、永遠に消えることはないだろう。

「コンピラのバカ……」

 顔を真っ赤にしたぬし)様は、俺の胸に顔を埋めた。

「うん。バカだけど、ぬし)様のことは超好きだって自信ある」

 抱きしめたぬし)様の身体が、今度は強張ることはなかった。

「……か。帰ろっか。みんなに怪しまれちゃうし」

 真っ赤なままのぬし)様が夕暮れに溶けている。
 今日のこと、元の世界に戻っても、忘れないでくれよな。

エンエンラ    

ぬし)、まだ起きてるの?」

 深夜の書斎に、炊きたてのご飯のような香りが漂う。
 煙の妖であるエンエンラは、筆を持つ独神の背後をそっと行き来した。

「こんな遅くまで大丈夫?」

 机の上の冷めたお茶に触れ、心配そうな眼差しを向ける。

「もう少しだから」

 そう言う独神に、エンエンラは小さなため息をつく。
 肩を優しくさする手つきには、日中も殆ど休んでいないのにという想いが滲む。
 しばらく作業を見守っていたが、なかなか終わらない独神に、エンエンラは諦めたように微笑む。

「これは強硬手段だね……」

 そっと独神の首筋に近づき、温かな吐息を這わせた。
 かすかな香りが立ち込めていく。
 ぱちりぱちりと、独神は瞬きをし、目を擦った。

「眠くなってきたかな? 私の吐息に香炉の薫香を混ぜたんだ」

 頭が揺れる独神を見て、エンエンラは一瞬躊躇するように手を止める。
 だが、すぐに決意を固めたように、優しく抱き上げた。

「強引すぎたかな? でも、こうでもしないと、休んでくれなさそうだからね」

 エンエンラの胸に抱かれて運ばれる独神。
 自分よりも体温の高いエンエンラに揺られて、ゆりかごのような安心感がある。
 布団の上におろされたが、目が冴えて完全には眠れそうになかった。
 傍で控えるエンエンラの姿が、月明かりに煙のように揺らめいてみえる。

「困ったな。私には生憎、ぬし)の胸を高鳴らせるような色気も香りもないんだ。生活の営みの煙だからね」

 とんとん、と背中を優しく叩いた。

「でもね、気持ちを落ち着かせることは得意かもしれない」

 夕飯の匂い、洗い立ての布団の香り、風呂場の湯気。
 日常の安らぎが、独神を包み込んでいく。
 戦いの記憶が、まるで煙のように薄れた。
 エンエンラは少し震える手で独神の手を握ってやると、独神はすっと眠りに落ちた。

 翌朝、独神が起きると、昨晩と変わらずエンエンラがいた。
 エンエンラは少し気恥ずかしそうに髪をかきあげた。

「昨夜は……少し、調子に乗りすぎたかもしれない」

 独神は、その仕草に、昨夜の温もりを思い出す。
 普段は煙のように掴みどころのないエンエンラがどこか人間らしい。
 穏やかだと思っていたエンエンラの強引な一面を思い出すと心臓が高鳴る。

「……エンエンラの嘘つき」

 静かな声に、エンエンラは驚いて独神を見つめる。

「え?」

(胸が高鳴ることはない……わけがない! あんなの!)

 独神は、昨夜の記憶と共に、確信を持った。
 だからこそ強く言う。

「添い寝は私だけにして。絶対に。これは命令だから」

 エンエンラは突然のことに言葉を詰ませた。

「え。あぁ……」

 独神の真剣な眼差しに、何かを悟ったように微笑む。

「はい。判ったよ……?」

(命令って……構わないけれど、これってそういうことなのかな……)

 エンエンラの困惑気味な返事を聞きながら、独神は決意を固めた。

(被害者をこれ以上増やさないためにも、私のところで囲っておかないと)

 これは、少し勘違いをした二人がくっつく前のお話。

セトタイショウ    

 灰色がかった急須の表面に、無数の貫入が走っている。
 遥か彼方に住まう星の瞬きでは壊せやしない。
 その繊細さと強さの境界に、セトタイショウは己の姿を重ねていた。

「セトタイショウ?」

 不意に声をかけられ、セトタイショウは慌てて急須を胸元に抱く。
 独神が廊下に腰を下ろしていた。
 月明かりに照らされて象られる影まで美しい。

「あっ、ぬし)様。これは、お茶を。入れようかと思いまして」

 苦しい嘘であったが、独神は特に疑問を持たなかったようだ。
 しかし、目が急須で止まっている。

「その急須、いつも持ち歩いているものと違うね」

 セトタイショウの瞳孔が開く。
 気づかれてしまったのか。だが、独神は何も知らない。
 知るはずがない。この急須の中に、独神の涙を溜めていることなど。

「はい……。これは、特別なもので」
「特別?」

 独神は静かに微笑んだだけだった。
 詮索するでもなく、ただ優しく。
 その距離の取り方が、逆にセトタイショウの中で何かを軋ませていく。

ぬし)様は、泣いてくださいますか?」

 言葉が零れる。
 毒のように、蜜のように。
 とくとくと。

「え?」

 独神は聞き返した。
 戸惑いながらも、セトタイショウの言葉を、その想いを、確かに受け止めようとする瞳。
 その誠実さが、かえって理性の糸を音もなく断ち切るのだ。

ぬし)様の涙が……欲しいんです」

 もう、耐えられない。
 セトタイショウは袖から取り出した瀬戸物の破片を、自分の腕に突き立てた。
 鈍い音と共に、白い肌に赤い線が走る。

「っ! やめて!」

 独神が身を乗り出す。
 その瞬間、一筋の涙が頬を伝うのが見えた。
 血が滴る音と、涙が落ちる音が重なる。
 セトタイショウは陶酔的な表情を浮かべながら、急須の蓋を開けた。

「これで、また一つ......ぬし)様の涙を、いただけました」
「セトタイショウ......」

 独神の声が震えている。怖れているのか、悲しんでいるのか。
 セトタイショウにはどちらでもいい。
 この瞬間、確かに独神は、セトタイショウで胸がいっぱいだからだ。

 この涙。この表情。この痛みに染まった瞳。
 全て、セトタイショウのためだけのもの。

「……壊れるのが、怖いんです」

 囁くような声で。

「でも、ぬし)様の手で壊されるのなら......」

 セトタイショウは、ゆっくりと血に濡れた瀬戸物の破片を取り出した。
 それは先ほど自らの肌を裂いた欠片。白磁の表面に、まだ鮮やかな赤が滲んでいる。
 丁寧に独神に差し出す。
 優しい笑みを浮かべながら、セトタイショウは一歩近づいた。

「…………ふふ」

 月が雲に隠れ、廊下が闇に沈む。
 急須の中で、独神の涙が静かに波打っている。
 誰かの手で、この沈黙が壊されるのを待ちながら。

ナリカマ    

「で、ぬしさまは何を知りたいのかな? まけてあげるから聞いてごらんよ」

 ナリカマは上機嫌だった。珍しく主が自ら占いを所望するとあって、商売人として嬉しくないはずがない。
 主は独神、八百万界一の人材をもつ要人。
 組織が持つ金も大きければ、個人資産も莫大なはず。恩を売って損はない。

「私の未来のつがいが、ナリカマかどうか占って」
「は?」

 一瞬、頭が真っ白になった。すぐに平静を取り戻そうとする。

「はーん、なるほどね。恋愛運か。いいよ、私は恋愛占いも評判が良くてね」

 頭の釜に手をかけようとした時、独神がそっと止めた。

「釜じゃなくてさ、貴女自身で判断して占ってよ。明日は討伐が休みでしょ、私と逢引しましょ」
「悪いね。商売にならない話はお断りだよ」
「誰もが欲しがる独神を独占できるのに、しない手はないでしょ? 商売人なら当然」

 話に乗るのも癪だが、利益に目が眩んだ。

「……乗ったよ」

 独神はにこやかに立ち去った。
 相当経ってから、ナリカマは大きな溜息をついた。釜をガンガンかき鳴らす。

(まさかあのぬしさまと!? 私がか????)






翌朝、ナリカマは悩みに悩んで悩みまくった挙句、占いをしなかった。
釜に手をかけた時、不安と期待が同時に押し寄せて、とても叩く気にはなれなかったのだ。
 待ち合わせの茶屋。
 ナリカマは緊張からか、普段は絶対に選ばない苺牛乳茶を注文してしまった。

「ナリカマって、こういう甘ったるいもの飲まないと思ってた」

 独神の目が細くなる。

「私の前だと、自分らしくいられないの?」

 一瞬で見抜かれた自分の心に、ナリカマは言葉を失う。
 茶碗を持つ手が、わずかに震えていた。

「手が震えてるわよ」
「……見ないでくれないかな」
「あんなに人のことは見てるのに? ずるいわよ」

 他人の恋を占ってきた自分が、まさかこんな風に見透かされる側になるなんて。
 でも、ここで負けるわけにはいかない。意地だ。

「おや、いいのかな。そんなことを言って」
「なに? 面白いはったりでも聞かせてくれるの?」

 独神は人を見抜く。ナリカマの言葉がはったりだと気付いている。
 ならば、お望み通り、面白いはったりを叩きつけてやる。

「今日私が選ばれたこと。占わなくても判るよ。バレバレだったからね」
「ふうん。それは何?」
「万人にお優しいぬしさまが、私にはやけに攻撃的だからさ」

 今度は独神が言葉を失う番だった。
 鼻で笑って、濃い茶を啜った。
 その表情を見て、ナリカマは初めて自分の未来が見えた気がした。

「じゃあ、せっかくだから占ってみる? 予想だけど悪くはないんじゃない?」
「……それは、ぬしさまと一緒に見ていきたいかな」

 きょとんとした独神は、小さく笑った。

「可愛いところ、あるよね」
「いやはや。ぬしさまには負けるよ」

アリエ    

「また失敗しちゃった……」

 八百万界の片隅で、アリエは膝を抱えてため息をついていた。
 今日も告白して玉砕。
 これで何度目だろう。数えると悲しくなるから数えない。

「でも、きっと運命の相手はいるはず!」

 美しい歌声の持ち主であるアリエは、その声で多くの者を魅了してきた。
 最初は誰もが足を止めて聴き惚れる。目を輝かせ、近寄ってくる。
 アリエはその度に期待に胸を膨らませた。この人が運命の人かもしれない。
 でも、その期待は必ず失望に変わる。

 アリエの歌声は、聴く者の心を奪いすぎてしまうのだ。
 理性も、判断力も、全てを奪って、ただ歌声だけを求めさせる。
 特に自分の領域である海では危険だった。
 船乗りたちは航路を忘れ、漁師は網を手放し、商人は荷物を置き去りにした。
 先月も大きな商船が岩場に座礁し、積み荷が全て海に沈んでしまった。

「アリエに近づくな────特に海の上では」

 港町では、アリエの姿を見かけると、漁師たちが慌てて船を沖に出すのを控えるようになった。
 アリエが通りを歩いていると、「あ、アリエちゃん! ……え、えっと、今日は歌とかは……?」と、気まずそうに距離を取られる。
 優しく声をかけてくれる人もいるけれど、歌の話になると途端に表情が強張る。

「でも、わたしはただ、誰かに聴いて欲しいだけなのに……」

 アリエは自分の部屋の窓辺で、小さく歌う。
 誰にも聞こえないように、でも歌わずにはいられなくて。
 きっと、わたしの歌声を最後まで聴いてくれる人がいるはず。
 その人が、運命の人なんだ。そう信じていた。

「この歌声は呪いなんかじゃない。絶対に」

 ある日、八百万界に異変が起きた。
 悪霊の気配が強まり、人々を脅かし始めたのだ。

「このままじゃ、運命の相手にも会えない!」

 アリエは立ち上がった。自分にできることをしよう。
 沿岸部の悪霊退治なら、誰も近づけない海でこそ、きっと役に立てるはず。
 そう決意した矢先、彼女は「その人」と出会った。
 八百万界の英傑たちを束ねる存在、独神と。

「噂は聞いていたわ。海の歌姫さん」

 独神の微笑みには、アリエを遠ざけようとする気配が微塵もなかった。

「あなたの歌声なら、きっと多くの人を救えるはず。どうかしら、一緒に悪霊退治をしてもらえないかしら?」

 その言葉に、アリエは思わず目を見開いた。
 自分の歌声が人を救う。
 そんな考えは、今まで一度も思い浮かばなかった。

 独神の横で凛々しく立っているヤシャも、アリエの歌声のことを知っているらしく、でも怖がる様子もない。
 よく見ると、顔立ちが綺麗でかっこいい。
 この人、素敵だ。
 アリエはその場で即決した。

「は、はい! わたし、頑張ります!」

 ちなみにヤシャには次の日に振られた。
 あまりにもあっさりしていて拍子抜けするくらい。
 でも不思議と一回泣いただけですっきりした。
 微笑んでいる独神様が「あなたの歌声なら」と言っているのを思い出していた。

 こうして独神の元での生活が始まった。
 最初は戸惑うことばかり。でも、独神は優しく接してくれた。

「アリエの歌声は素敵ね」

 その言葉に、アリエの心は大きく揺れた。
 でも独神は多忙で他の英傑たちと接してばかり。ちっともアリエといてくれない。
 運命の人かとちょっぴり思ったこともあったが、いつものように燃えるような熱がわかなかったのですぐに違うと断じた。



 本殿に少しずつ慣れた頃、アリエは何気なく目にした。
 討伐の報告に行った時だ。
 独神がいる広間の前に長々と列が並んでいた。
 今までは、他の英傑が我先にと報告を済ませていたから気づかなかった。

「私の村に、悪霊が襲来いたしました」

 年老いた村長らしき男性が、震える手で杖を握り締めている。

「隣村の寄合に行っておりました折、留守の間に……皆殺しにされてしまいました」

 枯れ果てた頬を涙が伝う。男性は声を震わせながら続けた。

「周辺の村々も悪霊を恐れ、誰も手を貸してはくれません。せめて無念の死を遂げた村人たちの恨みを晴らしたいのです。頼れるのは独神様だけでございます」

 その言葉を聞いた独神は、深い悲しみの色を浮かべながらも、静かに頷いていた。

「つらかったですね……。判りました。あとは私たちにお任せください」
「お願いします。このまま仇をとれずにいたら、きっと成仏もできないでしょう」

 村長は何度も頭を下げて広間を後にした。
 次は若い娘が進み出た。小さな子供の手を握っている。

「母が、母が石になってしまって……」

 娘の声は掠れている。

「呪いだと、村の人に言われて。でも母は悪くない。ただ、私たちを守ろうとしただけなのに」

 子供が不安そうに姉の着物の裾を握りしめている。
 独神は二人の前に膝をつき、子供の頭を優しく撫でた。

「お母様は、きっと立派なお母様なのですね。私に任せてくださいな」

 その言葉に、娘の堪えていた涙が溢れ出した。

 次々と人が訪れる。
 山賊に追われる商人、
 土地を追われた農民たち、
 行き場を失った旅の一座。
 皆、独神の前でやっと声を上げ、すがるように助けを求める。
 そして広間を出てくると、一様にどこか救われたような表情をしている。

「ごめんね、アリエ。待たせちゃったね」

 毎日絶えずやってくる訪問者に対応しながらも、アリエを気遣い、笑みを浮かべた。
 アリエの胸が締め付けられた。

「ううん。ぜーんぜん、待ってないよ。報告すぐ終わらせちゃうね」

 余計な事を話さないように、簡潔に報告する。
 後ろには悲しみを背負った人々が最後の希望である独神を待っている。

「……。うん。判った。ありがとう、ゆっくり休んでね」
「あるじも無理しないようにねー」

 アリエが部屋を出る少し前に、後ろに並んでいた人が部屋に入ってきた。
 待ちきれなかったのだろう。アリエは何も言わずに後にした。

 自室に戻ったアリエは、窓際に立ち止まった。
 独神の広間からは、まだ人々の声が聞こえてくる。

 一人また一人と、深い悲しみや苦しみを抱えた人々が訪れる。
 独神は疲れた様子でも、その声に耳を傾け、一人一人に希望の言葉を贈り続ける。
 独神の指示で動いた英傑が救うのではない。
 独神の存在が人々の救いなのだ。

「わたしには絶対できない」

 アリエは空を見上げた。
 自分は歌声のせいで避けられ、悲しい思いも何度もした。
 寂しいのに歌えなくて、孤独を抱えたこともある。
 独神は、その身に多くの悲しみを受け止め、寄り添い、その重みを背負い続けている。

「……わたしも、役に立ちたいな」

 アリエは小さく呟いた。
 これまでの討伐任務も、もっと頑張らなきゃ。
 沢山の人を助ける為に、独神のために────。





「アリエ、ありがとう。あなたのおかげで助かった」

 討伐の報告の後、独神が優しく微笑みかけた。
 その笑顔に、アリエの胸が高鳴る。
 最近、独神の側にいると、何故かソワソワして。ふわふわして。
 話しかけられると嬉しくて、もっともっと話していたくなる。

「ね、ねえ! 少し休憩したら、お茶でも一緒に」

 その時、広間の外から人々の声が聞こえてきた。
 今日も多くの人が、独神を必要としている。

「ごめんなさい。また今度ね」

 独神は申し訳なさそうに微笑んで、待ち人たちを迎え入れた。

 アリエは自分の気持ちに気づき始めていた。
 独神の優しさに触れるたび、もっと近くにいたくなる。
 もっと話を聞きたくなる。
 困っている人に寄り添う姿も、疲れていても笑顔を絶やさない強さも、全部が愛おしい。

「あれ?」

 アリエは自分の頬が熱くなるのを感じた。
 運命の人を見つけた時と同じ。

「でも、あるじさまが運命の人なわけないよね! だって、運命の人は……わたしだけのものだもん」

 独神はみんなのもの。
 自分が一人占めにするような存在ではない。
 人々の希望を閉じ込めてしまっては、世界が闇に満たされてしまう。

「だからあるじさまは、運命の人じゃない」

 少し胸がちくりとした。





 ある英傑が独神に恋をしていると聞き、アリエは素敵だ、羨ましい────と、思わなかった。
 燃えるような衝動。今まで殆ど味わったことのない感情。

「ずるい!! わ、わたしだって……わたしだってあるじのこと……!」

 自分だけを見て欲しい。それを我慢しているのに。
 食事をしていても、討伐していても、ふとした時に蘇ってはアリエを縛り付けた。
 しかし直接本人に感情をぶつけることはなかった。
 そんなことをしては、独神に嫌われると思ったから。

 ある英傑のことは、聞かなくても別の英傑が色々教えてくれた。
 本来人に好かれないその英傑は、見返りも求めず手を差し伸べる独神に心を奪われたのだとか。
 そんなことを聞かされた矢先に、その英傑が独神に会いに行ったと聞いた。
 嫌な予感がした。
 ちゅーしていたらどうしよう。
 二人きりで話しているところをアリエは覗き見した。

 独神と話すその英傑の目は、嬉しそうに輝いていた。
 そして、深い感謝の色があった。
 何度も頭を下げていて、独神がやめさせていた。
 まるで、ここに来る人達のようだった。
 きっとその英傑も、独神に救われた一人なのだ。

 一緒だ、アリエと。
 その気づきは、どうしようもなくアリエの心を掻き乱した。

 自分も、独神に救われた。
 誰もが避けたアリエの歌声を褒めてくれた。
 「素敵ね」と、歌う度に言ってくれた。
 ただ自分の歌を聞いてくれる。そのことがアリエの拠り所になっていた。
 アリエを厭う人々のことを思い出さなくなった。

 ならば、自分は独神を好きなのだろうか。
 それは運命の相手として、なのだろうか。

 違う。

 今の気持ちは、運命の相手を見つけた時とは全然違う。
 独神の疲れた表情を見せる度に、胸が締め付けられる。
 困っている人々に優しく微笑みかける姿を見る度に、その優しさに触れていたい。
 いつも傍で見守っていたい。

 でも独神は、みんなの希望。
 誰か一人のものになれる存在じゃない。
 運命の相手のような、アリエだけのものには────なれないはず。
 それに、運命の相手は違う。きっと。
 だって、運命の相手は自分だけを見つめてくれる人のはずだ。

 でも、だからといって離れられない。
 傍にいたい。
 支えたい。
 この想いは、確かに本物だ。
 恋じゃないけど。大切な相手。



 ある夜のこと────。
 悪霊との戦いで疲れ果てた独神の姿を見て、アリエは咄嗟に歌い始めた。
 いつもと違う、優しい調べが自然と流れ出る。
 不思議だった。
 今までは誰かに聴いて欲しくて、見つめて欲しくて歌っていた。
 でも今は、ただ目の前の人の疲れた表情を見ているだけで、歌が溢れてくる。
 独神は目を閉じ、深いため息をついた。

「ありがとう、アリエ。あなたの歌があるから、私も頑張れるの」

 その言葉に、アリエの胸が熱くなった。
 運命の相手を探していた時より、もっともっと熱くて苦しい。
 でも嬉しかった。

 その日から、アリエの歌声は変わった。
 人々の希望である独神を支えたい。
 その想いが、災いをもたらしていた歌声を、人々を癒す力へと変えていった。
 広間で待つ人々の疲れた表情を見かけると、アリエは自然と歌い始める。
 独神との面会を待つ間、少しでも心が癒されるように。
 以前なら避けられていた歌声に、今は安らぎの表情を浮かべる人もいる。

 そして、アリエ自身も変わっていった。
 誰が独神を求めていようと胸は痛まない。
 人々は独神を必要としている。その事実は変わらない。
 でも、それはもう辛いことではなかった。
 むしろ、そんな独神の側で、支えになれることが幸せだった。
 独神を独り占めしたいという感情は、いつしか消えていた。
 代わりに、純粋な願いが芽生えていた。

「あるじが、いつも笑顔でいられますように」

 その想いを込めて、アリエは歌う。
 もう見返りは求めない。
 ただ、独神の幸せを願って。

シロ    

あるじ)サマもいつかは土にかえるの?」

 シロは、主人に尋ねた。
 夕暮れ時の山頂の少し手前の少し開けた場所。
 お尻を乗せられるだけの石に座る主人と二人きり。

「帰るよ。私は八百万界の一部だからね。土地から生まれたんだ」

 主人である独神は柔らかい笑みを浮かべながら答えた。

「掘っても出てこないの?」

 シロは不安げに地面を見つめた。

「骨は残らないかな。一体化するから」

 独神は笑っていた。
 その表情には何か遠い思いが宿っているようだった。
 最近、独神はよく一人で山に来ては、ぼんやりと空を見上げていると、英傑たちの間で噂になっていた。
 こっそりシロがついていっても追い返されなかったので、今はよくついて行く。

あるじ)サマはうきよばなれしている。ね」

 シロが何処かで聞いた言葉をそのまま言うと、独神はふふんと鼻を鳴らした。
 満足そうに見えた。

「はーるのゆうひーに、てーるやーまもーみいじ」

 歌声が木々の葉をさわさわと揺らした。

あるじ)サマ、それ秋の歌だよ。秋の夕日」

 シロは首を傾げながら指摘した。

「知ってるよ」

 夕陽に照らされた主の横顔が、どこか寂しげに見えた。
 シロは首を傾げた。
 知っているのになんでと思っていると、独神はわけを話してくれた。
 落ち葉が二人の足元を舞っていく。

「間違って覚えちゃったの。眠っている間に微かに聞こえてただけだったから」

 独神はその後は「んーんー」と歌っていた。

「本当の歌詞は最後まで知ってはいるけどね。でも一人で歌うならこっち」

 夕暮れの空に、独神のひょろっとした声が響く。

 はーるのゆーうひーに
 てーるやーまもーみいじ
 んーんんーんーんーんーん

 歌い終わると、独神は遠くを見つめて黙り込んだ。
 こうなると独神は返事をしなくなる。
 自分も大地や木々や空気だというように、ただそこにいる。
 ねえねえといくら言っても駄目だから、シロはじっとしている。
 風が吹くたびに、シロの尾毛がふわふわ揺れる。
 本当はお尻がむずむずしてくるけれど、待てと言われた時と同様、我慢する。
 主人の傍らで、時が流れるのをじっと待つ。

 そんなやり取りを何度か繰り返すとそのうち、独神は病気なのかと不安になって、他の英傑にふと相談した。
 英傑は少しぎょっとしながらも優しく教えてくれた。

「主はさ。んーと……。独神を、そう、閉店してるんだよ。たまに。そういう時はさ、俺たちはあんま話しかけない方が、主も休まるんじゃないかって」

 山奥にいる時、独神は殆どの時間ぼうっとしている。
 普段はおしゃべりな口がだらしなく半開きにして。
 深い森の静寂が独神を包み込み、そのままさらっていきそうだ。
 閉店したいから、みんなが来ないところにいるんだ。
 それを理解しても、シロの心には不安が残る。

あるじ)サマは独神を閉店する方がいい?」

 返事はない。
 夕暮れの空は少しずつ夜に呑まれようとしている。

「一日だけ? ずっと?」

 何度聞いても答えてくれない。

「ワタシは寂しいけどな。他の英傑だって」

 独神は鼻で笑っていたが、その笑みには、どこか切なさが混じっている。

「私がいなくなると、みんな寂しがるかもね」

 夕陽に照らされた独神の姿が、黄昏の中で透き通っている。

「でも」

 その言葉は、風に消えていった。
 もう、なにも教えてくれなかった。
 時だけが、静かに流れていく。





 独神は界帝と相打ちになった。強大な力と力のぶつかり合いで、遺体さえ残らなかった。
 天が裂け、地が割れる戦いの後、すべてが静寂に包まれた。

 みんな悲しんだ。もちろん、シロも。
 悲しみは、春の雪のように降り積もった。

 あの山に、小さな苗木を植えた。
 サイギョウに手伝ってもらい、桜と紅葉を並べて植えた。

 木々を育てるのは難しかった。
 ククノチやトラクマドウジに聞けば、助言してもらえただろう。
 だが一度たりともしなかった。
 この小さな営みは、三人だけの秘密。
 この場所は、シロとサイギョウしか知らない。教えるつもりはない。

 風が吹くたび、木々は独神の歌を口ずさむ。

あるじ)サマ。ゆっくり休んでね」

 夕陽に照らされた石の前で、シロは今日も木々の成長を見守っている。

キジムナー    

 波が打ち寄せる浜辺に、一人の女が横たわっていた。

「あれぇ? 変な匂いするなぁ。美味しそうな感じ。でもお腹壊しそう……」

 ガジュマルの木から覗き込んでいたキジムナーは、赤い髪をかきあげながら首を傾げた。
 波に揺られる着物は見たことのない模様で、どことなく高貴な輝きを放っている。
 今度の海の贈り物はどんなものかと近づいた。

「ねぇねぇ、キミ死んでないよね? 生きてる?」

 つついてみると、女はゆっくりと目を開いた。

「んっ……ここは……?」
「琉球だよ。そんなボロボロになって、どこから流れ着いたの? てか誰さ」
「わ、私は……独神。どこ……? え。私、船にいたんじゃ……」

 キジムナーは目を丸くした。
 独神といえば八百万界の救世主。
 お伽噺でしか聞いたことのない存在が目の前に現れた。

「初めてみた!! ねえ。こんなとこで寝てたら風邪ひくよ。ボクの木まで来る? 暖かいよ! あ、それより村に行く?」

 独神は微笑んでゆっくり頷いた。

「あっちあっち! 漁師のおっちゃんたちがいるとこ見せてあげる!」

 キジムナーは独神の手を引っ張るように促した。
 別の浜辺では漁師たちが威勢よく網を広げている。

「おっちゃーん! 今日の漁は当たり?」
「おお、キジムナー様かい。今日は大漁だったぞ。……ところで、そっちのは?」

 独神に気付いた漁師が首を傾げる。
 見慣れない着物に身を包んだ女は、確かに異国の者のようだった。

「うんとねー、さっき流れ着いた人! キミたちはなにか見てない? 船の残骸とか」
「いんや。けど西の浜で引いた網が千切れてたって話なら」
「キジムナー様が網ごと食べたんじゃないか」
「違うよ!!」

 漁師と笑い合っていたキジムナーは、独神の表情が険しくなったことに気付いた。

「……ねえ、キミ。なんか知ってるの?」
「恐らくですが。それは私が追ってきた悪霊だと思われます。黒い甲冑の姿をしていますが、戦いの中で鮫のような姿に変化するのです。網を切り裂いたのも、きっとその力の表れかと」
「えー! まずいじゃんそれ!」

 話している最中にも、辺りがどんよりと重苦しい空気が広がっていく。
 まだ日の高い時間であるというのに、殺気だっている。
 潮の匂いが、妙に生臭く変わり始めていた。

「失礼します!」
「ちょっとキミ! そんな体でどうするの!」

 キジムナーの言葉に振り向きもせず、独神はまっすぐに走り出した。
 びしょびしょの着物をばちゃばちゃと鳴らしてどこかへ向かっていく。

「おっそーい。ボクを振り切れると思ったら大間違いだよ」

 けらけらと笑うが、独神は気にも留めない。
 判らないものに引くくらい懸命に走っている。キジムナーは呆れながらもそれに並走した。
 独神についていくと、被害のあった西の浜に着いた。
 そこでは黒光りする甲冑が船を破壊し、漁師たちを襲っていた。

「キミたち!!」

 キジムナーは独神の前に飛び出し、悪霊に向かって天将の証である扇を向けた。
 扇から召喚された獣たちが悪霊を蹴散らしていく。
 その間に独神は倒れた人々に駆け寄り、避難させていった。

「くっ。しつこい!」

 召喚された獣たちが次々と船を破壊する甲冑に立ち向かうが、跳ね返されて消えていく。

「なにこれー! ボクの術、全然効かないんだけどー!」

 積み上げられた漁具の陰から、さらに黒い影が這い出してくる。

「ちょっとー! そっちの漁師さんも逃げてー!」
「こちらです。歩ける者は怪我人を介助して下さい。重症の者は私が治癒の術をかけます」

 独神は必死に人々を避難させているが、潮風に乗って次々と黒い影が押し寄せてくる。
 止まらない増援にキジムナーは頭を抱えた。

「うわっ! もー、いい加減にしてよー!」

 キジムナーの放った術が、今度は霧のように薄れて消えていった。
 黒い甲冑たちがじりじりとキジムナーに迫る。
 そこへ独神が駆け寄ってきた。額には汗が滲み、着物は所々破れている。

「キミは下がってて! ウチナーを舐めるなあ!!」

 枯渇しかけた霊力を振り絞り、もう一度扇を悪霊に向けて振った。
 その瞬間、独神から放たれた光がキジムナーを包み込んだ。

「あっ……! ちょ、なにこれ!?」

 全身に温もりが広がる。
 妖怪の力が光に触発されて強く濃く燃え滾る。
 キジムナーの赤い髪が風もないのに揺れ始めた。
 不思議な感覚。
 見知らぬ誰かと出会ったような、でも懐かしい誰かを思い出したような。
 独神の力が自分の中に流れ込んでくる。

「これなら……!」

 もう一度扇を構えた。
 悪霊はキジムナーの変化を感じ取ったのか、黒い鎧が次々と引き寄せられるように集まっていく。
 潮を含んだ風が渦を巻き、甲冑の表面が波打つように歪んでいく。
 一枚、また一枚と重なり合う度に、黒光りする鱗のような模様が浮かび上がる。
 やがて人の形を失い始めた甲冑の群れは、まるで生き物のように蠢きながら巨大な影へと変貌していった。
 浜辺の砂を薙ぎ払う尾びれ、開いた口からは鋭い牙が覗く。
 何倍もの大きさに膨れ上がった巨大な鮫を、キジムナーは不敵に睨んだ。

「くっらえーーー!」

 扇から放たれた光が、まるでガジュマルの根のように広がって、黒い鮫を絡み取り締め付けた。
 澄んだ琉球の青を帯びた光に捉えられた鮫は大きく身をよじった。
 黒く光る鱗が一枚、また一枚と剥がれ落ち、砂に消えていく。

「まだまだぁ!!」

 キジムナーの叫び声に呼応するように、青い光が一層強く締め上げた。
 黒い外殻が砕け散った。欠片が潮風に乗って飛び散る。
 やがて巨大な鮫は霧のように薄れ始め、空に溶けていった。
 最後の一片が消えるとき、かすかな慟哭が聞こえた気がした。

 傍にいた独神が砂浜に座り込んだ。肩で息をしている。
 キジムナーは手の中に残る力の残滓を見つめた。
 力を合わせた時、独神の心の中が見えた気がした。
 強がっているけれど、迷いながら進んでいる姿。
 誰かのために戦う覚悟と、その先にある不安。

「ねぇねぇ、キミって面白い人だねー」
「……え?」
「だってさー、戦えないのに悪霊の中に飛び込んでくるなんて、なかなかいないよ?」
「……。無理をしてくれるなとよく言われます」

 困ったように笑っているが、これに付き合う周りの方がよっぽど苦労しているだろう。

「今日はキミのお陰で助かったよ。ありがと、独神サマ」

 キジムナーは赤い髪をかきあげた。

「……ボクだけじゃ、多分……ちょっと、ムリだったかも」

 小さな声で呟くと、独神は首を傾げた。

「あのさ! 独神って救世主なんでしょ? じゃあ、ボクも悪霊退治に連れてってよー! 琉球の妖の力、きっと役に立つって!」

 独神は静かに頷いた。
 その瞳は海より澄んだ色をしていて、キジムナーは一瞬心を奪われた。

「では、英傑達が集まり本殿へ共に参りましょう。キジムナー様」
「えっへっへー! よろしくね、独神サマ。じゃなくて、おかしら)! ボクがついてれば、きっといいことあるよー!」

カラステング    

「カラステング、羽、触ってもいいかな?」

 おさ)の声に、オレは少し驚いた。
 オレは普段から羽の手入れは欠かさない。
 今日も霊力が高まる満月の明かりの下、羽を整えていたところだ。
 見れば判るだろうに。

「ほう? オレの翼に興味があるのか」

 からかうような口調で言ったつもりだったが、おさ)は真剣な眼差しで頷いた。

「仕方ない。少しだけなら遊んであげてもいい」

 本当は誰にも触れさせたくない。
 それなのにおさ)には「遊び」だと言い訳して許してしまう。不思議なものだ。
 おさ)の指が羽に触れた瞬間、思わず息を呑む。驚くほど優しい手つきだ。

「相変わらず綺麗な羽ね」
「当たり前だろう。手入れを欠かしたことはないよ」
「初めて会った時は夜になったかと勘違いしちゃった」

 霊山に迷い込んだ童の一方がまさか独神になるなんて、あの時は思いもしなかった。
 そして、もう一方は神代八傑に名を連ねた。
 二人の童と気紛れで遊んだオレはどうやら見る目があるらしい。人族に限るのがたまに瑕だけど。

おさ)。そういえば今晩は忙しいって言ってなかったか」
「ああ。それならもう終わった。今頃皆酒盛りしてるよ」

 思わず笑った。ここの奴らは酒好きが多い。
 オレも好きだが、今日のように念入りに手入れをする時は飲まないようにしている。
 おさ)も酒は好きなはずだが。今日はどうしたのだろう。
 もしかして、と思うのはオレの自惚れかな。

「……今日は月が綺麗だから、静かに見ていようと思ったの」

 残念。
 どうやらオレの勘違いだったらしい。

「ふふ。お互い退屈しないな」
「うん。カラステングと過ごす時間は、退屈じゃない」

 おさ)はそう言って、ゆっくりと羽を撫でた。
 その手つきにオレは少し動揺したけれど、おくびには出さなかった。

「なら飽きるまでいるといい」
「そうする」

 羽に触れる指先は最初よりも確かな動きになっていて、黒く輝く羽を丁寧に整えていく。
 やがておさ)の手は大胆になり、羽の生え際まで優しく撫でるようになった。
 そんな度にオレは背筋が震えるような感覚を覚えた。
 息が詰まりそうになる。
 羽に触れる度におさ)の指が僅かに震えているのも気になって仕方がない。
 背後に座るおさ)の顔を、オレは見ることができない。
 どんな表情で見ているのだろう。
 羽、なのか。それともオレを、なのか。
 オレが考えている間もおさ)の手は止まることなく、羽の上を滑るように動く。
 誰かにこんな風に触れられることを許せるはずがない。
 この漆黒の翼に触れることは、オレの心に触れることと同じなのだから。
 だが、おさ)の手が離れることを考えると、何故か落ち着かない。
 むしろ、もっと触れていて欲しいと願ってしまう自分がいる。
 心の内を見透かされそうで怖いのに、この時間が終わってほしくない。

「……。月。隠れちゃった。そうなると駄目なんだっけ?」
「よく覚えてたね」

 結局羽の手入れは中途半端なまま終わってしまった。
 こうなると来月まで少し艶のない羽で過ごさなければならない。
 霊力が生え際から羽先まで存分に行きわたっていないからだ。
 だが、そんなことをおさ)に言い出せるはずもない。

「……明日、手伝おうか?」

 おさ)が申し訳なさそうに言うものだから。

「来たいならおいで。おさ)も飽きないね」

 強がった言葉とは裏腹に、オレはおさ)の手に羽を寄せていた。





 村の外れで悪霊集団が見つかったという報せを受け、オレはおさ)と共に現地へと向かっていた。

「慌てなくても全員と遊んであげるよ」

 一瞬で戦いの構えに入る。
 この程度の相手なら、すぐに片付けられる。

「もっと楽しませてくれ!」

 オレの霊力を纏った獣の爪が闇を切り裂く。
 こいつらの実力など知れている。
次々と悪霊を薙ぎ倒していく中、不意に異変を感じた。
数が、多すぎる。報告の倍はいる。
海から離れたここは悪霊の増援も難しいはず。
なにを目的としているんだ。

「っ!」

はっとした瞬間、おさ)の方へと意識が向く。
これは罠だ。戦力を分断するための。
振り向いた先で、おさ)が悪霊に囲まれていた。

おさ)!」

 両翼を大きく広げ、風を切って飛び込む。
 悪霊の攻撃が届く前に、オレはおさ)の体を翼で包み込んだ。
 奴らの醜い刃が翼を引き裂いた。
 おさ)が優しく触れていた羽が、今は盾となって引き裂かれている。
 なのに、なぜだろう。おさ)の無事を確かめることしか頭にない。

「無事か? 怪我は?」

 声が震えている。オレの声が、こんなにも不安定になるなんて。

「ない! それよりカラステングが」

 敵に囲まれているというのに、オレはほっと安らいでしまった。
 おさ)が元気なら、それでいい。

「オレの羽を穢した罰はきっちり受けてもらうよ」

 おさ)の周囲にいた悪霊どもを一掃し、本気の殺気を込めて叫ぶ。

「さあ、遊びの時間は終わりだ!」

 翼から血が滴る音が聞こえる。
 だが、振り返らない。ただ、背中で感じるおさ)の気配が、オレの全てを支配していた。
 悪霊どもの断末魔が闇に消えていく。
 全てを屠った後、おさ)の元へ急いだ。
 おさ)が駆け寄ってくる。

「羽の傷が酷い。手当てするから座って!」

 おさ)の声が、さっきよりも更に心配そうだ。
 涙でも零れるんじゃないだろうか。さっきまで悪霊相手に術を放って勇ましくしていたのに。

「大丈夫だ。この程度、天狗の治癒力ならね」
「でも、私のせいで。自慢の羽なのに」
おさ)

 小刻みに震えるおさ)に少し強く呼びかけた。

「オレの自慢の羽だからおさ)を守れたんだ」

 驚いたような顔をされてしまった。

「翼は大事だが、おさ)だってそうだ。どちらも大切だ。だが、片方しか守れないのなら」

 言葉を途切れさせる。
 これ以上は言えない。言ってしまえば、きっと。

「……手当て、する。最っ高の術、かけるから」

 おさ)の声は、先ほどよりも少し明るかった。

「仕方ないな。なら少しだけ遊んでやってもいい」

 そうして差し出した翼に、おさ)の手が優しく触れる。
 傷ついた羽でさえ、この手に触れられると痛みが和らぐような気がした。

「今度から、もっと気をつけるね」

 そう言って微笑むおさ)に、オレは答えなかった。
 気をつけるのはオレの方だ。
 二度とおさ)を危険な目に遭わせないよう、もっと強くならなければ。
 そう誓いながら、オレはおさ)の手に委ねた羽を小さく震わせた。

ハクリュウ    

 今朝、急な用事で席を外していたハクリュウは、本殿に戻るなり異変に気付いた。
 独神が管理する小さな庭に、鮮やかな赤い染みが点々と続いている。
 その先には何かを引きずったような跡。
 そしてそこには、独神の衣の切れ端が。
 刃物で切られたような痕跡があり、じわぁっと赤く染まっていた。

あるじ)サマ……!? いったい何があったのですか?)

 独神はいつも、自分で全てを抱え込もうとする。
 たとえどんなに辛いことでも、周りには悟られまいとする方なのだ。
 今朝も、珍しく「少し用事があるから」と、お伽番のハクリュウを遠ざけるように言っていた。
 例え心配であっても、独神のために大人しく待つという選択をしていたのだが。

(このハクリュウを傍らに置きながら、どうして何もおっしゃってくれなかったんですか)

 切なさが胸を締め付ける。
 天上に住まう五竜の一柱であるハクリュウは、瞬時に竜の姿となって空へ飛び立った。
 西方を守護する神たるハクリュウの目は、隅々まで本殿の周辺を見渡した。
 そして、林の中に人影を見つける。

あるじ)サマ……!」

 疾風の如く地上へ降り立ち、人の姿に戻ったハクリュウは、林の中へと駆け込んだ。

あるじ)サマ、どうか……!」
「あら、ハクリュウ。どうしたの? そんなに慌てて」

 独神は木陰に佇んでいた。
 その手には、刃物が。

(やはり……何かが起きたのですね)

「お困りのことがありましたら、このハクリュウにお任せください。たとえ、それがどのようなことであっても……」
「そうね。実は片付けるのに手間取っていたの」

(片付ける……)

 ハクリュウの胸の内で、決意が固まっていく。
 心優しき独神がそこまでせねばならなかったことだ。
 お伽番である自分は、全てを受け入れ、全てを背負おうと心に誓う。

「全てお引き受けいたします。どうか、お任せください」
「あら、気が利くわね。でも大丈夫よ、私一人でも何とかできるわ。ずいぶん慣れてきたもの」

 その言葉に、ハクリュウの心が痛んだ。
 いったい何度独神は一人で執行してきたのだろう。
 それに何故、自分には気づけなかったのか。

(主サマ……それほどまでに苦しんでいたのですか)

 他の者の手を汚させまいとしてのことだろう。
 自分を含めた英傑が不甲斐ない結果だ。

(このハクリュウが、もっと早く……)

 しかし今は後悔している場合ではない。
 独神が一人で背負い続けてきた重荷を、自分が代わって背負う時なのだ。
 たとえその行為が、どれほど重く穢れたものであっても。

「なんなりとご命令ください!  ワタシは最期の時までお供いたします!」
「そうなの? ありがとう。じゃあ来てくれるかしら?」

 独神の落ち着いた声に、ハクリュウの決意は更に固まる。
 すいすいと歩く独神の後をゆっくり追って木陰の奥へ進む。
 一歩、また一歩。
 そこには小さな机が置かれていた。その上に、赤いものが……。
 机の周りを見回すが、予想していたものは見当たらない。

あるじ)サマ。あのどちらにあるのですか」
「うん? 机の上にあるでしょう? スイカの皮」
「え?」

 机の上には、確かに真っ赤な果肉の切れ端と、縞模様の皮が。
 包丁で切られた断面が、夏の日差しを受けて艶やかに輝いていた。

「庭の赤い跡は……」
「ああ、運んでいる途中で汁が飛び散ってしまったの。暑かったから早く冷やそうと急いだせいね」
「では、布切れは?」
「古い布を裂いて、スイカを包もうと思ったのだけど、ふふ、破れちゃった」

 ハクリュウは膝から崩れ落ちそうになった。
 先ほどまでの決意も、覚悟も、全てが空回りしていたのだ。
 顔から火が出るような恥ずかしさに包まれる。

「あらまあ、もしかして色々心配してくれていたの?」

 独神が近づいてきて、ハクリュウの額に手を当てる。
 その仕草に、ハクリュウの心臓が大きく跳ねた。
 先ほどまでの緊張が、別の形の高鳴りへと変わっていく。

「は、はい……あるじ)サマのことが心配で、つい……」
「ふふ、嬉しいわ。でも、そんなに慌てなくても大丈夫よ。私には、強くて優しいハクリュウがついているんですもの」

 ハクリュウの頬が熱くなる。
 恥ずかしさと、独神の言葉への喜びが入り混じって。

「ところで、スイカを一緒に食べない? 今日みたいな暑い日に良いと思わない?」

 木漏れ日の中、二人で甘いスイカを分け合った。
 先ほどまでの慌ただしさが嘘のように、穏やかな時間が流れていく。

「ハクリュウ、口元に種が付いているわよ」
「え? どこでしょうか」
「ここよ」

 独神が顔を近づけ、親指でハクリュウの唇の端を拭う。
 その仕草があまりに自然で、かつ親密で、ハクリュウは思わず息を呑んだ。

あるじ)サマ……」
「なあに?」
「いえ、その……あるじ)サマは、このようなことを、他の者にも?」

 言いかけて口ごもる。
 自分でも驚くほど、嫉妬めいた感情が込み上げていた。独神の手が止まる。

「まさか。ハクリュウにだけよ」
「え?」
「だって、あなたは特別だもの」

 独神の瞳が、真っ直ぐにハクリュウを見つめていた。
 曇りのない瞳にハクリュウは確信を得た。

あるじ)サマ……ワタシも、あるじ)サマのことを……」

 風が吹き、木々が揺れる。
 木漏れ日が二人の間で踊るように明滅する。

あるじ)サマのことを、心からお慕いしています。この想いは、永遠に消えることはありません」

 告白とともに、ハクリュウは独神の手を取った。
 その手は小さく、温かだった。

「ありがとう、ハクリュウ。私も、あなたのことを……」

 独神の言葉が途切れたとき、突然の物音が二人を驚かせた。
 いつもの小鳥が木の枝に止まっていた。

「あら、この子もスイカが食べたいのかしら?」

 独神が笑う。
 緊張が解け、二人の間に穏やかな空気が戻ってくる。

あるじ)サマ、もしよろしければ……今度は、この背に乗って、空からの景色を見てみませんか?」

 ハクリュウは少し照れくさそうに提案した。
 先ほどの告白で、なにか大きな一歩を踏み出せた気がしていた。

「ええ、素敵ね。楽しみにしているわ」

 独神の言葉に、ハクリュウの心は大きく羽ばたいた。
 もう二度と独神を見失うことはない。自分は独神にとっての特別だから。
 小鳥が甘いスイカの香りに誘われて、二人の元へ舞い降りてきた。
 夏の陽射しの中、新たな絆が芽生えた午後のひとときであった。

エンマダイオウ    

────八百万界暦××32年 春の始まり

 八百万界の秩序を記録するこの閻魔帳に、わたくし)は今日も筆を走らせている。
 規律を乱す者の罪を記し、裁きを下すこと。
 それがわたくし)の務めであり、生き甲斐である。

「南方領域にて、市場の混乱を煽った悪戯妖、三名を成敗」

「東方山岳地帯の村にて、規則を無視して人里に降りた山童、一名を説諭」

「西方河川に棲む河童、水遊びの度を超え、漁民の生活を妨げたため、過料を科す」

 淡々と事実を記していく。
 感情を交えず、ただ在ったことだけを。
 それが閻魔帳の作法である。

 だが、次の頁に記すべき事案の前で、わたくし)は筆を止めた。

「本日、独神を裁くため本殿へ向かう」


***


──八百万界暦××32年 春三日目


「八百万界の平和が訪れるまで、独神への裁きを延期することとした」

 公式の記録はそれだけ。だが、その横には小さな文字が添えられている。

「これが正しい判断か今でも疑問である」

 初めて、わたくし)は閻魔帳に個人的な感想を記してしまった。
 世間は独神を高く評価しているようだが、わたくし)は振り回されるわけにはいかない。
 見極めなければ。


***


──八百万界暦××32年 春五日目

「独神、北方村落にて暴力的に悪霊を排除」

「規律を無視した行動、看過できず」

「しかしながら、民衆からの支持多数につき、即時の裁きは見送り」

 余白に走り書き。

「このような者に、八百万界の命運を委ねて良いものか」

「私は騙されていないか」


***


──八百万界暦××32年 春十日目

「独神の行動、予想以上に大胆かつ無謀」

「民衆の心を惑わす言動、危険性あり」

 この記録の隣に、後日追記されたような文字。

「だが、彼女の言葉には確かな重みがある」


***


──八百万界暦××32年 夏七日目

「独神、荒野の集落を訪問」

「民衆と膝を交えて語らう様、意外なり」

「己の戦いが招く犠牲についても、深く思いを巡らせている様子」

 記録の端に小さく。

「単なる扇動者ではないのかもしれない」


***


──八百万界暦××32年 夏十五日目

「独神、北方荒野にて悪霊三体を退治」

 筆を置こうとして、また戻す。

「迷いなし。民衆を守る意志、真摯なり」

 不要な記録である。消すべきだろう。
 だが、わたくし)は消さなかった。


***


──八百万界暦××32年 秋始め

「独神、戦いの中で負傷した民衆の看病に奔走」

「自らの行動が招いた結果に、真摯に向き合う」

 余白に記された文字が、普段より柔らかな筆致に見える。

「己の正義を貫きながらも他者への慈しみを忘れず」


***


──八百万界暦××33年 春七日目

「独神、民衆を××××」

「独神、民衆の心を一つにまとめ、悪霊への抗いを導く」

 前の文は黒く塗りつぶされている。
 扇動と書こうとして、書けなかった。嘘になるから。
 わたくし)の記録は、いつからこれほど主観的になってしまったのだろう。


***


──八百万界暦××33年 夏至

「独神、新たな戦術を展開」

「民衆の力を借りつつ、犠牲を最小限に抑える工夫が見られる」

 欄外に記された文字。

「かつての私の危惧は、杞憂だったのかもしれない」


***


──八百万界暦××34年 春三日目

「独神の采配により、北方荒野の悪霊、完全に討伐する」

 余白に走り書き。

「民衆は独神を英雄と呼ぶ。否定できない」

「独神の行いは、時に規律を超える。だが──────」

 以下は途切れている。墨の滲みが、迷いの跡を示している。


***


──八百万界暦××35年 冬至

「独神、傷ついた悪霊を救う」

「規律に反する行為ではあるが」

 記録は中断している。
 欄外には、乱れた文字で。

「正しさとは、一つではないのかもしれない」


***


──八百万界暦××37年 春の始まり

「独神の治める地域、秩序と自由が共存」

「規律を超えながらも、民衆の心を導く手腕」

 余白には、ほとんど告白めいた言葉。

「貴方にしか、できない正義なのだろう」


***


──八百万界暦××38年 秋落葉

「東方より西方まで、悪霊の気配消失」

「八百万界、平穏を取り戻しつつあり」

「民衆の中に、笑顔戻る」

 記録の端に、小さな文字。

「約束の時が近づく」


***


──八百万界暦××40年 冬至

「独神への裁決

 罪状:規律を超えた行動、民衆の扇動
 情状:八百万界の平和への貢献
 判決:国外追放」

 欄外の走り書き。

「これが精一杯の」

 文は途切れている。
 文字に起こすわけにはいかなかった。


***


──八百万界暦××40年 冬の終わり

 閻魔帳の最後のページ。
 通常の記録とは異なる、個人的な文章が記されている。

「独神様。
 貴方は規律を超えて、民衆を導き、八百万界を救った。
 私は規律に従い、貴方を裁いた。
 互いの正義を貫いた。
 それこそが、私たちの愛なのかもしれない」

 その後のページは、まだ白紙のまま残してある。

 独神様。
 また。

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