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吹き抜けになった空間は地上三階分ほどの高さがあり、壁に沿って螺旋状に回廊が巡らされている。
各層には大小の搬入口が設けられ、かつては荷物の上げ下ろしに使われていたのだろう。
今は錆びた滑車が虚しく吊るされているだけだ。
螺旋状の回廊を下りていく。松明の明かりは下層に行くほど増え、足元は次第に明るくなっていく。
だが逆に、見上げれば見上げるほど上層の闇は濃さを増していく。
まるで巨大な暗い穴の底へと降りていくかのようだ。
回廊の手すりには朽ちかけた箇所も見られ、長年の雨漏りで床が腐っている部分もある。
内部ではそれなりに名の知れた盗賊や悪党たちが酒を煽り、時に諍いを起こして流血している。
それを面白がって囃し立てる声が、血の匂いと混ざり合って渦巻いていた。
オオタケマルが最下層まで下り立つと、喧騒に包まれていた空間が一瞬にして静まり返った。
恐れと尊敬の入り混じった視線がオオタケマルに注がれる。それも当然だった。
この空間に集う者たちにとって、オオタケマルの名は畏怖の対象だった。
酒に酔った勢いでオオタケマルに刃を向けた者は数知れず、だがその全てが一撃で命を落としたという。
「よお、オオタケ」
奥から声がかかる。オオタケマルの顔に笑みが浮かんだ。
「久しぶりだな、カラス」
カラスと呼ばれた男が、オオタケマルの肩を叩いた。
その目が一瞬、何かを確認するようにオオタケマルを見る。
烏のように真っ黒な羽は少し艶がなく、毛並みが悪い。頭襟や鈴懸、結袈裟ではなく、最近流行の洋服を身に着けている。
カラスはオオタケマルの後ろにいる珍妙な被り物をした独神に気付いた。
(天狗でこの霊力というと、京周辺のひとかしら。修行を投げ出した野良の一人ね)
独神は存在感を消すように、ただ黙って立っていた。
「珍しいじゃねえか。女連れなんて」
「ちょいとな」
カラスは独神をじろじろと見る。独神は内心で微笑んだ。
(ここは、私に商品的価値を見出してもらおうかしらね)
普通の女性なら恐怖を感じるはずの視線に、独神はわざと無防備な様子を見せる。
自分が裏社会にとって価値ある存在だと言うならば、餌になるのも悪くない。
様々な相手を釣り上げ、迅速に情報を引き出せるだろう。
「……いい女の匂いがするじゃん」
近づいたカラスがふいに独神の首筋を舐めた。
独神は微動だにしなかったが、オオタケマルが殴りかかった。しかしそこは天狗。ひらりと避けた。
「俺の物に触るんじゃねェ。殺すぞ」
「そう怒んなよ。お前がいらなくなったら貰ってやってもいいぞ」
がははと笑って人混みの中に消えていった。
舌打ちをしたオオタケマルは独神に言った。
「あんなのに良いようにされてんじゃねェ」
「でも反応するより、ただの置物でいた方が怪しまれないわよ」
独神は平然と答えると、オオタケマルは彼女の顎を乱暴に掴む。
「手前は俺の道具だ。勝手な判断は許さねェぞ」
「……はい」
独神は感情なく答えた。
「……可愛げのねェ女だ」
乱暴に放すと、先をズカズカと歩いていく。独神は心の中で思った。
(嫌だったのかしら。でも私を囮にした方が効率が良いわけだから……。うん、仕方がないわよね)
独神は何も言わずに着いて行った。
「迷子になんなよ」
「子供じゃないわ」
「その物怖じのなさが厄介なんだよ」
そう言いながら裏拳を浴びせかけ、オオタケマルの後ろにいた人物が倒れた。他の男が構えていた小太刀を奪い、顔面を切り裂く。血が噴き出す様を、周囲はもっと殺せと楽しそうにしている。
独神は布の中で嫌な顔をした。
「手前はそのまま弱いフリを続けてろ。今日の客は質が悪ィ」
独神を襲おうとした男を蹴り飛ばした。男の体が壁に叩きつけられ、そのまま動かなくなる。
独神は心中で溜息をついた。死人が出るたびにうんざりする。
暴れて楽しそうなオオタケマルは放っておいて、自分は周囲を観察する。
物の配置。種族の比率。知り合いはいないか。
それならもっと外も見ておくべきだった。
「少し、建物の様子を見てきても良いかしら」
「は?」
「さらわれた人を探してくる」
「好き勝手に動くんじゃねェ」
「道具として、少しは役に立ちたいから」
その言葉に、オオタケマルは睨んだ。
「……チッ。長々とするんじゃねェぞ」
「はい」
一旦建物の外へ戻った。
昼の日差しの下、廃墟の外れを歩く。
辺りには人気がなく、地下広間の喧騒さえ遠くに感じられた。
(この建物、危ない取引をするなら抜け道がいくつもありそうね)
壁に手を這わせながら、独神は密かな入り口を探る。石組みの隙間、地面の凹み、どこかに手がかりがあるはずだ。
探索に集中するあまり、背後の気配に気付くのが遅れた。
その時、強い力で腕を引っ張られる。
咄嗟に振り向いた時には既に遅く、カラスが独神の腕を掴んでいた。
(まさか、ここまで早く動くとは……)
独神は心の中で歯噛みした。
「君、いい商品になるよ。オオタケマルの手がついてるけど、黙ってりゃわからないでしょ」
日差しが照りつける中で、カラスの表情が蜃気楼のように歪んでいく。
先ほどまでの愛想の良さは消え失せ、その目は獲物を見る目つきに変わっていた。
「離して下さい」
「嫌だよ。独神様」
その一言で、空気が凍りついた。
独神の瞳から温もりが消え、冷たい光が灯る。
術が放つと、カラスの手が独神の腕から弾き飛ばされた。
「アタゴがよく話してたよ」
カラスは痛む手を振りながら、なおも独神に近づこうとする。
その口調には、どこか病的な喜びが混じっていた。
「いっつも偉そうでムカついてたんだ。独神様に首輪つけてアイツ等の目の前に引きずり出したら喜んでくれそうじゃない?」
独神の唇が僅かに歪む。その表情は先ほどまでの大男の付き人のものとは全く違っていた。
「私を使ってあの子たちに危害を加えるつもり?」
その声は静かだった。しかし、それは真冬の氷のような冷気を帯びていた。
独神の周囲の空気が、目に見えて濁っていく。
強い日差しの中で、まるで墨を垂らしたように闇が広がっていった。
カラスの表情から笑みが消える。
後ずさりしたそうな素振りをみせたが、足が動かない。
「ふ、ふざけるな! オマエなんか!」
カラスは恐怖を押し隠すように咆哮した。しかし、その声は裏返っている。
独神は一歩も動かない。
ただ、その真っ黒な瞳だけが、じっとカラスを見つめていた。
深い深い闇を覗き込むような、そんな瞳。
天狗の羽が、意思とは無関係に震え始める。
対峙しているのは人でも妖でも神でもない。
八百万の全ての魂を従えた者。数多の英傑すらひれ伏した覇者。
「あら。私を前に震えるだなんて可愛らしいところがあるのね」
震えを両手で必死に抑えようとするその仕草に、独神は小さく笑った。
「私、天狗の技は結構知ってるのよ。アタゴもクラマも、他の子たちも、みんな見せてくれたから」
独神が右手を翳すと、淡い光の糸が指先から零れ落ちる。
その糸は空気中を漂い、やがてカラスの周囲で渦を巻き始めた。
「っ!」
カラスの跳躍が、途中で止まる。独神には見えていた。彼の魂が糸に絡め取られ、天狗の力が削がれていく様が。
羽ばたきは次第に緩慢になり、足取りは重くなっていく。
「ああ、そうそう。天狗って速さは秀でていても、魂を縛られると案外脆いのよね」
独神は左手でもう一つの術を重ねた。地面に円を描くように。その円から立ち上る光が、カラスの体を締め付けていく。
独神の目に映るのは、全ての動きを奪われ、全ての力を封じられていく天狗の姿。
カラスの全身が強張り、ついには指先すら動かなくなった。
その姿は、まるで見えない蜘蛛の巣に絡め取られた虫のようだ。
「さて、あなたのような人は野放しには出来ないわね」
声音が変わり、それは残虐な慈愛とでも呼ぶべき響きを帯びていた。
「やめろ。やめろ!」
カラスの声が震える。もはや先ほどの傲慢さは影も形もない。
「ちょうど良い商品が見つかったわ。生きた天狗なんて、どれほどの値が付くかしら」
その冷徹な声色に、カラスの顔が歪んだ。
「おい、お前。なに馬鹿な事言ってんだ。独神だろ? 正義のお前がこんなことしていいと思ってんのか」
「私。もう独神じゃないわ」
陽光に照らされた独神の表情に冷徹さが宿る。
それは慈悲深い独神ではない。
かつて八百万の殆どを滅ぼした悪霊、魔元帥、界帝霊をことごとく退けた者の眼差し。
カラスは独神から、もう目が離せなくなっていた。
「…………今すぐ私の前から消えなさい。口外もしては駄目。そうだわ。言えなくなるようにしてあげるわ」
拘束を解きながら、独神は最後の術をかける。
指先から放たれる光が、カラスの喉元に糸を紡ぐように絡みついていく。
「さようなら。次は身体の一部を貰うわよ」
カラスは凄まじい勢いで逃げていく。
その足取りは酷く乱れ、何度も躓きそうになりながら、それでも振り返ることなく走り、やがて羽のことを思い出したのか左右不揃いの羽で空を駆けていった。
独神は逃げていく背中が見えなくなるまで、冷たい視線を向け続けた。
やがて独神は溜息をつく。
(暴力なんて最低だわ。……でも、英傑を守る方が大事だもの。しょうがない……よね?)
独神は夏の日差しを見上げた。表情は再び、どこか寂しげなものに戻っている。
建物に戻らなければ。長くしすぎれば、オオタケマルが不審に思う。
広間に戻ると、客たちは馬鹿騒ぎを続けていた。
人の間を縫うように歩いていると、自身に向けられた視線を感じた。
「っ!」
独神が反応する時には遅い。既に後ろをとられ、両腕を後ろにねじられていた。
耳元で囁かれる。
「やあ。独神ちゃん。楽しそうで物凄く不愉快だよ」
「こ、」
腹に鈍い圧迫を感じた。
振り向けないが、声の主は分かる。
そして、その仕草にも見覚えがある。
(待って……さっきから人混みの中で、ぎこちない物腰で酒を飲んでいた男。あれが……)
独神の中で記憶が繋がる。確かにその男はずっと近くにいた。
しかしその不自然な動きの意味に気付かなかった。
あれはフウマコタロウからの"合図"だったのに。
「まさか、ずっとそんな姿で……」
独神の声に、背後の男が小さく笑う。
「名前。今は呼ばないで。判った?」
頷きながらも独神は身体の力を抜いた。
拘束されているのに安心感がある。
相手もまたそうだったのだろう。捻り上げた腕を緩めた。
「……少し太ったね」
独神は答えた。
「今は毎日食べてる、から」
「そっか。良かった」
安心したような声であったが、一転した。
「僕がここにいる理由、判るよね」
「オオタケマルでしょ」
コタロウは笑った気配がしたが、何も言わなかった。
「チッ、ふらふらしてんじゃねェよ。やっぱりガキじゃねェか」
オオタケマルの怒声が轟く。
群衆を掻き分けながら近づいてくる。独神を見つけ、目の色を変えた。
その瞬間、影のように素早くコタロウが飛び出す。放たれたクナイが空気を切り裂く音を立てる。
変装は既に意味を失っていた。今や忍の姿そのものだ。
オオタケマルは一瞬で態勢を変え、巨大な扇を抜いてコタロウに向けた。
「来やがったな忍!」
オオタケマルの目が血走る。
腕利き同士の戦いとみるや、周囲の客たちが慌てて距離を取る。
中には「忍っていうと伊賀か」「甲賀かもしれん」「風魔? なんだっけか」と囁く者もいる。
「久しぶりに本気で暴れられそうだぜ」
コタロウは軽やかに身を翻し、構えを低くしながらクナイを手に取る。
その仕草には無駄が一つもない。
独神はその姿に、どこか懐かしさを覚えたが、甘やかな過去に浸れるような状況ではない。
(二人がぶつかって欲しいわけじゃないのに。ああもう、無茶苦茶だわ)
その時、地下広間の喧騒を切り裂くように、一つの声が響き渡った。
「失礼、皆さま」
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