二度目の夜を駆ける 十二話「吉備-壱-」

 天の浮橋を渡り切った瞬間、足元の景色が一変した。
 霧に覆われた岬が、私たちの前に広がっている。
 うっすらと白い霧の向こうで波が岩を叩く音が響き、潮の香りが鼻をつく。
 浜辺に立つと、きらきら輝く橋は霧散していった。
 帰る時どうするのだろう……。と一瞬思った。

「ここは、吉備……です?」

 私は隣のヌラリヒョンさんを見上げた。

「儂にもさっぱり判らぬ。そのあたりの漁師にでも話を聞こうか」

 そうよね。光る橋が現れて、渡ったら目的地に着いてました、やったー!
 ……なんて、そんな都合の良い話があるはずもない。
 私は目を細めて辺りを見回した。
 岩場の続く浜辺から少し離れたところに、ぽつんと建つ小さな掘っ立て小屋が目に入る。
 人の気配はしないものの、何か手がかりがありそうだ。
 砂に足を取られながら、私たちはそちらへと向かった。

「所謂フッツーの倉庫ですね」

 壁に空いた穴から中を覗き込む私の横で、ヌラリヒョンさんが引き戸をガッと開けて中に入っていった。止める間もない。
 勝手に上がり込んで、あちこち見て回って、気になったものに触れる。さすが妖怪。遠慮もなければ躊躇もない。
 でも正直、こういう時助かる。

「長い間使っておらぬようだぞ。と言っても数ヵ月くらいか」

 小屋の隅に積まれた網には塩の結晶が白く残り、竿には乾いた海藻がこびりついている。
 何かが書かれた竿の持ち手に目が留まった。

「……『ウラシマ(ハートマーク)』……? 持ち主は女の子でしょうか?」
「ううむ。女漁師は嫌がられることが多いのだがな。……海の女神は嫉妬深いのだぞ」
「でも鹽土老翁神しおつちおじのかみ)さんは男性でしたよ?」
「アレはそうだが、海を司る神は幾人もいる」
「へえ」

 どんな方なんだろう。海の女神様。
 人魚……とか。想像は膨らむけど。

「しかし、漁具が放置された形跡に加え、魚を干した跡も、新しい仕掛けや網を作る様子もないな」

 ヌラリヒョンさんが眉をひそめて呟く。
 私は埃っぽい匂いがするとしか判らないが、確かにどの道具もずっと使われていない気がする。

 私たちは小屋を離れ、ごつごつとした岩場を越えて先へ進んだ。
 すると、入り江に沿って建ち並ぶ板葺きの家々が見えてきた。
 石を積み上げた船着き場には、何隻もの漁船が係留されている。
 港だ。
 でも、何かがおかしい。
 どの船も帆は下ろされたまま。
 船の縁には青々とした藻が生えている。
 オマケに陸には船具が雑多に放り投げられて。
 まるで時が止まったみたいに生気が感じられない。

「誰か。ひとはいるか」

 ヌラリヒョンさんの声が静まり返った港に響き渡る。
 すると船着き場の番小屋の陰から、一人の老人がおずおずと顔を出した。

「あんたら、どこから来た?」

 老人は船着き場の柱に寄りかかったまま、警戒するような目で私たちを見つめている。
 不審者度の低い(であろう)私が一歩前に出た。

「旅の者です。宿を探しているのですが、どちらへ行けばいいでしょうか」
「ない。帰れ」

 冷たい声に怖気づきながらも、私は勇気を振り絞った。

「それってこの寂しい漁港と関係があるんですか?」

 老人は深いため息をついた。
 疲れた目をして、言葉を紡ぎ始める。

「……最後の漁は三ヵ月前だ。川が腐っちまってから、魚も消えちまった」

 言われてみると、鳥の姿も見えなければ、魚の跳ねる気配もない。
 まるで生き物を寄せ付けない、冷たい海が広がっているようだ。

「塩田も見せてやる。良い気分にはならねぇがな」

 老人と共に歩を進めると、田んぼのように区画分けされた人工的な浜、というか田が現れた。

「血の池地獄…………あ、違」

 思わず漏れた失礼極まりない言葉に、老人が苦々しい表情を浮かべる。
 目の前に広がる赤い水たまりは、陽光に照らされてより一層妖しい色を帯びていた。
 濃い赤。血管の中を流れる血液そのものだ。
 塩の結晶も真っ赤に染まっていた。宝石のような美しさではない。傷口から滲み出た血の塊のような不気味さだ。
 風に揺られる赤い水面が、ゆらゆらと波打っている。潮の香りではない、何か生臭いような匂いが漂ってくる。
 ここで人間が解体され臓物が掻き出された。みたいなひどい想像が瞬時に広がる。

「昔は塩の花が咲いてたんだ」

 老人は遠い目をして呟いた。

「朝日に輝く真っ白な結晶。まるで雪のようだった」

 懐かしそうに言った老人の言葉に、私は目の前の赤い塩田と重ね合わせる。
 純白の雪が広がる姿が想像出来ない。

「確かにこの光景は、俺達にとっちゃ地獄だ」
「先程は大変申し訳御座いませんでした……。あ、あの、そもそもなんですが、水なのに、こんなに赤いの変じゃないですか?」

 社会でアオコや赤潮って習った気がするけど、それとはちょっと色味が違う。
 赤潮は習字の指導に使われる朱色が近い。でもこれは、もっと深くて暗い赤だ。近いというと。
 思わず腹に手が伸びる。
 つい最近まで開いていた傷の記憶が、生々しく蘇ってきた。

「川のせいだ。その川は『人の血を吸う川』と、昔から言われてたんだ。子供の頃は怖い話として聞かされたもんだが……まさか本当に、血の色に染まるとはな」

 先代から語り継がれてきた言い伝えが、目の前で現実となってしまった戸惑いが、その声音から伝わってくる。
 ヌラリヒョンさんは塩田に近づき、赤い水面をじっと見つめている。
 その表情には珍しい緊張が浮かんでいた。

「あまり気配が良くないな。不漁のこともある。早急に手を打つべきだろう」

 私も同意見だ。これは放っておいちゃ駄目だ。

「原因の川はどこにあるんですか?」
「錆川か? やめとけって。あんな所に近づくもんじゃない」

 老人は激しく首を振った。

「近くの村のヤツらの話じゃ、川に近づくだけで狂うらしい。目眩がして、まともに歩けなくなる。年寄りはその場で倒れる始末さ。あんたらもさっさとここを離れた方が良い」
「ご忠告ありがとうございます」

 話してくれた老人に別れを告げ、私たちは警告をまるっと無視して錆川へと向かうことにした。
 赤い川。
 これはモモタロウくんの夢に登場していた。
 ただの偶然ではない。確信めいたものが胸の中で重くなる。

「さあて、どうする。儂も西には詳しくない。折角だから其方がつけた忍とやらを使って周囲を調べさせてはどうだ」
「それ良いですね! じゃあやってみます」

 さあ、モモチタンバさんに頼もう。
 ……って、そうしたいのは山々なんだけど。
 モモチタンバさんは、ヌラリヒョンさんに認知されていない。
 頼むならヌラリヒョンさんの目のない所でやる必要があるのだが、どう言って納得してもらおうか。

「……どうかしたか?」

 あなたがいると困る、なんて口が裂けても言えない。
 うまく言い換えて……。

「私、一人で頑張ってみたい。です。だから、ヌラリヒョンさんがいないところで良いですか? 見られてると安易に頼っちゃうから……」

 ヌラリヒョンさんはくすりと笑った。その笑みには温かみがあった。

「判った。其方に任せる。頼んだぞ」
「はい!」

 よし。これでいい。
 ヌラリヒョンさんが通りすがりの人に話を聞きに行ったのを見送り、私はモモチタンバさんとの接触を試みる。

「こんにちは」

 声に出すか出さないかの呟きのような呼びかけ。
 それでも、モモチタンバさんはすぐに現れた。

「吉備についての情報が欲しいんだな」
「まだ言ってませんよ……早過ぎませんか」
「当然だ。あるじ)殿の動向は常に把握している」

 怖っ。
 なんて思っちゃいけないんだろうけど。

「既に周囲の悪霊の拠点は把握している。あるじ)殿のご下命次第すぐに排除する」

 全てが私の先を行く有能さに私がついていけない。
 待って。なんだっけ。まず。

「……ご。ご下命って、何です?」

 私の馬鹿すぎる質問に、モモチタンバさんはぴくりとも表情を変えなかった。

「命令の意味だ」
「あ、やっぱりその意味で良いんですね」

 表情を一切動かさないモモチタンバさんを前にして、気まずい空気に押しつぶされそうだ。
 こんな人の上に立てる気がしない。
 不安が広がる私に、モモチタンバさんが淡々と言った。

「現状、あるじ)殿は忍の使い方の基本がなっていない」
「存じております……」
「主が忍に合わすのではない。忍が主に合わせるもの。此度のことは、俺があるじ)殿に合わせて言葉を選ばなかったことに問題があるのであって、あるじ)殿が落ち込むことではない」

 怖いくらいの完璧さ。
 私は悪くないって。
 全部私に合わせてくれるって。
 けれど、そんな百億万点の進言はお断りさせてもらった。

「そんなことをさせたら、モモチタンバさんの能力を腐らせるだけです。私が合わせます。お時間は頂きますけど……。失敗も結構あるだろうけど……。でも、ちゃんと出来るようになるから」

 その言葉に、モモチタンバさんの口元が僅かに緩んだように見えた。

「承知した」

 私も安堵の笑みがこぼれる。
 そしてモモチタンバさんに指示を出した。
 悪霊は先に排除して。ただし私の手先だと気付かれないように、と。
 そして最後に、連絡を取り合うための合図を決めた。

「見て。これお守り。用があったらこれを見えるところにつけておきます」
「承知した」

 モモチタンバさんが去る前、私は思わず声をかけていた。

「あの……いってらっしゃい。無理はしないで下さいね」
「忍に無理をするななどと。あるじ)殿は変わっている」

 そう言い残して、モモチタンバさんの姿が消えた。
 無理してほしくないって、普通だと思うんだけどな。
 モモチタンバさんのほうが余程変わっている。

 さて、と私は通りを見渡した。ヌラリヒョンさんの姿を探す。
 程なくして、彼を見つけることができた。民家の前で、誰かと話をしている。
 駆け寄ると、既に重要な情報を掴んでくれていた。

「モモタロウが向かった先が判った。ここからそう遠くないそうだぞ」
「良かった! さすがヌラリヒョンさんです!」

 私たちは急ぎ足で歩みを進めることにした。
 モモチタンバさんに悪霊の排除は頼んでおいたが、日が暮れての移動は危険だ。
 殆ど休憩なく、一心不乱に歩いていった。

「もう少しで吉備だ」

 ヌラリヒョンさんの言葉に頷きながら、私は深い山々に囲まれた道を見上げた。
 尾根を一つ越える頃には、空が茜色に染まり始めていた。
 陽が沈もうとする谷間に、板葺きの家々が影を落としている。
 畑が山肌を這うように広がり、その向こうには更に家々が並んでいた。
 でも、何かがおかしい。
 夕暮れ時というのに、竈の煙一つ立ち上らない。
 畑には、たった今まで誰かが作業していた形跡があるのに、人の姿がない。
 まるで、この村が突然息を止めたみたいに。

「静かですね……」

 私は思わず声を潜めていた。
 普段なら人里で聞こえるはずの、人の声も、家畜の鳴き声も、道具を使う音も、なにひとつ聞こえない。
 ただ風だけが、枯れ草をカサカサと転がしていく。

 その時、道の先で母親らしき女性が子供の手を引いて歩いているのが目に入った。
 やっと人に会えた、と思った瞬間。
 母親が私たちの方をちらりと見て、表情を強張らせた。
 そして小声で「目を伏せなさい」と子供に言い、その目を手で覆う。
 子供は不思議そうな声を上げる。

「どうして?」
「静かに」

 母親の声が震えていた。
 私はおずおずと「すみません」と言った瞬間、母親は子供の手を強く引いて、足早に立ち去っていった。

「また来やがった!」

 誰かが家の中から怒鳴り、戸を勢いよく閉めた。
 大きな音のダブルパンチに心臓がバクバクする。
 私とヌラリヒョンさんは顔を見合わせ、首を傾げつつ村の中心を目指して歩いた。
 農作業を終えたらしい老婆が私達の横を過ぎながら、ジッと見てくる。
 その目は警戒を通り越していて、視線で私達を殺す勢いだ。

「あ、あの」

 声をかけようとすると、鎌を強く握りしめたまま、足早に立ち去っていく。
 ヌラリヒョンさんは私の肩をとんと叩いて、元気づけてくれるが、もう誰かに話しかけるのが怖くて仕方ない。
 拳を握りしめて、言葉もなく歩を進める。
 またこちらへ向かってくる人影が見えた。
 私は恐怖を堪えて駆け寄った。

「あの、ここで黒髪の男の子を見、」

 男は私たちを一顧だにせず通り過ぎていく。
 とりつく島もなく、私の言葉は途中で消えてしまった。

「……村の方たち、随分殺気立ってますね。てか、鬼って……さすがに酷」

 ヌラリヒョンさんは口元を指して首を振った。
 話すな、という仕草。私は頷いて口をつぐんだ。
 本当はこの恐怖を口にして、少しでも楽になりたいのだがここは耐える。

 私たちが通り過ぎるたびに、家々の戸が静かに閉められていく。
 覗いていた顔が引っ込み、こそこそ話が消える。
 まるで疫病神でも通るかのように。

 やっとの思いで村の中心まで辿り着くと、そこにはひっそりとした市が立っていた。
 市があるというと、付近の村ともしっかり交流があり、物流が整っているということ。
 他所の村や、流れの商人もいるならばきっと、今度こそ会話が成立するはず。
 が、店の主たちは私たちを見るなり目を逸らす。重苦しい空気が漂う中、私は勇気を振り絞って声をかけた。

「すみません。川についてお聞きしたいのですが」

 店番の若い娘に話しかけると、彼女は目を見開いた。

「し、知りません!」

 娘は慌てて逃げ出してしまう。

「申し訳ない」

 店の主人は目を合わせようとせず、品物を片付け始めた。

「ここは、よそ者には開かれていない」

 私は一歩踏み出して、もう一度声をかけた。

「私達モモタロウくんのことを探していて……」

 その瞬間、周囲の空気が凍り付いた。
 誰もが手を止め、私たちを見る。
 その目は、獲物を見定める獣のようだった。

「出て行け」

 今度は明らかな敵意を含んだ声だった。

「よそ者が。余計なことを」

 その言葉に呼応するように、周りの店も次々とその場を離れていく。

「待ってください。せめてモモタロウくんのこと」
「黙れ!」

 主人の声が一段と強くなる。その目は今までより更に冷たさを増していた。

「里のことは里で治める。余所者が余計な手出しはせんでくれ」

 威圧的な声に、私は思わずヌラリヒョンさんの袖を掴んでいた。
 主人が姿を消し、広場には誰もいなくなった。
 私たちだけを残して。
 でも、人の気配は消えていない。
 閉ざされた戸の向こうから、誰かが覗いている。
 建物の陰で、誰かが私たちを見つめている。
 視線が背中に刺さり、息苦しくなる。
 自分が忌むべきものとして見られていることに、心臓が早鐘を打ち始める。
 全身に広がる吐き気と、喉の奥に込み上げる苦いものと、背中に刺さる無数の視線。
 それらが渦を巻いて、どうにかなりそうな程の痛みになる。
 膝が震えて、今すぐにでも逃げ出したい。
 そんな私の頭に、ヌラリヒョンさんが優しく手を置いた。

「儂がいる」

 その声は、私にだけ向いていた。
 忘れてはいけない。私は一人なんかじゃない。
 ヌラリヒョンさんの手の温もりが、少しずつ全身に広がって痛みが溶けていく。
 深く息を吸うと、やっと空気が肺まで届いた気がした。
 そして思い出したように、ポケットのお守りに触れた。
 ふわりと、背中の重みが消えていく。
 私は大丈夫だ。
 こんなに心強い人たちが、私にはついているんだから。

「本来はこういう里ではないのだ」

 声がした。
 振り返ると、建物の裏から小柄な老人がゆっくりと姿を現した。
 腰の曲がった老人は、私たちを見上げると寂しそうな微笑みを浮かべた。

「うちの茶屋で一息つかんかね。あんたらも疲れただろう」

 ヌラリヒョンさんと目が合う。お互いに小さく頷いた。
 茶屋の店内は薄暗く、私たち以外に客の姿はない。
 炭火の明かりだけが、静かに揺らめいている。

「すまないねぇ。村の衆があんな態度で」

 老人は火鉢に炭を継ぎ足しながら、静かに言った。炭がパチリと音を立てる。

「昔は、もっと人の温かい里だったんだよ。旅の人も快く迎えて、宿も貸してやった。祭りの時なんか特に賑やかでな。遠くの村からも人が集まって……」

 茶を淹れる老人の手が少し震えている。
 ふと、その目が遠くを見た。

「でもな。その頃から、夜の外出は禁忌だった」

 老人は火鉢に手をかざしながら、急に声を潜めた。

「母親たちは口を揃えて言うんだ。『日が暮れたら外に出てはいけない』って。温羅様に連れて行かれるからって」

 老人は震える声で続けた。

「子供を怖がらせる与太話じゃない。本当に獣のような唸り声が聞こえていた。里の外れから村まで響いてくるんだ。そして次の朝には誰かがいなくなっている。大人たちは『供物』と口にしていた。温羅様の供物だと」

 炭がパチリと弾け、老人が体を強張らせる。

「私の友だちも、さらわれた。里の外れに住んでいた子だ。今でも、あの時のことを思い出すと……。温羅様の仕業に決まっていた。血に飢えた鬼、恐ろしい鬼だった」

 老人の声には古い恐怖が滲んでいた。温羅の名を口にするたび、その声が震える。
 ヌラリヒョンさんが腕を組んで、静かに老人の話に耳を傾けている。

「だが、ある子供が、静かな夜を取り戻してくれた」

 老人の声が、少し明るさを取り戻す。
 熱い茶が私とヌラリヒョンさんに振る舞われた。
 湯呑の温もりがじんわりと指先を温めていく。
 ふとヌラリヒョンさんを見ると、床に湯呑が置かれていた。
 お茶好きなのに、である。
 私は最悪のことを考え、湯呑には口を付けず、手を温めるだけに留めた。

「その子供とやらが温羅という目の上のたんこぶを取り払ったのだな」
「そうだ。その子はとてつもない力を持っていてな。……人の子とは思えないほどの強大な力を」

 老人は一瞬言葉を詰まらせた。

「その子が温羅様を退治してくださって、里は救われた。けどな……」

 炭がパチパチと音を立てる。その音が、異様に大きく響く。

「温羅様は最期に言ったんだ。『この首は決して消えぬ。この地に留まり続け、永遠にお前たちを呪ってやる』とな。その言葉通り、温羅様の魂は消えなかった。首が落ちた場所に結界を張り、神社を建てて、どうにか封じ込めてきたが……」

 老人は両手で茶碗を包み込むように持った。まるで温もりにすがるように。

「数ヵ月前から血吸川が赤く染まり始めた。生き物が川へ近づけば命が枯れる。それに、里の者たちの心まで変わっていった。他所から来る者を見れば鬼の手先かと疑い、知らない顔を見れば温羅様の使いではないかと怯える」

 私たちを鬼扱いしたことを思い出す。
 彼らは温羅という鬼への恐怖から妄想に憑りつかれているらしい。

「あれは、昔、温羅に怯えていた時と同じだ。あの恐怖が、また蘇ってきている」

 老人の声が暗さを帯びていく。

「それだけじゃない。里の者たちは、モモタロウ様のことまで疑い始めた。あの方もまた、鬼の血を引いているんじゃないか。実は鬼の子だったのではないかと」
「里を救ったのに?」

 思わず声が出た。老人は悲しそうに首を振る。

「人の心とはそういうものさ。恐れは憎しみに変わる。モモタロウ様への疑いは、里全体を覆い始めた。そうして里は閉ざされ、人の温かみを失っていった。そして今、温羅様の祟りが血吸川を赤く染めている」

 老人の言葉が途切れた。外を人影が通り過ぎる気配がする。
 私は再びヌラリヒョンさんを見上げた。表情が硬い。
 私も無意識に腰が浮いてきた。
 足音が茶屋の外に集まってきている。

「まずい……。すまないねぇ、あんたら」

 老人の顔から血の気が引いていく。
 外から声が聞こえ始めた。最初は二、三人の話し声。それが次第に大きくなっていく。

「あの者たちが、まだ居るのか」
「血吸川の異変も、あの者たちが来てから……」
「黙ってはおれんぞ」

 ゴツゴツという足音が、茶屋の周りを幾重にも取り囲んでいく。
 私はまず逃走ルートを探した。
 入口からはきっと出られない。裏戸も人の気配がある。
 ヌラリヒョンさんならともかく、私は彼らをかいくぐれるのか自信はない。
 いっそ襲ってくれれば、いつもの謎防御壁によって守ってもらえて、相手との間合いも出来る。
 ならば、私が盾になって進むのが最善だろうか。

「あの鬼たち、まだ居るのか」
「血吸川の異変も、あの者たちが来てから……」

 声が重なり合う。まるで獣の唸り声のような、人とも獣ともつかない声が。
 そして誰かが「追い出せ」と呟いた途端、まるで理性の糸が切れたように、怒号が溢れ出す。

「鬼どもを追い出せ!」

 入り口がガラガラと開いて、中へ押し入ってきた。
 見覚えのある顔がある。市場で会った店主、すれ違った村人たち。
 でも、表情が違う。赤く染まった目は、獲物を見つめ、唇は血に飢えたように引き攣っている。
 手には日頃使い慣れた農具を握っている。今は凶器として。

「待て! 皆の衆、正気を取り戻せ!」

 老人が私たちの前に立ちはだかる。

「人の心が蝕まれるほどに結界は弱まる。こんな事をすれば、本当に温羅様が復活してしまうぞ」
「どけ、爺さん。封印を守るには、異物を排除するしかない」

 老人を強引に押しやり、村人たちが私達に近づいてきた。

「火を!」

 誰かがそう叫び、次々と松明が灯される。
 炎に照らし出される村人たちの顔は、もはや人のものとは思えなかった。
 手にした農具が妖しく光っている。
 私はすっかり固まってしまった。

「こっちだ」

 ヌラリヒョンさんが私の手を引き、茶屋の裏口を蹴破って走り出した。
 色々考えたくせに、頭の中が真っ白だ。
 足が地面に着いているのかも分からない。
 ただヌラリヒョンさんの手の感触だけが、私をここに繋ぎ止めていた。
 大きくて、温かくて、何より確かな手。
 その手を必死に握り返しながら、怒号の中を走った。
 月明かりもない闇の中、背後では松明の光がゆらめいている。
 それは私の目には、血に染まった川面のように見えた。
 知らない土地で村人に追われているにも関わらず、どうしたことか道は開けていた。
 まるで誰かが案内しているかのように。
 ポケットのお守りが温かみを帯びる。モモチタンバさんの気配を感じた。
 その時、背後で何かが倒れる音。村人たちの怒号が途切れる。

「あれ、足跡が消えた!」
「まさか崖を!?」
「探せ! 温羅様の生贄にしてやる!」

 叫び声は近づいたり遠ざかったり。
 混乱している様子が伝わってくる。
 私たちは崖下の獣道を駆け抜けた。
 切り立った岩の間を縫うように進む。そしてヌラリヒョンさんが足を止めた。

「此処か」

 目を凝らすと、崖の窪みに朽ちかけた板材が斜めに並んでいるのが見えた。
 下の方が腐って開いている。這えば通れそうだ。

「潜れるか」
「え。あ、はい。私なら」

 ヌラリヒョンさんの声に従って、私は板の下をくぐり抜けた。
 冷たい土の匂いが鼻をつく。左右の壁は石でできている。
 じっとりとした空気。どこからか水が滴る音が響く。
 反響音から中が意外と広いことが判る。
 私の身長でも天井にぶつけることはないくらいの高さがある。

「くっ。……はは。儂には狭いな」

 苦笑しているヌラリヒョンさんの肩が見事につっかえていた。
 帽子が寂し気に土の上に転がっている。
 私は板をほんの少し壊したり、手を引いたりして、なんとかヌラリヒョンさんを中へ引き摺り込んだ。

「其方ではここは見えまい。儂の手に掴まっているのだぞ」

 大きな手が私の手を包み込む。がっちりした手にうっかり心が揺れてしまう。
 余計なことを考えないようにしながら、私は暗闇の中で導かれていった。
 誘導されていくうちに、どこからか風が吹いてきた。
 洞窟の壁に沿って進むにつれ、じっとりと湿った空気に混ざって、生暖かい風が頬を撫でる。
 水の滴る音が響き、風が通る音が微かに音楽のように聞こえる。

「此処なら良いだろう」

 ヌラリヒョンさんが立ち止まる。

「風があるということは、出口もあるはずだ。松明を作ってみるか」

 ヌラリヒョンさんが懐から火打ち石を取り出し、何かを探り始める。
 暫くして、パチリと音がして小さな火が灯った。
 その瞬間、私は息を呑んだ。
 壁が、赤かった。
 目を疑う。でも、それは紛れもない赤だった。
 塩田で見た赤よりも、もっと深くて昏い。まるで誰かの身体から流れ出した血のように。
 どこまでも赤い。奥へと続く壁も、天井も、足元の地面さえも。
 火が揺らめくたびに赤い壁が蠢いているように見える。
 まるでこの洞窟そのものが、生きた肉でできているみたいに。
 そして奥に行くほど、その色は濃くなっていた。
 あまりにも生々しい赤に、私は吐き気を覚えた。

「……どうやら、儂ら以外にも此処で夜を過ごす変わり者がいるようだぞ」

 ヌラリヒョンさんの言葉が、不気味な響きを持って洞窟に広がった。
 水滴の音が、まるで誰かの泣き声のように聞こえる。

あとがきコメント
 途中根付のことを書いている最中、「独神はいつ着替えたんだ?」とセルフツッコミをしてしまったので、前の話(十一話)に(そのうち)加筆します。OMG。

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