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「ウゼェ、アイツら皆殺しだな」
赤く染まった空が、血のように滴り落ちる。
炎は黒い渦を巻いて立ち昇り、その向こうで京の街並みが崩れていく。
瓦が砕け、柱が折れ、人々の悲鳴が風に乗って。
その喧騒を背に、彼が私を見下ろしていた。
業火のように赤く輝く瞳。
その瞳に映る私は、ただの獲物。
独神などではなく、ただの、弱い人間の姿。
一瞬の閃き。刃が月明かりを帯びて輝く。
身体が反応する前に、腹を貫く痛みが。
痛みと共に全てが暗闇へと沈んでいく。
町も、空も、瞳も、私の意識も。
どこまでも深く。深く。ふか、く。ふ、く。く。
──────沈。
──けれど。
けれども、どこか。どこかで
声が。
波間をすり抜けるように。
まるで水の中にいるみたいに、遠くぼんやりと響いてくる。
「一血卍傑。さ-て、とっととやっちまおうか」
聞き慣れない言葉が、水面を揺らすように耳に響く。
一血卍傑────。
一致団結の響きに似ているから類義語かもしれない。
そうだ。明日は国語の小テスト────いや、違う。
この記憶は何。いつのこと?
ぐるぐると思考が渦を巻いていく。
制服のボタンが机に落ちる音。
朝練で振る竹刀の風切り音。
夕暮れの教室に響くスマホの電子音。
そして────刃が空を切る音。血が滴る音。火が舞う音。京が崩れる音。
痛みの記憶が、全身を貫く。
記憶が波のように押し寄せて、溺れそうになる。
でも、不思議と苦しくない。
必死にもがいて、抗ってしまう。
その先に、私が望むなにかがあって。
誰かが、待っているような気がして。
「っ!!!」
起きあがろうとした瞬間、腹部を貫くような痛みが走る。
後頭部が枕に打ち付けられ、天井が大きく揺れた。
まだ水の中にいるみたいだ。視界がぼやけて、歪んで。
その揺らめく景色の中に、男が現れる。
ゆらゆらと近づく姿が、まるで海藻のよう。
整った顔立ち。紫の髪。額の角。
断片的な記憶が、少しずつ形を取り始める。
「おい。起きたのか!?」
声が、水面を突き抜けるように響く。
その声に導かれるように、記憶が輪郭を取り戻していく。この人は────
「……あなたは……シュテンドウジ、さん?」
「よしよし。覚えてんな。他の奴は? 黒いチビとか、爺とか」
問いかけと共に、新たな記憶が津波のように押し寄せる。
刀を持つ凛々しい姿。赤い目。黒い服。血。心配そうな顔。桃、モモ────
「モモタロウくん。……でもじじいって……?」
シュテンドウジさんは大笑いした。無遠慮な笑い声が靄がかかった意識を晴らしていく。
「アイツだけ覚えてねェのかよ! クハハッ! 馬鹿にしてやらねェと」
走って行ってしまった大きな背中を見送りながら、ようやく気づく。
爺とは、ヌラリヒョンさんのことだ。
いつも物静かで、でも確かな存在感を放つあのひと。
黒い制服に身を包んで外套を翻す姿が、今度は鮮明に蘇ってくる。
若くてかっこいいからぴんと来なかっただけなのに、これはきっと嫌な感じで告げ口されてしまうことだろう。
「主さん!? 大丈夫? 痛む?」
モモタロウくんが慌てた様子で部屋に駆け込んだ。
いつものすまし顔の影はなく、ただ純粋に心配そうにしている。
私は口角を軽く上げた。
「だいじょうぶだよ」
と、出てきたのは掠れ声で、モモタロウくんは更に顔を歪めた。
「嘘。適当に言ってるでしょ」
モモタロウくんは布団を剥ぎ、着物の合わせから傷を確認した。
腹部に濃い肌色の盛り上がった箇所がある。ここがノブナガの刃によって貫かれた場所なのだと、改めて認識する。
二人でまじまじと見つめていると、突然、自分の姿があまりにも無防備なことに気がついた。
モモタロウくんも同じことを思ったらしく、頬を赤らめながらすぐに蒲団をかけ、申し訳なさそうに「ごめん」と謝った。
首を振って、そんなことないよと伝えたかったのに、言葉が上手く出てこない。
静寂が部屋を包む。
と、新たな足音が近づいてくる。ととととと。
これはヌラリヒョンさんだ。普段の優雅な歩みとは違う、少し急いだ足運び。
申し訳なさと照れくささで胸が締め付けられ、私は俯いた。
ヌラリヒョンさんの足が部屋に一歩踏み入れたその瞬間、私は謝罪の言葉を紡いだ。
「ヌラリヒョンさん、例の如くご心配をおかけしています。すみません」
私の言葉に、ヌラリヒョンさんは脱力したように座り込んだ。
「……全く、質の悪い冗談を。しっかり儂を認識しているではないか」
あとから来たシュテンドウジさんは、そんなヌラリヒョンさんを指差して大笑いした。
私に同意を求めるように目を向けながら言う。
「おれが聞いた時は忘れてたけどな。な?」
「だって爺なんて言われたって、ピンときませんよ。こんなに若いのに」
「こんな捻じ曲がった妖気が若いわけあるかよ。この性格の悪さは百年じゃ身につかねェぞぉ」
からかわれるがままのヌラリヒョンさん。
やけに明るいシュテンドウジさん。
目を伏せたまま表情を動かさないモモタロウくん。
みんな、どこか普通ではなかった。
無理に作られた空気が、逆に何かを際立たせているような気がした。
意識の端に追いやっていた記憶が、静かに揺れ始める。
「あの。京は…………?」
誰も答えない。沈黙が、全てを物語っている。
重苦しい空気の中で、ヌラリヒョンさんがゆっくりと口を開く。
「大将であるオダノブナガが現れて、あとはあれよあれよという間に京を占拠した」
聞かなくても判っていた。けれど、他人から聞かされないと現実だと認めたくなかった。
「大江山の方々は?」
「心配すんな。全員生きてる」
シュテンドウジさんが即答し、私は安堵した。
でも、新たな不安が沸き上がる。
京に近い大江山に、シュテンドウジさんがいなくて大丈夫なのだろうか。
心の中で膨らみ始めた不安を見透かしたように、ヌラリヒョンさんが静かに手を差し伸べ、私の手を包み込んだ。
大きくて温かな手のぬくもりが、少しずつ不安を溶かしていく。
「少し、外に出てみぬか? きっと驚くぞ」
私は迷ったが、頷いた。
今は言うことを聞くのが最善だと思った。
様々な心配が込み上げてきたが、ヌラリヒョンさんは二人に構わず私の手を引いていく。
縁側を出ると、潮の香りを含んだ風が頬を撫でた。
柔らかな草の上を歩いていく。一歩踏み出すごとに、島が息づくような振動が足裏に伝わってくる。
やがて建物全体が見渡せる場所まで来て振り返ると、息を呑む光景が広がっていた。
朱を基調とした本殿が、深い静寂を湛えて聳え立っている。
その両脇には廊下で繋がれた建物が左右対称に並び、緑青色の屋根が空に映える。
柱と柱の間からは、かすかに金色の粒子が漂うように見える。
それは陽の光なのか、それとも神域の力なのか。
背後には豊かな木々が生い茂り、枝葉が囁くように揺れている。
建物の前には一筋の石畳が続く。
その先には海に佇む鳥居が、結界の番人のように凛として立っていた。
鳥居の向こうでは、穏やかな波が寄せては引いている。
想像以上の広さと荘厳さに、改めて驚きを覚えた。
「ここ、知ってるかも」
「ほう。それは其方の世界でのことかな」
神社仏閣には違いないが、日本で見たことのない雰囲気が漂っていた。
本殿に沿って歩き始めると、廊下の木板が懐かしげな音を立てた。
柱と柱の間から覗く中庭。障子の並び。
黙って歩いていると、ヌラリヒョンさんがついてきてくれた。
そしてある場所で、私の足が止まった。
中庭に面した一角。ここだけが、鮮明な記憶として蘇ってくる。
揺れる簾。漂う香炉の煙。
誰かの笑い声。別れを告げる声。
そして、金の尾を持つ美しい女性の後ろ姿。
「ここ、タマモゴゼンさんの映像で見た……。そうです! タマモゴゼンさんがいた場所です!!」
靴を脱いで縁側をよじ登り、タマモゴゼンさんの自室の襖を勢いよく開けた。
だが、そこに物はなかった。板敷の床と薄く降り積もった埃だけ。
「ここに昔、タマモゴゼンさんの主さんがいた……。他にもいっぱい人がいました!」
ヌラリヒョンさんは穏やかに言葉を重ねた。
「封印された島。八百万界始まりの地。それがここオノゴロ島だ」
以前、ヌラリヒョンさんが教えてくれた島だ。
「この島は激しい渦潮と嵐に守られ、漁師たちも近寄れなかった。だが其方が来ると嵐は晴れ、静かな海に陽が差した。やはり、其方は独神……なのだな」
私は、どうしていいか判らなかった。
私は私だ。
独神と知ったのは八百万界に来てからであって、突然拝命させられた役職でしかない。
この世界で、独神がいかに凄い人であろうと、私にその重みは判らない。
私の戸惑いを見て取ったのか、ヌラリヒョンさんは深いため息をついた。
「すまぬな。……其方に話さねばならぬことがある。重い話かもしれぬが、聞いておいてくれ」
縁側に座って、ヌラリヒョンさんは今までのことを説明してくれた。
私は死んだ。…………らしい。
オダノブナガに刺された後、モモタロウくんが駆け寄った時には、私の心臓は完全に停止していた。呼吸も、体温も、生命の兆しは一切なかったという。
それを蘇らせたのが、この封印された島であるオノゴロ島の力だった。
独神である私だけでなく、ヌラリヒョンさんたちも島に足を踏み入れただけで目に見えて傷の治癒が早まったという。
「……じ、実感ないですねえ」
腹の傷を撫でた。少し肌の突っ張り感はあるが痛みはない。
「けど事実だぜ」
「うわっ。サイゾウさん!」
気配を感じる間もなく、忍の男が私の横に現れていた。
「しっかし、もう歩けるのかよ。すげぇな独神って奴は。それともこの島か」
ジロジロと見られるが嫌な感じはない。どこか見覚えのある仕草だ。
本物のサイゾウさんに会ったのは随分前のことなので根拠はないが、纏う雰囲気がモモチタンバさんではなくサイゾウさんのような気がする。
これで違ったら火を吹くほど恥ずかしい。
「んー? ああ、京じゃ戦いの最中だったし、落ち着いて話すのは今が初めてで戸惑っちまうよな。ゆっくり慣れてくれて良いぜ」
私の混乱を見抜いたが故の発言だろう。
ありがたい。助かった。多少のミスも激しい戦いで記憶が曖昧だと通せる。
「今来たのはお頭への報告だ。この島を見回った結果、異常は特に見当たらなかった。今後も警備を続けるつもりだけどよ、流石に一人じゃ完璧にとはいかねぇ。お頭が許してくれるなら、伊賀の忍を配置させてくれ。それができりゃ全域を監視出来る」
思わずヌラリヒョンさんを見上げた。
すると、先手を打つようにサイゾウさんが言った。
「お頭はまず、忍ってヤツを使い慣れた方が良いぜ。とりあえず俺にざっくり命令してくれりゃ、後は俺が良いように指揮するからさ」
「それじゃあ、その。お願いしていいですか。この島と独神のこともっと知りたいんです」
「任せな。一旦俺はお頭から離れちまうけど、狼煙でも声でも、呼ばれたらすぐに飛んでくるぜ」
軽く手をあげると、サイゾウさんは獣のような素早い動きで立ち去った。
こんなあやふやなお願いで、知らない大人を動かすなんて血の気が引く。
不安を振り払い、私はヌラリヒョンさんに向き直って言った。
「忍のこと。私は必要だと思いました。侵入者がいたとしても、早く知った方が対策も出来ると思って……」
ヌラリヒョンさんは静かに頷いた。
意外だった。伊賀の人たちのことも知らないのに、島に受け入れようとする私の判断を、まさか認めてもらえるとは。本当なら反対されても仕方がないはずなのに。
散歩を終え、さっき寝ていた部屋に戻る途中、ヌラリヒョンさんが足を止めた。
「シュテンドウジが待っておる」
そう告げると、ヌラリヒョンさんは廊下の陰へと消えていった。
部屋にはシュテンドウジさんが、珍しく真剣な表情をして佇んでいた。
「一度死んだとは思えねェくらい元気そうで安心したぜ」
照れ臭そうに言って、それから少し間を置いた。
「大江山の奴らのことだけどよ」
私の顔を真っ直ぐに見つめる。ここまで真剣な表情は初めて見た。
「この先どうなるか判んねェ。だから、頼みがある」
何度も言い淀んで、それでも決意したように続けた。
「なにかあった時、鬼たちをここに受け入れてやってくれねえか?」
息を呑む。
大江山の頭領としての願い。
シュテンドウジさんに万一のことがあれば、カネドウジさんや、イバラキドウジさんたちを受け入れる。大江山にいた鬼を全員。
今まで私は、鬼たちの拠点を訪れる客人でしかなかった。でも今度は違う。この島で、彼らの命を守らなければならない。
一筋縄ではいかないだろう。私の知る限り、彼らの生態は私とは全く合わない。酒を飲んで、喧嘩をして、身内以外がどうなっても構わない。
何かあった時に彼らを抑えられるのか。
オダノブナガの脅威から逃れても、内側から崩壊することだってある。
それでも。
シュテンドウジさんの真剣な眼差しの奥に、必死な想いを見た気がした。仲間を守るため、ここまで自分の誇りを折って頭を下げているのだと。
その重みが、私の心に沁みた。
「大丈夫。いつでも来て下さい」
はっきりと答えると、シュテンドウジさんは安堵したように笑った。
ガッと私の首に腕を回し、もう片方の手でがしがしと私の頭を撫でてくる。頭領らしからぬ仕草が、逆に彼の気持ちを物語っているようだった。
「おまえならそう言うと思ってたぜ。頼んだぞナナシ」
撫で終わったシュテンドウジさんは満足そうにしていた。
「つーわけで、おれは山に帰る。あいつらも待ってるだろうからな」
「でもここ、島でしたよね? どうやって大江山へ?」
「舟がありゃすぐだ。最悪泳げばなんとかなるだろ。……と、そうするとおまえらが出られねェのか」
「あ、いえ、その心配はいりません。他の手段がありますから」
まだ手段なんて見つけていないし、知りもしないが、嘘は簡単に出た。
「悪ぃな。借りは後で返す」
そう言うとシュテンドウジさんはさっさと行ってしまった。
仲間のことが心配でいてもたってもいられなかっただろうに、私が目覚めて落ち着くまで待ってくれていた。
仲間の命を守るため、この約束が絶対に必要だったんだ。
私は縁側に腰を下ろした。心の中で、シュテンドウジさんとの約束を反芻する。
何かあれば大江山の鬼たちを守る。
頼まれたんだ。絶対に、この信頼を裏切るわけにはいかない。
しかし、本当にそれだけで良いのだろうか。
京は陥落し、オダノブナガさんの支配下に置かれている。
このまま各地に影響力を広げていけば、いずれこの島も狙われる。
私に傷をつけたオダノブナガさんのことだ。必ず島の結界を突破する方法を見つけるはず。
鬼たちを守るといっても、島の力だけを頼っていては、いずれ全員が犠牲になってしまう。
私はまだ弱い。それは身に染みている。
だからこそ、私自身が強くならなければ。
今度こそ、オダノブナガさんの野望を阻止できるように。
部屋の奥で微かに床板が軋んだ。
振り返ると、モモタロウくんが佇んでいた。
どこか落ち着かない様子で、私の方をじっと見つめている。
「主さん、ちょっと良い?」
物静かな声音に、何か重いものを感じる。
私は少し構えながらもなんでもないように振る舞った。
「うん。どうしたの」
モモタロウくんは、珍しく私の目を見ようとしない。
普段なら怪我をした私に小言を言って、私の無鉄砲さに呆れているところだ。
でも今は、重い沈黙に満たされている。
「しばらく、君から離れていい?」
その言葉が、まるで鈍い刃物のように胸を抉った。
私の命を奪ったオダノブナガの刃よりも鋭く、冷たく、痛かった。
「いつ戻るかは判らない」
耳の中で血が鳴り始める。
心臓が、不規則に痛むような鼓動を刻んでいく。息ができない。
シュテンドウジさんとの約束の重みを受け止めたばかりなのに、今度は。
目の前が暗くなりそうになるのを、必死で踏みとどまる。
「どうしたの急に」
シュテンドウジさんは判るけど、どうしてモモタロウくんまでいなくなるの。
私は金切り声で喚いてやりたかった。
そうしなかったのは、主という立場のお陰だ。
「里帰りしようと思って」
「里っていうと……」
「吉備。秋津島に戻って北西の方角にある」
桃太郎といえば岡山県だ。多分あのあたりを指している。
「ここへ来て夢を見たんだ。赤い川を桃が流れていく夢。その桃は流れていくうちに赤く染まって……腐っていく」
少なくともいい夢ではない。
赤い川。それは血なのか。桃が腐るということは、モモタロウくんが───。
たかが夢だと一蹴することもできるが、不吉な予感が消えない。
京が陥落した今、オダノブナガの手は確実に各地に伸びている。
吉備も既に支配下にある可能性がある以上、この島を一人で離れることが得策ではない。
「そこからどう里帰りに繋がるの?」
「夢はただのきっかけ。そのうちは顔出さないとって思ってたのに、結局一度も帰ってないから」
それなりに長く一緒にいるが、故郷の事は全然知らない。モモタロウくんは過去をあまり話さないし、特に故郷についてはひとつも言わなかった。だからこそ、今の言葉には特別な意味があるように思えた。
「判った。行っておいでよ」
私の答えに少し驚いているようだった。きっと引き止められると思っていたのだろう。
そう、普通なら引き留めただろう。でも今の私にはできない。
シュテンドウジさんが大江山の仲間たちの命を預けてくれた。その重みを感じたばかりなのだ。
独神として、私が出来ること、すべきことを考えていかなければならない。
「島を出るなら、舟はさっきシュテンドウジさんが使っちゃったから別の方法がいるよ」
「うわ。鬼ってやっぱり最悪。……漁師を捕まえるしかないか」
本当に行っちゃうのだろうか。
嫌味たっぷりで、つんけんしてて、でも私のことを一番心配してくれる。
下心のない純粋な気遣いに、私は救われてた。
いつ帰るのだろう。
まさか、そのまま吉備に戻るなんてこと、ないよね。
気づいた時にはモモタロウくんの袖を掴んでいた。自分でも引くくらい、必死な動きだった。
「せめて見送り。島を渡る方法を見つけるまで一緒にいるよ」
モモタロウくんは一瞬躊躇ったように見えた。でも、小さく頷いてくれた。
二人で海辺へと向かう。
目に付いた大きな鳥居を目指して歩いて行った。
波の音が近づくにつれ、胸が締め付けられる。
これが最後の時間になるかもしれないと思うと、一歩一歩が重かった。
「ここからじゃ本州が見えないね」
「島の周りは異常気象に守られてるって話。だからホンシュウ?が見えないんじゃない?」
異常気象が猛威を振るったままならモモタロウくんを閉じ込められるだろう。
でも、そういうわけにはいかない。
あのモモタロウくんが、今日はずっと大人しい。
シュテンドウジさんに絡むこともなければ、ヌラリヒョンさんに甘えすぎだと文句も言わない。
吉備への里帰りはそれだけ重要なことなのだ。
だったら私は、無事に秋津島まで行くことを願わなければならない。
主とは、独神とは、そういうものなはず。
そう折り合いをつけた時だ。
私は信じられないものを目にした。
モモタロウくんの足元から、光が広がっていく。
まるで月光を編んだような、かすかに透ける白い橋が、波間から立ち上がってきた。
橋は空へと伸び、そして緩やかに曲がりながら、遥か彼方────秋津島へと続く。
「こ、これなに? 橋? 光る橋? 八百万界ってそんなものまであるの!?」
「知るわけないでしょ! ほんと主さんって……」
呆れながらも鼻で笑ったモモタロウくんは、少し元気そうに見えた。
そして、一歩、橋に足を載せる。
ふわりと、白い光が彼の足元で波打って、そして確かな足場となる。
驚いていると、モモタロウくんが「変な顔」と言って笑った。
「どうせ君の変な力の仕業でしょ。心配いらないんじゃない? 独神様」
宙に浮いた光る橋を疑いもせず、まっすぐに歩いていく背中が、もやに溶けていくように消えていった。
瀬戸内海を徒歩で横断するのではなく、途中からはワープさせてくれるのだろう。便利な仕様に感心する。
「其方も大きくなったのだな」
ヌラリヒョンさんはゆっくりと私の横に来た。
いつから見ていたのだろう。
「儂らはな、其方が嫌がると思っていた。寂しがり屋だからな。きっと重なる別離には耐えられないのではないかと考えていたが、いやはや、其方の方が上手であったな」
私も途中までは嫌でしょうがなかった。
でもシュテンドウジさんやモモタロウくんの気持ちを考えると、私の感情は子供のそれと同じで、人の上に立つ者としての態度ではないとすぐに気付いた。
それに……。
「……うん? どうした?」
「じゃあ早速行きましょう。地名まで判っているんです。なんとかなります」
ヌラリヒョンさんは呆気にとられたあと、大きな口で大笑いをした。
私の至った考えとは、大人しく留守番をするのではなく、勝手に着いて行くということだ。
姿さえ現さなければ良いだろう。ついてくるなと言われていないのだから。
「なるほどな。いや、構わないさ。儂は其方に着いて行くと決めておるからな」
「じゃあ、尾行を始めましょう!」
「まあ待て待て。前のめりになっているところ悪いが、今ついていっても気付かれて撒かれるだけだ。せっかく封印されしオノゴロ島に来たのだ。其方を主とするこの島をもう少し見てからでも良いのではないか」
追いかけたい気持ちと戦いながら、私は考える。
だが確かにヌラリヒョンさんの言葉には一理ある。
今後この場所を拠点にするのであれば、私自身がこの島のことを知っておく方が良いだろう。
モモタロウくんのことは、吉備で尋ね歩けば最終的には見つけられるはずだ。
そう言い聞かせた私は小さく頷き、今の建物から調査を始めることにした。
「ここが本殿……で良いんですよね?」
「造りはそうだな。ここに主となる祭神を祀る」
「でも今は留守みたいですね。私たち以外いないみたいですし」
ヌラリヒョンさんが私をじっと見る。
「……え? 私?」
「多分な」
全くもってぴんと来ない。
生きている人間を祀るなんてあり得ない。と言いたいが、カグツチさんやヤマトタケルさん、イザナミさんを思い出す。
祀られ崇められている彼らは、好き勝手に外を歩き回っていた。
「こっちが拝殿ですか。普通ですね。取り立てて大きくもなければ小さくもない」
タマモゴゼンさんの記憶から考えるに、ここで多くの英傑たちが主と呼ばれた者と共に過ごしたはずだ。
オノゴロ島の主、つまりは独神である。だとすると、一つ疑問が浮かぶがそれは一旦置いておき建物内の探索を続ける。
廊下を歩くと先程も行ったタマモゴゼンさんの部屋に着く。
もう一度中に入って、ゆっくり部屋の空気を感じる。
この部屋で何があったのか、私にも判らない。
でも確かに、ここで彼女は誰かと笑っていた。
その光景が、私の中に残っている。
部屋を後にして、さらに奥へと歩を進める。
そこで気がついた。本殿の奥へ進むほど、不思議な感覚が強くなっていく。
見覚えのない廊下なのに、どの角を曲がればいいか身体が覚えている。
違和感もある。まるで、誰かが見ていた風景を、私も知っているみたいだ。
廊下は思っていたより広く、天井も高い。
畳の感触や、廊下を歩く足音が、妙に生々しい。
それぞれの音が、この場所に眠る無数の記憶を呼び覚ますかのようだ。
「其方、大丈夫か?」
ヌラリヒョンさんの声で我に返る。
いつもの落ち着いた声音だけれど、なんだか様子が違う。
私のことを心配してくれているのだろう。この人はいつも、そんな風に気にかけてくれる。
「不思議な感じがして」
「どのような?」
「まるで、ここに来たことがあるような。でも、全然違うような……」
自分でも上手く説明できない感覚だ。
それは記憶というには曖昧すぎて、でも単なる想像というには鮮明すぎる何か。
ヌラリヒョンさんは何も言わない。
ただ、静かに私の傍らを歩き続ける。
その佇まいにも、どこか懐かしさを感じる。
いつも私の傍にいた人のように。
でも、それは違う。初めてヌラリヒョンさんに会ったのは、八百万界に来てからだ。
日本で似たようなひとなど見た覚えがない。
「ここって、沢山の人が暮らしていた……んですよね」
「前に其方がそう教えてくれたな」
部屋から見える広い庭では多くの人がいた。
誰かが稽古をしていて、誰かが見守っていて。
誰かが笑って、誰かが怒って。
幻のような光景が、頭の中でちらつく。
でも、それは私の記憶じゃない。他人の記憶の残り香みたいなもの。
そう思うことにする。
そう思わなければ、私は私でなくなってしまいそうで怖い。
この場所を愛した誰かの、この場所で過ごした人々の、かけがえのない記憶。
それを勝手に私のものにするわけにはいかない。
「このくらいで良いですか? この先も空き部屋が続くだけでしょうから」
「ここには本殿以外にも建物がある。儂らでは入れなかったから其方に見てもらいたい」
「じゃあ、そっちに行きましょうか」
本殿を出ると、いくつか建物が点在している。
その全てに鍵がなく、引き戸を開けば難なく開いたが、ヌラリヒョンさんたちが触れた時にはぴくりともしなかったらしい。
一度入った建物には、ヌラリヒョンさん一人でも入ることが出来た。
ヌラリヒョンさん曰く、主である独神が触れたことで開錠されたのだろうと。
全ての施設を覗いてみると、そこは科学の実験室だったり、畑があったり、図書館だったり、宿泊施設だったり。
用途が判るような判らないような設備が各々備え付けられていた。
そのどれもにひとの気配を感じた。
金属製の球体に赤や青の管がついていたものからは、不穏な空気が漂っていた。
多くの書物からは手垢を感じた。
畑は温かく、今にも芽吹きそうだった。
施設の使い方は図書館の中にある書物に書かれていそうだったが、生憎今は探し出す時間がない。
「めぼしい場所には入ってみました。こんなもんで良いですか?」
「病み上がりにすまなかった。だがこれで儂も少し疑問が解消した」
ヌラリヒョンさんはそう言って軽く微笑んだ。すぐに目線を私から遠ざける。
考えごとはまだ終わっていないようだが、私は待てない。
「じゃあ、今度こそモモタロウくんを追いかけに行っていいですよね!」
「ああ。構わぬ。だが留守なら先の忍に一言伝えておくと良い」
確かにそうだ。ヌラリヒョンさんに言われなかったら、島に放置してしまうところだった。
忍を従えるとは、今までのように気分で行動をすべきではない。
狼煙を上げろと言われていた気がするので、その辺の木々を集めて火をつけた。
ヌラリヒョンさんは動き回る私を、ぼうっと眺めるだけで手伝いはしなかった。
わざとかもしれない。
すぐにモモタロウくんを追いかけさせないように。
何の不都合なのかは知らないけれど。
煙をあげると、すぐにサイゾウさんが来た。
「もう新しい命令か? 早過ぎねぇ?」
振り回して申し訳なくなってくる。
「はい。その、ごめんなさい。お願いしたばかりなのに。ちょっと島の外へ行きたくて」
「モモタロウか?」
私の驚いた顔を見て、サイゾウさんが笑う。
「アイツが出てくとこ、ちゃんと見てたぜ。昔話の通り天の浮橋が出るのな」
「あの光の橋はそういう名前なんですね」
天の浮橋。かっこいい名前。神話っぽい。
「モモタロウくんを追って吉備へ行きます。その間、島のことはお願いできますか?」
「任せときな。ここは結界の内側で外からは見えねぇ。完璧な隠れ家よ。大江山の連中が来たら入れといてやるよ。なあに、忍は護衛も仕事の内だ。しっかり守ってやる」
心強い言葉に、少し安心する。
話した覚えのないことまで知られているのは若干怖いが、話が早くて良しと考えよう。
これで留守中であってもシュテンドウジさんとの約束は果たせる。
けれど、サイゾウさんの表情が僅かに曇った。何か言いづらそうな様子だ。
「俺はまだ、お頭のことを知らねぇけどよ。すぐに動いて良いものなのか? あんま鍛えてねぇのに。この先戦いがあってやっていけるのか? 動ける英傑って今はヌラリヒョンだけなんだろ?」
大丈夫と言いそうになったが、一回黙った。
サイゾウさんの指摘は正しい。私は英傑のみんなほど強くはないし、オダノブナガさんに狙われたら太刀打ちできるはずもない。本当なら、もっと慎重に考えるべきなのかもしれない。
でも今は、モモタロウくんを追いかけることの方が大事だと、そう思えてならない。
しばらく考えて言った。
「ヌラリヒョンさんがいてくれるから大丈夫です」
「それにしちゃ、間があったけどな」
ヌラリヒョンさんがしゅんとした顔をする。わざとらしい。可愛い。
「ヌラリヒョンさん! もう! 私にどうして欲しいんですか! 察するのも限界ですよ!」
「儂は其方に従うと言っているではないか。儂が惑わせているのではない。それは其方の迷いに他ならぬ」
ヌラリヒョンさんは静かに私を見つめている。その眼差しに、自分の未熟さを痛感する。
毎度毎度痛いところを突かれてしまう。
そうなのだ。私は自分で判断できるほどの知識と経験がない。
決断力なんて、ない。シュテンドウジさんやヌラリヒョンさんみたいには出来ない。
思わず目を逸らしながら、サイゾウさんに助けを求めるように尋ねた。
「サイゾウさん。忍のサイゾウさんから見て、今の私って無謀ですか?」
「特別お頭が強いわけじゃねぇなら無謀だろ。秋津島に着いた瞬間にオダノブナガの手先に叩かれたらどうすんだ?」
サイゾウさんの言葉が、現実を突きつける。
私がそんな戦いに勝てるはずもない。だけど。
「でも私には、ヌラリヒョンさんがいます。それに、この力も」
私はぐっと拳を握った。
自分とヌラリヒョンさんの二人だけなら守っていける。
……それに、私にはもう一人英傑がついている。サイゾウさんもよく知るあのひとだ。
今日はまだ見ていないけれど、本当に私に協力してくれるというのであれば、秋津島に行く私に協力してくれるはず。
「サイゾウさん。お手隙の忍を"三"人私につかせて下さい。……いや、一人でいいや。とにかく伝えて下さい。お願いします」
意図が伝わるよう、真っ直ぐにサイゾウさんを見つめる。
サイゾウさんはさりげなく目を細めた。
「了解。お頭の邪魔にならねぇように頼んどく」
「お願いしますね」
三太夫の"三"をわざわざ会話に盛り込んだのだが、こちらの意図は伝わった気がする。
でなければ「頼んでおく」という言い回しはないはずだ。頼むという言葉はサイゾウさんより上の立場の人になるのだから。きっと、モモチタンバさんがついてきてくれる。これなら少し安心出来るだろう。
「じゃあ私たちは出発しますね」
「気を付けろよ。吉備はまだオダノブナガの手が伸びてねぇとは言え時間の問題だからな」
島の守りと、モモチタンバさんへの伝言。これで全ての手配は終わった。
私たちは海へ向かった。モモタロウくんと一緒に来た、鳥居のところまで。
私は深く息を吸って、一歩前に出た。
願いを込めて、手を前に差し出す。
すると、光が瞬いた。
目の前の空間が、ゆっくりと波打つように歪んでいく。
そこから、真っ白な橋が浮かび上がった。
ほんの少し透けて見える光の帯。先ほどと同じ光景なのに、今度は自分の中から何かが呼応するのを感じる。
「行けそうか?」
ヌラリヒョンさんが静かに問う。
「はい。きっと大丈夫」
一歩、橋に足を載せる。
ふわりと、少し沈んで、でもしっかりと足場を作ってくれる。
柔らかく、そして確かな感触。まるで空気の上を歩いているような不思議さだ。
振り返ると、ヌラリヒョンさんが既に私の後ろに立っていた。
この人はいつも、こうして自然に私のそばにいてくれる。
「秋津島へ」
そう呟きながら、私は歩き始めた。
青い海の上を、白い橋が光の帯のように伸びている。
最後に一度だけ振り返る。オノゴロ島は既に小さく見えていた。
その前方には、不吉な予感が待っている。
赤く染まっていく桃。
腐っていく夢。
その夢を、決して現実にはさせない。
新しいバージョンの「オノゴロジマ」です。
前のも見たかったらこちら。
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