ヨルムンガンドとの出会い

「……なんだよ。おまえがいると空気まで腐るんだけど」
「面白いね。私も貴方を見る度に創造の失敗を目の当たりにしてる気分だよ」

 薄く笑みを浮かべるヘイムダルに、ロキは舌を打った。
 九界を監視する空色の瞳は、ロキの内心を無遠慮に覗き見ているようで、それがロキには何よりも癪に障った。

「はっ、わざわざここまでごくろーさん。ゴシュジンのことか?」
「まあね。独神様の願いでなければ今すぐにでも燃やしてしまいたいくらいだ。君の手に渡ると大抵のものが災いになるからね」

 取り出したのは細い紙だった。蛇腹に折って一つの結び目を作っている。
 ロキはそれを奪い取った。和紙のざらざらとした感触が指先に伝わる。結び目を解いて中を見ると、独神の筆跡でさらさらと綴られていた。

――――悪神ロキとは言ったものね。まさかアスガルズ界から来る人来る人、あなたに悪感情を抱いているなんて。そもそも向こうがそういう人選をしてるだけだとあなたは言うかもしれませんね。けれど流石に多くないでしょうか。溜息が止まりません。

「……なんで、説教受けなきゃなんねえんだよ」

 ロキは眉を寄せる。優しい語り口の中に隠された叱責に反論できず、しぶしぶ読み進めていく。

――――前置きはこれくらいにして。先程ヨルムンガンドという方がいらっしゃいました。あなたに会いたいそうです。あなたは会いたくないのかもしれないけれど、一度本殿に帰ってきてお話しして頂けると嬉しいです。

「やなこった」

――――とはいえ、彼はどうやらお強いようですし、あなたも色々と準備が必要でしょう。ですから、私が時間を稼ぎます。彼にはあなたが一週間経つまでには帰ってくると伝えました。その間、彼を本殿敷地内に留めておきます。それと、あなたと少しでも冷静に言葉を交わせるように、彼を説得しておきます。だからこれを読んで、気が向いたのなら帰ってきて下さい。

 そこで独神の言葉は終わっていた。ロキは嘲笑うように鼻を鳴らした。

「筆跡も文の折り方の癖も確かにゴシュジンだ。けど、おまえが手を加えてないとは言えねえな」

 手の中の手紙が一瞬で塵と化した。儚い紙片が風に舞って消えていく。
 ヘイムダルはため息をつく。

「そう言うだろうと、独神さんは予想していてね」

 今度は簡素に二つ折りにした紙をロキへ差し出した。訝しげながらも中身を確認する。

――――あなたのことだからヘイムダル経由では一切信じないかもしれませんね。だからこの写真を同封します。ご確認下さい。

 写真の中で、愛用の机に向かった独神が満面の笑みで手を振っている。その横にはミズチがいて、反対側では蛇皮の袖口と赤毛が見切れていた。

「そうそう、ヨルムンガンドはオーディンから地上での器として、ひとの身体を手に入れたそうだよ」
「……この赤毛があの蛇だっていうのかよ」
「まあね。信じるか信じないかはロキ次第だよ」
「信じねえよ。当然だろ」

 吐き捨てながらも、徐に写真を上着の内側の物入れに差し込む。

「あ、写真は返してくれるかい」
「おれに渡したんだから、どうしようとおれの勝手だろ」

 ヘイムダルは肩をすくめる。

「それでもいいけれど。もう一度見た方が良い。独神様をね」
「うるせえな」

 はっきりと言わないヘイムダルに苛立ちながらも、もう一度写真を取り出した。
 ロキの目は自然と独神に引き寄せられる。
 写真の中の独神は、敵であるはずのヨルムンガンドの傍で楽しそうにしていた。しかしよく見ると首の部分。着物に隠れているが包帯が巻かれている。

「またあいつ馬鹿やったのかよ。大将のくせに怪我しすぎ」
「さて、どんな"馬鹿"だと思う?」
「……あ? いちいち煽ってくるじゃねえの」

 独神の横で、お伽番と思われるミズチから毒霧が漏れている。確か苛立ったり、精神的な抑圧で漏れるだったか。
 ぽっとでのヨルムンガンドが独神と仲良くしているのが気に入らないのかもしれない。
 もしも、それ以外だとしたら。

「…………いや、まさかとは思うが。いや、いくらゴシュジンが馬鹿でも……いや、あいつマジで馬鹿だからな……」
「ふふ。一般的に見れば独神様の行動はひどく愚かだ。周囲の英傑たちも随分振り回される」

 ロキの頭に浮かんだ一つの想像に総毛立つ。背筋を走る冷たい感覚に思わず震えた。

「ヨルムンガンドに噛まれやがったな」
「ふふ、ご名答」

 ロキはヘイムダルの胸ぐらを掴んだ。

「こんなもんが撮れるってことは遅効性だな。期限は」
「七日後、太陽が一番高く上がる時に。ロキが期限内にくれば解毒するって」
「ゴシュジンめ。おれを逃がさねぇつもりだな。策士め」

 ロキは舌を打った。独神の狙いは見えすいているが、なりふり構わないその強引さには思わず感心してしまう。

「逃げてもいいんだよ。ヨルムンガンドも八百万界のことも関係ないだろう。独神様が死んだってアスガルズの私たちには関係ない」

 おかしそうに笑うヘイムダルには何も答えず、ロキはその場を離れた。



◇◇◇



「ヨルムンガンド……。そろそろ話しかけてもいい?」

 執務室で独神は忙しなく筆を滑らせている。

「駄目に決まってんだろ」

 冷たく突き放した巨大な赤毛の男は部屋の隅でじっと座っていた。人の形をしているが、その姿勢は妙に硬く、まるで人の身体の使い方を学んでいる最中のようだ。独神はその異様さに気づきながらも何も口にしなかった。

「そこ寒くないの?」
「いちいちうるせえな」
「ごめんなさいね。蛇に関係する英傑達が今の寒い時期を嫌がるから。……あ、ゲンブは元気なんだけれどね。ほら、蛇と亀っぽい静かな感じのひと」
「知るかよ。……確かに、蛇の気配がする奴はいた気がするが」
「じゃあ多分それよ」

 手を一つ打つ独神であるが、ヨルムンガンドはつまらなさそうに眉間に皺を寄せた。

「むむむ……」

 子供が口を尖らせるような可愛らしい声だったが、次の瞬間、部屋中に死の香りを纏った緑色の霧が広がる。
 竜と蛇の性質を併せ持つ英傑ミズチの毒気だ。独神は慌てる様子もなく扇子を開き、霧を払いながら子供をあやすように優しく声をかけた。

「威嚇は止めなさいな」
「だって、ヨルムンガンドは主さまに冷たすぎるんだよ」
「あ? 壊してねえだけマシだろ。それともロキの前にオマエから壊してやろうか?」
「むむむ! そういう事はひとに言っちゃ駄目なんだよ」

 より濃い色の霧が吹きだし、独神は素早く後ずさった。その霧は刺すような臭いを放っている。

「み、ミズチ。落ち着いて落ち着いて。見回りに行ってきてくれる? 町の人もミズチが来てくれるのを待っているはずよ!」
「うん! そうだね! すぐ行ってくるから、お土産待ってておくれよ!」

 毒霧はぴたりと止み、ミズチは笑顔で駆けていった。独神は全ての戸を開き、一生懸命毒霧を外へ追い出していく。

「……ふん、つまんねえな」

 ヨルムンガンドは壁に頭を置いた。壁からはどかどかどかどかと本殿中の振動が響いていて、心底うんざりする。ここは昼夜問わず煩い。

「あなたって甘い物平気? ミズチのお土産一緒に食べましょうね」

 定期的に話しかけてくる独神もまた鬱陶しい。

「いらねぇ」
「まあまあ。良いじゃない」

 呑気なことを言う独神に、ヨルムンガンドは内に溜め込んでいたものを破裂させた。

「オレ様はオマエに噛み付いたんだぞ! 今はなんともねえだろうが、明日までには全身が痺れだす。その後は五感すらなくなる。ここのヤツらにとってオマエはなくてはならねえもんなんだろ? 何故オレ様を壊さない? いくらオレ様が最強だろうが、数で攻めれば万に一つくらいは可能性があるかもしれねえ。オマエの命令だからと言って、ヤツらは何故従う? 何故オマエは動揺しない?」

 一気に怒鳴り散らしたヨルムンガンドを見て、独神はふふと笑った。

「今日一番話してくれたわね」
「ああ?」

 見当違いの返答に、ヨルムンガンドは今にも噛み付かんばかりに牙を剥いた。

「まあ、私が求めた一週間の期日の代償は大きいわ。神経毒なんて仕事にならないもの。後でそのツケを払う事を考えると、今から気が重いわよ……」

 独神の口調は深刻な状況を語っているとは思えないほど軽やかで、どこか楽しんでいるような響きさえあった。

「そうじゃねえだろ! オマエは一週間後死ぬって言ってんだ! なんだその余裕は」
「だってロキは必ず帰ってくるもの。数日我慢するだけなら平気よ」

 独神の確信に満ちた声に、ヨルムンガンドは一瞬言葉を失った。そこには迷いも恐れもない。

「それはオレ様の毒を舐めてんのか? 数日の我慢が余裕だと? いいぜ。好きなだけ苦しめよ」
「ええ。アスガルズ界を飲み込む大蛇様の毒を堪能させてもらうわ」

 独神は朗らかに笑った。ヨルムンガンドは眉を寄せ、目の前の異常事態を理解しようと試みた。毒で苦しみ抜いて死ぬ運命を、まるで楽しみにしているかのような態度。正気なのか
 その思考を遮るように、独神が唐突に言葉を継いだ。

「それはそれとして。そんな隅っこじゃなくてこっちに来て。見て欲しいものがあるの」

 ヨルムンガンドは呆れ返りながら言い返した。

「オマエが来ればいいだろ」
「あなたがそれでいいならいいわよ」

 躊躇なく近づいてきた独神は、少し構えたヨルムンガンドの顔をちらっと見上げた。

「毒に侵された私如きを警戒する必要ないでしょ?」

 独神は単に事実を述べただけなのだろう。しかしヨルムンガンドの耳には、それが痛烈な皮肉として響いた。最強の毒蛇が、弱った獲物を恐れているなどと言われているようで、プライドがずたずたに引き裂かれる。

「っオマエ!」

 殴ろうと拳を振り上げるが、横から飛んできた何かが拳にぶつかった。弾き飛ばされた青白い球体は、壁にべたりと張り付いている。

主人あるじびとに触れるな」

 勢いよく部屋に入ってきた赤毛の男は、独神の元へ一直線に歩み寄ると、躊躇なく額をデコピンした。「いたっ」独神は反射的に額を押さえ、恨めしそうに男を見上げた。

「全く。毒を受けるだけでなく、拳まで受ける気か。主人の嗜虐趣味は底なしだな」
「そんな趣味ないわ」
「いや、オレはそんな主人でも受け入れよう。壊れ物のように扱いながら抱くのも、傷つけて辱めて抱くのも得意だ」
「はぁ……?」

 独神の困惑した声も気に留めず、アシヤドウマンは熱弁を振るい続ける。独神は適当に「ふーん」「そうなの?」と相槌を打ち、時々「それは違うわよ」と軽く反論しながらも、基本的には聞き流している。不思議なことに、そんなやり取りの中でも独神の表情は穏やかだった。
 二人の果てしない会話を傍観していたヨルムンガンドは、とうとう我慢の限界に達した。

「オマエ。オレ様への用が先だろうが」

 その言葉に弾かれたように、独神はヨルムンガンドに目を向けた。
 目尻を下げて、口元を緩ませている。その表情は、まるで獲物が自ら網にかかるのを待っていた狩人のようだった。ヨルムンガンドの背筋に、嫌な予感が走る。

「主人を傷物にした貴様がそれ以上好き勝手にするのは許」
「はい、これが本殿周辺の地図。あと、八百万界全体の地図よ」
「おい、主人。オレの話を」

 独神が見ているのはヨルムンガンドだった。

「ロキを追うなら界全体の地理は把握している方が良いわ」
「てことは、結局ロキが来ねえと思ってんじゃねえか」
「まさか。ロキがどんな神かは知っているでしょう? きっと一度顔を見せたら用は済んだとばかりに逃げ出すわ。本殿を始点に逃亡するのが判っていれば行先は限定出来る。捕まえたいなら、周囲の環境を覚えておいて損はないと思うけれど」
「んな面倒くせえことしなくても、オマエを使って脅せばいいだろ」
「あら、私がちゃんとロキにとって餌になると信じる気になったのね」

 嬉しそうに笑う独神に、一瞬言葉を詰まらせた。

「……んなわけあるか」

 そう言うのが精々だった。

「そうだぞ、主人。アスガルズの奴らなんぞ信用できん。八百万界の奴らも同様だ。だからオレにしておけ、そうだろう?」
「脈絡ねえなオマエ」

 一貫して自分の話したいことしか言わないアシヤドウマンに、ヨルムンガンドは呆れ果てた。

「なんだオレとやり合いたいのか? オレとしては大歓迎だがな。その方が主人を苦しめずに済む」
「やる気も理由もありゃ十分だろ」

 ヨルムンガンドは剣呑な雰囲気を纏いながら殺意を滲ませるが、アシヤドウマンは余裕の表情で肩をすくめる。

「生憎、その主人が戦うなと言うから貴様に手はださん。まあ、そんな命令を下す主人はつける薬がないほどの大馬鹿者だ。それでも、このオレが認めたひとだからな。大抵の事は従うさ」
「馬鹿か」
「主人よりはマシだ」

 ぽんぽんと独神の頭を撫でた。その仕草には軽蔑などなく、むしろ尊敬と深い愛着が見えた。

「ソイツ、納得いかねえって顔してるぞ」
「じゃあ、はい、地図の解説よろしく」
「……ん? オレがか? まあ、主人の頼みとあらば仕方ないな」

 渋々といった様子を見せながらも、独神に言われた通りに八百万界の特徴、周辺の地理について解説を始めた。
 陰陽師であるアシヤドウマンは、術の特性上、土地の気の流れや方角を常に意識する必要があり、地理には詳しい。
 勉強熱心な彼は教えるのも上手く、既に土地を知る独神でさえも新たな観点に感心していた。
 ヨルムンガンドは時折毒づいたり苛立ちを見せたりしたものの、結局最後まで話を聞いていた。

「では、オレは失礼するぞ。セイメイを苦しめる良い策が浮かんだからな。術の構築が終わったら特別に主人には教えてやる」

 去り際に目配せしながらアシヤドウマンは退室した。
 二人になると、部屋はとたんに静けさを取り戻した。
 独神が黙ってお茶を淹れてくると、ヨルムンガンドの傍に湯呑を置いて、自身は机に向かった。
 墨を磨り、流れるように筆を滑らせていく。
 山積みになった紙が一枚、二枚と手に取られるが、山の高さは変わらない。
 暫くするとヨルムンガンドが立ち上がった。独神は顔をあげ、声をかけた。

「暗くなる頃には夕食なのだけれど、嫌いなものはある?」
「いらねえよ。オレ様に世話焼いてんじゃねえ」
「判ったわ。いってらっしゃい」

 見送りの言葉を与えられ、気にせず本殿の外に出た。
 独神の傍から離れ、一人で出歩いている姿を多くの者が目撃していた。それにも関わらず、誰も呼び止めようとしない。
 誰一人として、ヨルムンガンドの行く手を阻まなかった。
 いや、一人だけ、ヨルムンガンドの足を止めた者がいた。

「あ、君、これからお出かけするの? 羊羹もらったから主と一緒に食べようよ」

 見回りに行っていたミズチである。
 竹の皮に包まれた羊羹を大事そうに両手で包んでいる。
「構うな」と言い捨て、ヨルムンガンドは背を向けた。

「……どうなってんだここのヤツらは」

 初めて八百万界に辿り着いた、あの砂浜に座り込んだ。
 踊る波を見ながら、自身がいたアスガルズ界に想いを馳せる。
 神々に恐れられ、海に捨てられた自分。静かな海の底で過ごした半生。
 波の音は、昔から変わらず一定のリズムで彼の心を落ち着かせた。
 違う界であっても海は同じく、ヨルムンガンドの心を静めていく。

「アイツと二人だと息が詰まる。やっぱり海は良いな」

 毒牙にかけた獲物に対し「気まずい」と感じることのおかしさには気づいている。
 これまで敵は壊すか、逃げるかのどちらかしかなかった。
 しかし独神は違う。
 毒を受けながらも向き合い、時に笑みさえ浮かべる。
 その理解できない態度が混乱を生み、処理できない感情は心地が悪く、誰もいない場所を求めた。

「あのロキが、なんでアイツの命令を聞くのかまるでわからねえ」

 邪神ロキは享楽主義者で、誰かの為には動かない。

「ヘイムダルやブリュンヒルデ、あとトールもだ。フレイヤは……元々いかれてるからな」

 オーディンの命令で八百万界に送られた神々は揃って任務を果たさず、独神の下で八百万界の戦に手を貸している。アスガルズ界では神々の頂点に立つオーディンの言葉は絶対だった。それなのに、この八百万界では彼らは別の者に従っている。
 オーディンとは無関係にやってきた神々もまた、独神に従い悪霊を滅ぼしている。故郷であるアスガルズ界がロキのせいで危機に陥っているというのに、誰も帰ってこない。彼らを魅了する何かがこの八百万界、そして独神にはあるのだろう。

「オーディンの命令はどうでもいいが、ロキはオレ様の手で確実に壊してやんねえとな」

 その近道が独神を餌にロキをおびき寄せる事だ、と提案したのは独神だった。
 信用出来ないのなら毒蛇らしく噛めばいい、と言い出したのも独神だ。
 周囲の者たちは大反対で、ヨルムンガンド自身の排除を要求したが、独神は首を縦には振らなかった。
 悪霊に侵攻された八百万界を救える存在であるらしい独神が、ヨルムンガンドに臆さずあまつさえ神々すら屠る毒をも恐れぬ態度が不快だった。
 望み通りじわじわ苦しめてやろうと、独神の指に七日後に事切れるように調節した毒を流しこんだ。
 皮膚を侵す毒に血が滲んでも、独神の笑顔は崩れなかった。その時の表情が今も鮮明に蘇り、説明のつかない感情を呼び起こす。

「アイツの指図に従う理由はねえが、ロキを逃せば二度手間だ。『ほらね』とか言われそうで腹立つが、その通りなんだよな」

 仕方なく、本殿へと足を向けた。

「おかえりなさい」

 日はすっかり沈み、闇が立ち込めているというのに、独神はまだ机に向かっていた。
 山積みの紙は出ていく前と殆ど変わらない。

「何か食べるなら用意するけれど、どうする?」
「しつけえな。オレ様の事は放っておけ」
「わかったわ。……あと、そこに置いてあるものはご自由に召し上がって」

 ヨルムンガンドがいた隅には小机があり、皿の上に白くて丸い物が載っていた。

「……なんだこれは」
「おにぎり。えっと、フレイヤがライスボールと言えば判るって言っていた気がするわ」
「わかんねえよ」
「え!? ……八百万界の主食、です。米という穀物をぎゅっと丸めたもので、中には肉を入れておいたわ。好きかなって」
「なら肉と草混ぜんなよ」
「草!? ……た、確かにあなたが知らない物の中に入れて隠してしまうのは悪手だったわ……。ご、ごめんなさい……でも……草はちょっと違う。植物だけれど……草って……」

 米を草呼ばわりしたことが余程納得できないのか、ぶつぶつと呟く。
 普通なら敵の差し出す食い物など口にしないのだが、独神の様子を見ていると妙に毒気を抜かれてしまった。

「……オマエが作ったのかよ」
「そうよ。……あ! ぱんに挟めば良かったんだわ! さんどいっちってヘイムダルから聞いた事あったわ。ごめんなさい、アスガルズ界の文化に疎くて」

 そういう問題じゃねえだろ、とヨルムンガンドは内心突っ込んだ。

「今から作ってくる。ちょっと待ってて!」
「おい! オレ様はオマエなんかが作ったもんを食うなんて……って全然聞いてねえな」

 兎のように飛び出していったせいで、部屋に取り残されてしまった。
 目の前には白い球体が残されている。

「……」

 しばらく白い塊を観察した後、警戒しながら一つを摘まみ上げる。鼻先に近づけて匂いを確かめ、爪で表面を引っ掻いてみる。指先に白い粒がベタベタとくっ付いた。
 危険はなさそうだ。試しに舌先で舐めてみる。
 問題ないと判断すると、蛇の身体の時と同じく、殆ど噛まずに丸呑みした。



 ◇◇◇



「おはよう、ヨルムンガンド」

 独神が自室から出てきたその瞬間、ヨルムンガンドはぱちっと目を覚ました。
 障子を開け放ち、空気を入れ替える様子をじっと観察する。

「オマエ、まだ歩けるのか?」

 独神は苦笑いした。

「実は結構辛い。身体の自由が利かないってこんなに苦しいものなのね」
「薄めたとはいえ、オレ様の毒だ。ここからだぜ、苦しみの始まりは」

 と、嘲り笑うが、独神は昨日と変わらず強気だった。

「あと六日よね。いいわ、耐えましょう」

 未だ笑う事が出来る独神に、毒蛇としての誇りが根底から揺らいでいる。
 本来の姿であれば一飲みで殺せる取るに足らない存在が、大きな顔でのさばっている事が気に食わない。
 苛立ちを隠そうともせず舌打ちをするが、独神は全く気にした様子もない。それがまた腹立たしい。

「朝ご飯用意するから、少し待っててね」
「もうオレ様に余計な雑草食わすなよ」

 苛立ちをぶつける対象を探し、ヨルムンガンドは意図的に挑発的な言葉を選んだ。

「ざっ……まあ、お米が食べられたなら大丈夫よね」

 毒を受けても平然としていた独神が、米を草呼ばわりされた時だけは露骨に動揺する。その妙な拘りが理解できない。
 独神のことは相変わらずいけ好かないと思っているが、差し出された物に対する警戒心は弱まっていった。
 出された食事は完食し、食後に拷問のような熱い茶が出される事にも慣れてきた。
 食事休憩が終わると、独神の仕事が始まる。その間はどちらも口を開かない。
 ヨルムンガンドにとって沈黙は苦ではない。関わる必要がないのは楽だ。
 特に気を許していない相手など。

「……オマエ、そろそろ何か間抜けな事言えよ」
「じゃあそろそろ休憩にしましょうか」

 独神が二人分のお茶を淹れ、ヨルムンガンドの傍の小机に湯呑を置こうとすると、つるりと手を滑らせた。
 空中落下する湯呑を、ヨルムンガルドはがしっと受け止めた。掌にじわじわと熱が伝わる。

「ごめんなさい! 火傷していない? 大丈夫?」
「そんなウスノロじゃねえよ。零れてねえだろうが」
「ごめんなさい。もっと気を付けるわ」

 独神の両手が小刻みに震えているのが見えた。勿論、ヨルムンガンドに対する恐怖によるものではない。

「他にも何かあんのかよ」
「ええ。お茶菓子が沢山あるからそれも持ってくるわ。何があなたの口に合うか判らないから、色々試してみましょう」
「で、どこに置いてんだよ」
「こっち」

 茶箪笥には色とりどり、大小異なる食べ物がぎっしりと並べられていた。
 その中で千代紙が張られた箱を指さすと、ヨルムンガンドは独神を横へ押しやり、箱を取り出した。

「落とされたらたまんねえからな。他意はねえよ」
「ありが」
「オレ様の為にやってんだ。見当違いの礼なんて言うんじゃねえよ」
「うん、あり」
「いらねえよ!」

 二人は茶と茶菓子を囲んだ。
 独神が熱弁する茶菓子解説を、ヨルムンガンドはほぼ全て聞き流した。
 甘味を食べる習慣はなく、味見もしたが好んで食べようと思うほどの物はなかった。
 嗜好品は不必要。生きるための食事だけで十分である。
 よって独神の無駄解説など制止してしまえば良いのだが、放っておくことにした。
 濁流のように声を浴びせかけられるのも、そう嫌いではないと思えたのだ。

「……こんなに話したのは久しぶりだわ。とてもすっきりした。ありがとう」
「別に。聞いてなかったしな」
「そんな気はしてたわ」

 小さく笑うと独神はまた机に戻り、今度は書物を読み漁り始めた。
 ヨルムンガンドは時折その様子を横目で見ながら、海底で佇んでいた毎日を思い出していた。
 その日の夕食は他の英傑が作ったという、見るからに手の込んだ料理が出された。
 独神は食べなかった。理由を尋ねると「調子に乗ってお菓子を食べすぎちゃった」と笑っていた。
 その笑顔の裏に隠された苦痛を、ヨルムンガンドは見逃さなかった。毒が回り始めている。
 自分の毒がどんな地獄をもたらすか、これから独神が味わう苦しみをヨルムンガンドは誰よりも知っていた。

 次の日。
 独神はヨルムンガンドに声をかける事はなかった。
 舌が痺れ、喉の筋肉が思うように動かなくなっていた。身体で何かを伝えようとしても、手足の動きはぎこちなく、表情筋さえ自由にならない。
 仕方なく、ヨルムンガンドが言葉を投げ、それに対して独神は瞬きや微かな頷きで応えた。
 その日はずっと独神は書き物もせず、読み物もせず、ただぼうっと床に転がっていた。

 四日目の朝、独神は起きてこなかった。
 声もかけずに部屋に入り込むと、布団の上に転がった独神は呼吸が途切れ途切れで、声をかけても反応しなかった。運動神経の障害が、とうとう呼吸筋にまで及んだのだろう。
 このまま筋肉が壊死し、同時に感覚神経、自律神経も狂っていき、事切れるに違いない。
 ヨルムンガンドの毒は即効性があり、通常なら一噛みで対象が死ぬので、経過をまじまじと見るのはこれが初めてである。だが、独神の様子を見ると、とても七日持つとは思えない。
 毒を薄めた経験などなかったせいか、やはり加減を誤ったらしい。

(コイツが死んだ所で、何も聞かされていないロキは指示通り七日以内に来る。来る気がないならそもそもオレ様がここで待つ意味がねえ)

 すでにヨルムンガンドを認識できなくなった独神の手足が歪に折曲がっており、まるでガラクタのようだ。
 ほんの数日前に、ヨルムンガンドに臆さず言い返してきた姿が嘘のように思える。
 神経をやられた醜い姿は見ていて吐き気がした。こんな気色の悪い物捨ておいてしまいたい。

(オレ様の毒で、一つの界の指導者が消えるってのは悪くねえ。オレ様が最強である事の裏付けになる)

 この勢いのままロキを壊し、アスガルズ界の神々や巨人たちを呑み、毒で苦しませるのも悪くない。

(オレ様は捨てられただけの蛇じゃねえ。無敵で、最強で、だから勝手に向こうが慄いただけだ)

 ふつふつと燃え上がる己の存在を取り戻す為の復讐心に、ぽつっと異物が混じる。
 異物は少しずつ色づくと、っ、っ、と音なく笑った。
 ――――我に返ると、足元の独神が頭を揺らしていた。気道が潰れているのだろうか。
 人型のことなど蛇には判らない。自分以外の生命のことなど、今まで否定の対象でしかなかったのだ。
 知る機会なんてものはなかった。昏い深海は己と向き合う事には積極的だったが、他を見つめる事には消極的だった。

(わっかんねえよ!)

 ヨルムンガンドは独神の部屋の扉を殴り倒し、執務室の障子も蹴り倒した。
 眩しい朝日が目を突き刺す中、大きく息を吸い、一気に外に放った。

「おい!!! 英傑ども!!!」



◇◇◇



「頭領さんもあんたも大馬鹿野郎だ」

 顎髭を貯えた男は叱責した。一蹴して武力に訴えるところだが、この獰猛そうな顔をした男は医者だというので、ヨルムンガンドは牙を抑えた。

「皆の命を大事にする癖に、その"皆"にはいつだって、自分が入ってねえ。いつもいつも自分勝手で、おれたちの気持ちなんざまるで無視だ! あんたはあんたで、頭領さんをこんな目に合わせた張本人だしよ。おれの矢で射貫いちまいたい所だが、頭領さんをここに連れて来てくれたのもあんただしな。全く、頭領さんもあんたも、でもっておれも、いったい何やってんだかさっぱりわからねぇな!」

 ヨルムンガンドが集まってきた英傑たちに独神の事を伝えると、迷わずアカヒゲの下へ案内された。
 人族の医者であるアカヒゲだが、八百万界の三種族とは異なる独神の身体について、誰よりも詳しく記録を取っているという。専門医が存在しない以上、彼が唯一の頼みの綱だった。

「呼吸は出来るように処置した。けど、このままじゃ約束した日より前に死んじまうだろう」
「そうだろうな」

 見立てに肯定すると、アカヒゲは額に青筋が立ち、目じりを吊り上げ、それでも必死に怒りを押し殺して言う。

「あんたは、どうしたいんだ。おれたちに頭領さんのことをでっけー声で教えたのは、助けたいからじゃねえのか」
「はっ。オレ様にとっちゃロキをおびき寄せる餌でしかねえんだよ」

 血管が切れた音がした。

「よそ者が好き勝手いいやがって! 普段から苦しんでる人をこれ以上苦しめてんじゃねえ!」
「神経がぶっ壊れたのはオレ様のせいだが、そもそも受け入れたのはドクシンだ。普段から苦しんでいる? その原因はオマエら英傑を含んだ八百万界のヤツらだろ。ドクシンの痛みの全ての原因をオレ様にすり替えてんじゃねえ」
「止めの一手はあんたの毒だろうが! 頭領さんの治療法を知ってる唯一のあんたが何故助けの声をあげた? 無理やり七日生き延びさせて、無駄な痛みを与える気か! そうやって命を弄ぶ真似するやつはな、おれは大嫌いなんだよ!」
「ならオレ様を壊すか? かかってこいよ」
「うるせえ! 頭領さんがやるなつったら、やらねえんだよ!!」

 ヨルムンガンドに背を向け、荒々しく襖を開けたアカヒゲはそのまま足を踏み鳴らして行った。

「……ドクシンの命令が絶対か。本当に、ここのヤツらは理解できねえ」

 真っ白な布団に横たわる独神を見た。一緒に茶を飲み、つまらない話を聞き流していたあの時間が、遠い昔のことのように思える。目の前の無残な姿は、自分の毒が作り出した現実だ。

「ま、今回ばかりは、オレ様も理解できねえけどな」



◇◇◇



 六日目の昼、本殿敷地内の森で大きな爆発が起きた。
 爆心地には白いフードを被ったロキが立っていた。

「出てきやがれ蛇野郎!!!」

 息を吐き、ロキは武器を持つ手に力をこめ、辺りを注意深く観察した。
 複数の気配が動いているのが判る。悪霊を警戒した英傑たちだろう。
 そして、その中の一つは――――

「ロキ!!! ははっ、本当に来やがったな!」

 赤銅色の長い髪を靡かせ、蛇革上着を羽織った者が真っ先にロキと対峙した。

「来る気なんてなかったっつの。それより、ゴシュジンはまだ生きてんだろうな!」
「知るか。オレ様の目的はオマエだけだ、ロキ!!!」

 人の形をしているが大蛇の覇気を感じた。
 ああこいつはヨルムンガンドに違いないとロキは瞬時に思った。
 ならば、と、ロキはヘルヘイムを持つ手に力を込めた。

「……さっさと潰してゴシュジン助けてやんねえとな」

 人型になったヨルムンガンドと対峙するのは初めてである。
 今の器での戦闘は不慣れと予測し、ロキはヨルムンガンドの攻撃を受ける事に集中した。
 人型のヨルムンガンドは牙を捨て、拳を振るっている。
 一発毎の拳が重く、器の筋力だけで繰り出されたの物とは思えない。元の体躯が関係しているのか。

(妙な器与えやがったな。馬鹿オーディンめ)

 知略を主軸とするロキでは、ヨルムンガンドの拳は受けきれず、身体を横殴りにされた。
 受け身は取れたが、全身の骨が軋む。

「っ、くそったれ。おまえ! 解毒剤持ってんだろうな!」
「毒蛇がご丁寧に血清なんて持ってるわけねえだろ」
「だろうな。くそくそ」

 独神の危機。本来ならロキは即座に駆けつけるはずだった。
 だが、六日も遅れた理由は解毒剤の不在だ。
 ヨルムンガンドは倒せても、毒を解く手段がなければ独神は死ぬ。
 焦って解毒薬を作ろうとしたが、時間が足りない。そんな状態で一日が過ぎた。
 二日目、冷静になって気づいた。ヘイムダルが妙に静かだ。未来が見えるあいつが動かないということは、独神は助かるということ。ヘイムダルの真意は不明だが、同じく独神に思い入れているやつが動かないはずがない。

(ヘイムダルの見た未来でおれがどう動いてんのかはわからねえが、数日でおれが可能な事と言えばヨルムンガンドを痛めつける算段をつける事。多分それがヘイムダルの未来に対する"正解"だ)

 今のところ、ヨルムンガンドの動きはロキの予測の範囲内だ。
 これならヨルムンガンドの無力化は可能である。

(解せねえのは、英傑どもが動いてるように見えねえことだ。手を出すなと言われたにしろ、んなもん聞く必要ねえだろうが)

 ヨルムンガンドの追撃を受け流しながら、ロキは所定の位置へと誘いこんでいく。
 森には沢山の術式を仕込んでおり、状況に応じて発動させていくつもりなのだが。

「……なかなか派手な登場ね」

 聞き慣れた声が耳に届き、ロキは目を疑った。毒に侵され瀕死のはずの独神が、平然とそこに立っている。

「……は? ゴシュジ――」
「余所見してる余裕があんのか!!」

 一直線に飛び出してくるヨルムンガンドを寸前で躱す。同時に魔力を球体状に編み、地面に叩きつけた。 爆発と共に土砂が舞い上がり、砂埃で視界が遮られる。その隙に幻術を発動し、自分の残像を作り出す。混乱に乗じて独神を抱え上げ、森の奥へと駆け出した。
 背後でヨルムンガンドの怒声と地響きが轟く中、安全な場所まで来たところで独神を地面に下ろした。

「おかえり。ちゃんと手紙読んでくれたのね。ありがとう」

 目の前の独神は頬に赤みが差し、足取りもしっかりしている。まるで最初から毒など受けていなかったかのように。

「そうじゃねえだろ! なんで無事、って噛まれたなんて嘘かよ!」
「噛まれたわよ。指先をちょこっとね。少量の毒を入れるのって難しいらしくて、結構苦労したみたい」
「結局噛まれてんのかよ。ばっかじゃねえの! なんで平気なんだよ!」
「噛まれる時にヨルムンガンドの毒を一部頂いて、本殿の皆に解毒薬を作ってもらってたの」
「だったら、おれ帰ってこなくて良かったんじゃねえか。あーあ、来て損したぜ」

 トリックスターの名が廃る。まさか自分が独神の策にはまり、右往左往させられるとは思わなかった。

「そんなことないわ。だって、間に合うかどうかは判らなかったもの。実際、間に合わなかったしね」
「……は?」

 開いた瞳孔には、意味深な笑みを浮かべる独神が映っている。

「びっくりしている所悪いけれど、惚けてていいの?」

 独神の背後から、ヨルムンガンドが猛然と飛び出してきた。反射的に独神を置き去りにして、ロキは横に飛んだ。

「敷地からオマエを出しちまえば、邪魔は入らねえ。思う存分ぶっ壊してやるからな!!!」
「おれだって、おまえをかば焼きにしてやる準備は出来てんだよ!!」

 独神が手を振っているのが見えた。相手はロキ。そしてきっとヨルムンガンドにも。
 そこで、現状を理解した。
 結局、独神の掌で踊り狂っただけだったのだ。

「この腹いせはおまえの血で返してもらうぜ、ヨルムンガンド!!!」



◇◇◇



 ――――ヨルムンガンド来訪四日目の夕方。アカヒゲの診察室にて。

「……ドクシン。オマエもオーディンみたいなもんかと思ったけど、違ったな」

 アカヒゲの処置で気道を確保された独神の口からは管が飛び出し、生物として異形の物になりつつある。
 瞼も自由に動かせないのだろう。意識が覚醒しているのかぱっと見は判らない。
 人型になっても熱察知能力を保持しているヨルムンガンドは、体温から独神が覚醒している事が判っていた。

「オレ様は静かなのが好きなんだつったろ。……だから、今みてえに呻き声でうるせえのも、だからって静かすぎるのも鬱陶しいんだよ」

 上着から小さな紙の包みを取り出し、独神の口から管を引き抜く代わりに中身を喉の奥へと突っ込んだ。
 ヒキガエルが喉を鳴らすような耳障りな音が少しずつなくなり、規則正しい呼吸が徐々に戻ってきた。

「こんくらいの音なら、海底のあぶくみてえなもんだろ」

 体温が下がっていく独神の傍らで、ヨルムンガンドは目を閉じた。
 次に目を開けた時には、じっと自分に向けられた視線を横から感じた。

「……ヨルムンガンド、おはよう」
「……おう。起きたか、ドクシンさん」

前に書いたやつを手直しした。

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