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仕事。仕事。仕事。仕事。仕事。休み。休み。
繁忙期故に、とにかく今は忙しい。はっと気づけば朝で、おおっと顔を上げれば夜である。
今日は何日だっけかとカレンダーを確認する度に、もうそんなに日が経ったのかと驚いてしまう。
休日になると会社の事を全て忘れて、ぼんやりと過ごしている。
どんなに忙しくとも休日中に仕事の連絡が一切来ない事はありがたい。この会社で本当に良かった。
この会社に放り込んでくれたあの人には心底感謝である。
結局コネ入社になってしまったわけだが、まあ良い。入社したものはしょうがない。
休日である今日は、平日には出来ない様々な家事を済ませていただけで日が落ちた。
夜になってからがようやく自由時間で、ベッドで横になりながらだらだらとテレビを眺めていた。
とはいえ、実は殆ど見ていない。
平日の疲れと、一週間分の家事を行った事による疲労で頭はひとつも回っていないのだ。
ただ無音が寂しいので流している。
一人暮らしになってからは、映像につっこみを入れるようにもなったが、今日はその気力もない。
これだけ自堕落に過ごせば、明日には元気になるだろう。
休日二日目である明日こそは、一日休日らしいことをして満喫するのだ。
ぴん……ぽーん。
独特の癖でインターフォンを押すのは勿論あの人だ。
一応、あの人が口うるさいのでモニターを確認し──とは言え、あの人は映像嫌いで姿が映らない場所に立つのだが──人がいないモニターを見てから、ドアチェーンを外して扉を開ける。
「夜分遅くにすまぬな」
「寝る前だったから平気ですよ。どうぞ」
あの人はいつも、許可する少し前には玄関内に入り込んでいる。
私の家の扉の前に立っている所を誰かに見られたくないそうだ。
理由は私でも判る。
だから、一見無礼な行動にとやかく言わない。
それに私があの人の入室を拒否する気なんて、一切ないのだから好きに入ってきてくれて構わないのだ。
「邪魔するぞ」
「今日はどのくらいいられるんですか?」
「二時間くらいだな」
「ふうん、そうですか」
いつもそんなものだ。
彼を来客用の座布団に誘導しながら、映像を消し、お茶を淹れに台所へ立った。
彼はコーヒーよりも緑茶派だそうだ。一方私は水道水で十分な適当人間だ。
彼の為に買った茶葉を、彼用に買った急須で、これまた彼用に用意した湯呑に淹れる。
「緑茶 美味しい 淹れ方」と検索したり、和風おもてなし系の書籍を買ったりもしたが、私の腕に反映されているかは判らない。
あの人に聞いても「十分」としか言わないので、私は改善点も課題点も判らず、ただなんとなくの加減で薄緑色に染まったお湯を出している。
小さい事でも注文してくれれば、次の時までにはちゃんと直すのだが……。
お茶程度といえども、好みの通りにしてあげたいのだが、なかなか上手く事を運べない。
「やはり、急須の茶が一番落ち着く」
「……そうですか」
お茶をちびちび飲みながら、私たちは会わない間に起こった事を報告し合った。
しかしながら、あの人は"私に言えない事"しか普段やっていないので、大抵私が話し続ける羽目になる。
あの人はちゃんと相槌を打ってくれるので、話していて気持ちは良いが、話し続けるのは気が引ける。
だが、わざわざ言わないようにしている話を促すのも変な話だ。
私は湯呑のお茶が冷えるまで延々と話し続ける。
「……さて、そろそろお暇しようか」
「あ、そう……ですね。いつもろくなおもてなしもなく」
「其方が元気ならばそれで十分さ」
と、いつもと同じことを言って、いつも通り私を撫でて、そして去っていく。
見送りは部屋の中までで、玄関には行かない。
して欲しくないと彼に言われたからだ。身の安全の為だとかなんとか。
私には想像できないような事が世の中にはあるのだろう。
言われた時は寂しかったが、何度もやっていれば当たり前になる。
────彼が私を好きであること、私が彼を好きであることを知ったあの日から、大体一週間ごとに私の家に訪れた。
特定の曜日はなく、何の予告もなく夜の帳が下りるとふらっと現れる。
私たちは共に外を歩けるわけでもないので、雑談して、笑いあって、最後は撫でてもらってそれでおしまい。
物足りないと思わないわけではないが、あの人に会える事がとても嬉しかった。
顔を見ているのも、目が合った時に笑ってくれることも、私の胸を甘く締め付ける。
そういう些細なやり取りをしているだけで、幸福を感じた。
確かに会う時間は短いが、それでもやっていけると実感していた。
意外と私は遠距離恋愛に向いているタイプかもしれない。
一緒に居られるだけで嬉しい、と心からそう思う。
頻度だって一週間前後なら土日みたいなものだ。
来そうな頃には、会社の誘いは全て断って、帰宅中は買物をせず、真っ直ぐ帰宅する。
少しの我慢であの人と長く過ごせるなら、喜んで彼の都合に合わせよう。
そうやって毎週楽しく過ごしていたのだが、彼がいつもなら来るはずの一週間後に来なかった。
今は忙しいのだろうと思いつつ、一日、また一日と早めの帰宅を続けた。
そうしてずるずると時が過ぎ、彼が現れたのは更に二週間後の事であった。
「こんばんは。元気にしておるか?」
へらっとした顔で玄関に滑り込んでくるあの人に、私は思い切り抱き着いた。
高いスーツに皺がついてしまう事なんて、気を配っていられない。
あの人を感じたくて仕方がなかった。あの人が幻でないのか、確かめずにはいられなかった。
「……すまぬ。寂しい思いをさせた」
私は初めて、彼への寂しさで涙を流した。
毎日毎日、彼が訪れずに迎える深夜0時。
いつ来るか判らない、もしかしたら嫌われたのかもしれないという恐怖で、闇の中の一人寝が怖かった。
確かめようとスマホを手にしても、連絡先からは彼の名が削除され、こちらから連絡をする事はかなわなかった。
一人で家にいると、来ないあの人の事ばかりを考える。
辛くなった私は、定時上がりから一変仕事を詰め込んで必死に会社にしがみ付くようになった。
仕事の疲労で脳を遅緩させ、あの人に関する感情の全てを霧の中に押し込めた。
こんなことを毎日毎日続けていると、ようやく彼の言う「会う頻度が下がる」の意味を痛感したのだ。
こんなに会えないなんて、まるで遠距離恋愛である。
次会えるのは、また三週間後……それとも一ヵ月以上先?
しかも会えた一回だってほんの数時間しかいられないのに。
一年の間に、じゃあ結局何度会えるのだろう。何時間会えるのだろう。
会えない時間が長すぎて、話したい事、聞きたいことは沢山ある。
だけどこれらを話して聞いていれば、絶対的に時間が足りない。
泣いている時間が勿体ない。
今から何を話そう、これから何を聞こう。
そうこう迷っていると、彼は私の顎を掬い上げてそっと口付けた。
それはとても久しく感じていなかった微熱だった。
思い起こすと最近は雑談ばかりの、健全なコミュニケーションしかとっていなかった。
なんでだっけ。その事では特に不満を覚えたことはなかった。
でも今は、猛烈に彼とくっ付いていたい。
触れただけの唇を甘く噛んでみせると、彼は私の腰を引き寄せて深く深く口付けた。
彼から漏れ出す飢餓感に逆らわず、こちらも貪欲に欲せば、自然と着衣を乱しながら身体が重なった。
息遣いと体温と嬌声と体液とを絡ませ合いながら、私は彼の存在を確かめて、彼が触れた証を紅く刻んでもらった。
「……立てるか?」
「むり……」
「ははっ、声がかすれておるな」
「あなたも、おつかれもーどで」
「いやはや……寄る年波には勝てぬよ」
途中ベッドに移動したのは正解だった。動かずともこのまま眠りにつくことが出来る。
「今回はすまなかったな。少々立て込んでおって、其方の存在を隠し抜く為には動かぬ他なかった」
「いいですよ。あなたは色々ありますから。
私だって痛いのも怖いのも嫌ですし、ちょっとくらい会えなくても我慢しますよ」
「其方は強いな」
本当は会えなくて寂しかったが、私の為を思っての理由があるなら仕方がない。
会うまでは色々と言いたいことがあったのだが、久しぶりに彼と体温を通わせた事で、三週間分のエネルギーを取り戻せてどうでも良くなった。
今は彼の言い分を心穏やかに聞いていられる。
「まだ暫く儂への監視が強化されるだろう。次に会うのもまた時間が空いてしまうが……」
「判りましたって。心配しなくても私は大丈夫ですよ。
それより、あなたの方こそ気を付けるべきですよ。
あなたにもしもの事があったって、私は知る術がないんですからね?」
「……その通りだ。だがまあまだくたばる気は毛頭ないのでな。こっそり立ち回るのは得意なのだよ」
「自信があるのは良いですけれど、自惚れで足元掬われるのは嫌ですよ」
「ははっ。肝に銘じておくさ」
言葉でじゃれ合っていると、彼が時計を盗み見たのを確認した。
そろそろだろう。
「……帰るなら、しっかり服装を整えてからでお願いしますよ」
「ああ、勿論だとも。……そうだ。其方ネクタイは結べるか?」
「いえ……。制服はリボンだったし、やった事ないです」
「なら儂が教える通りにしてみてくれぬか?」
彼があまりに期待を込めた目で私を見るので、喜んで彼の要望に応えた。
教えられた通りに結んだネクタイは、彼がするよりも不格好だったが、彼はとても満足そうだった。
「……もう一回やり直させて下さい」
「儂は其方の"初めてのネクタイ"が良いなあ」
「いいえ。あなたのその完璧すぎるスーツにそんな不格好は許せません。勝手にやり直します」
「ああ、なんという事を……」
二回やり直すと、なんとか彼が作るような綺麗でバランスの良い三角が出来た。
「うむ。道行く者達に自慢したくなる出来であるな」
「恥ずかしいから止めて下さいよ。……喜んでくれたのは嬉しい、です、……けど」
彼は私の額に優しく口付けた。
「儂も嬉しいぞ。其方の初めては、貰えれば貰えるほど充たされる」
その"初めて"が何なのかを考えると、途端にいやらしいことを思い出して顔が熱くなる。
私の想像したものが何なのかを察してか、彼はにやにやと口元を緩ませていた。
「やはり其方は良いな。……名残惜しいが今宵はここまでだ」
幕引きの言葉に、急に身体中の熱が引いていく。でも、仕方がない。
「はい。おやすみなさい。また今度」
「おやすみ。また来る」
最後に一度、唇同士で触れて、彼は素早く部屋を出ていった。
彼がいなくなった後の部屋は、やけにがらんとしていて、静まり返っていた。
行為の後の生々しい匂いと、彼の香水とが混ざり合った匂いが部屋に充満していて、むせかえるようだった。
◇
「お疲れ様。また明日よろしく」
「お疲れ様です」
会社の飲み会を終え、ほんの少し酔った私は駅ビルに構える店舗をさらさらと眺めて満足し、そのまま帰宅した。
偶に開催される、希望者だけの会社の飲み会は好きだ。
私たち社員だけでなく、他のお客さんもいる空間で、食事をするのは楽しい。
テレビよりも煩くて、動画よりは静かな、がやがやとした雰囲気の中に呑まれていく。
飲み会と言っても絶対に話さなければいけないわけでもないので、ちびちびと熱燗を舐めて、お皿を一つずつ綺麗に食べていき、気が向いたら誰かと話す。
私は「不思議ちゃん」寄りの認識を持たれているので、何をやっても咎められないし受け入れてもらえる。
だからこういう集まりでも、息苦しさはなく、殆ど気を使わないので楽しく過ごせているのだろう。
でも私が社員の集まりに参加する一番の理由は、他人と過ごすと、あの人の事を考えずに済む事だ。
今日もまた、外でたっぷりと時間を潰したので、家ですることはお風呂入って寝るだけ。
明日は仕事だから、出勤さえしてしまえば朝から夜まで余計な事を考えなくていい。
彼が会いに来るまでの期間はどんどん長くなっていっていた。
期待してばかりは疲れる。私は彼と言う存在をいないものとして過ごす事で、自分を保っていた。
……と言うのが、遠距離恋愛のコツの一つらしいと学んだ。
後は普段の生活を充実させる事が大切だそうなので、彼を生活の中心には置かず、私が日々行っている生活を第一に楽しむよう心掛けている。
私が頼るべきは自分であり、周囲で実際に支えてくれる人たちや社会なのだ。
決して、滅多に顔を出さない反社のボスなんかを心の支えにしてはならないのである。
依存心が湧くからと、出番の少ない湯呑や急須だって戸棚の奥に入れた。
可哀そうだけれど、毎日の平穏の為には目に入らない所にいてもらう。
寝る準備を終えて布団に入っていると、インターフォンが鳴った。
独特の音に跳ね起き、寝間着である事も構わず扉を開けると、隙間からあの人がぬるりと入ってきて、私を見つめて言った。
「其方がどれだけ儂を想っているか、その可愛いお口で聞かせてくれぬか?」
この人、偶にすごく恥ずかしい事言ってくるな……。それもこんないきなり……。
そりゃ、色々想っているわけだけれど……でも、上手く言えない。
素直に言いたくならないのは、なかなか会えない事への苛立ちだろうか。
身勝手にしか見えない行動だろうか。
感情が溢れて、舌がもつれる。
「……まあ、…………す、き……ですけど…………」
「どの程度だ?」
あの人の吸い込まれるような目から顔を背ける。
「……知らない」
「おや、機嫌を損ねてしまったか」
「別に不機嫌じゃないです……」
「そんな顔も嫌いではないが……まあ、仕方あるまい。宵闇に邪魔したな」
そう言って彼は身を翻した。
え?なんで?どうして?
私が疑問符を飛ばしている間に、がしゃんと、金属の音がした。もう誰もいない。
彼は、本当に帰ってしまったのだ。
いなくなってしまうと、急に心細くなり、頭が冷えてきた。
怒らせてしまったのだろうか。それとも時間が無かったのだろうか。
判らない。聞きたくてももう聞けない。連絡手段はない。会う手段だってない。
────自分は大馬鹿者だ。
変な意地はらないで、素直に言えばよかったのに。
大好きだって。
いっぱい会いたいくらい好きだって。
もっともっとぎゅっとしたいって、言えばよかったのに。
どうして。
どうしてこんな馬鹿な真似しちゃうの?
次会いに来てくれるとしても、一ヵ月後とかそれ以上先だろうに。
その間ずっと会えないのに。何もできないのに。
会えない間、自分の馬鹿な行いをずっと反省しながら過ごすの?
ねぇ、喧嘩したって、何も言えないんだよ。
ごめんなさいとも言えないんだよ。
なんで、私、こんな…………。
私たちは、何をするにも時間が足りない。
◇[newpage]
あの別れからずっと、気分は最低最悪だった。
当然あの人は一週間後には現れない。そのまた一週間後にも姿を見せず。
これは本当に嫌われたのかもしれないと絶望した。
一応家は知っているとはいえ、足を運ぶことは迷惑であるし、彼が私を守ってくれている努力が水泡に帰すことになる。
だがしかし、どうしたらいいのか。
考えた末、私は会社が終わると夜の街を歩き回った。
あの人がもしかしたらどこかにいるかもしれないと、治安の良くない場所を中心に探し回った。
そこで何度かひやりとする事はあったが、それでも足繁く通った。
あの人に怒られてしまいそうだなとは思っていたが、嫌われてしまったのなら怒られることもないなと、色々と諦めていたのか、開き直っていたというか。
しかし、一ヵ月ほど歩き回っていると、私はすっかり彼に振られた気になっていた。
どれだけ悲観的になっても、誰にも否定してもらえない。
あの事は私が全面的に悪かったものだから、自分を擁護するなんて事が出来なかった。
「本人から言われてないから大丈夫!」……なんて前向きには考えられない。
終わったんだ。
終わったんだな……。
そんな事ばかり考えていると、町中であの人を探す事も嫌になってきて、深夜の徘徊はやめた。
いっそ忘れてしまおう。
あの人の事は全部夢だったのだ、そうに違いない。
そんなことを考えて毎日現実逃避。仕事って素晴らしい。
打ち込むことが仕事しかない私は、熱を上げれば上げるほど、評価も上がっていった。
周囲からも期待され、仕事自体も楽しくなりと良いこと尽くめ。
これでいいのだ。これが正しいのだ。
そうやって毎日、自身を洗脳しながら生きていった。
真実なんて何も判らない。信じたいものを信じるしかない。
でもその信じたいものを信じられる程の、自信や気力はなかった。
「好き」という気持ちに実体がないように、あの人だって実体がないのだ。
会いたくても会えない、まるで霞のような人。触れも出来ない人の事をどう信じて良いのか。
あまりの寂しさと後悔で私はもう何も判らなくなっていった。
辛かった。
辛くて辛くて。
なんでこんなに辛い思いばかりしなきゃならないのかと、ふとした時に涙が浮かぶこともあった。
その度にあの人の事を心の中で罵るのだが、あの人を好いてしまった時点でこういう事は当然の事なのだ。
あの人だって、ちゃんと私たちの関係を「茨の道」だと判りやすく称していた。
罵る権利はない。少し考えれば判るはずの事だ。
後先なんて考えず、あの人を求めた自分が悪い。悪いのは自分。悪いのは自分。
自分がこうも気分が落ちていると、なんでもなかった他人の幸せが途端に妬ましく見える。
特に恋人は苦手だ。仲睦まじいカップルを見ると、毎回目を逸らしてしまう。
今もそう。
普段足を運ばない駅で降りてぼーっと町を歩いていたら、何組も何組も仲良さそうな男女がいて、ここで降りたのは間違いだったと非常に後悔している。
美味しそうなご飯屋さんでもないかと思っていただけだったのに。
でも美味しいご飯屋さんだからこそ、二人で食べたいって思うよね。はは。
一人きりの私は肩身の狭い思いをしながら、人の波をゆらゆら流されていく。
横断歩道で待っている間、通りの向こうの眺めていると、妙に目を引く二人がいた。
遠目で判るほど綺麗な女性と、これまた遠目で判るほど整った男性で──。
……ん?
一瞬息が止まった。
私はどくどくと動く心臓を抑えて、その目立つ男女をよく目を凝らして観察した。
女性の方は多分、昼職じゃない。身なりが派手で会社に勤めているような感じがない。
でもとても綺麗だ。胸を張って自信に溢れている姿がとてもかっこ良くて、思わず見惚れる。
そして男性の方は、ハイブランドスーツに身を包んだ、ふわっとしたくせ毛が目に付く……って、やっぱりあの人じゃん!!!
私は通行人Aの立ち位置を崩さぬように、自然な動作で彼らを盗み見する。
彼らは妙に近い距離間でいて、仲睦まじく話をしているように見えた。
私は瞬間湯沸かし器だ。
約一ヵ月、それもついさっきまで、自分が悪いんだ悪いんだと落ち込んで責めていたにも関わらず、
彼が女性と連れ歩いているのを見て、怒りと憎しみがぐちゃぐちゃになって飛び出してきた。
だって、おかしくない?
私は全然全然会えないってのに、なんで他所の女があんな近距離で一緒にいるわけ?
あの人もあの人だ。
私とは外を歩けないっていうのに、どうして他の人とはそーーーーんな近い距離で堂々と表を歩けるんですかねええ???
腹が立つ。今世紀最大に腹が立つ。
私は回れ右をして彼らとは反対の方向へ歩き、わざわざ電車ではなくバスに乗って遠回りをし、スーパーで安くてアルコール度数の高い安チューハイと、安ワインと、安日本酒を買い、家に帰って一気に飲み干した。
勿論吐いた。わんわん泣きながら吐いた。
二人が似合い過ぎていて泣いた。
やっぱり私は振られたのだと判って泣いた。
玄関で彼に言われた時に、素直に言う事が出来なかった過去の私を恨んで泣いた。
次の日は当然ながら酷い二日酔いだった。
真実を伏せつつ会社には休みの連絡を入れて、床に突っ伏した。
このまま記憶を消してしまいたい。
◇
恋の傷を癒すのは、新しい恋?
いいえ、仕事です。やりがいがあり、成長が感じられる仕事です。間違いない。
勤務中は勿論、勤務外でも仕事の事を考え、資格取得の勉強をしていると時間が足りない。
通勤中もテキストに目を通して、脳内で暗唱し、帰ったら手を動かしてどんどん暗記していく。
まるで受験の時のようだ。寝ても覚めても問題の事ばかりが頭に浮かんで、生活を支配していた。
詰め込み学習をしていると、テキストの表紙を見たくなくなってくる時が度々訪れるので、そういう時は値の張る所で美味しい料理を食べて、疲弊した脳に渇を入れた。
現実逃避が過ぎるという気持ちも当初はあったが、今はこんな生活を楽しいと思っている。
努力が実を結んだ時の達成感は得も言われぬものであった。
毎日の積み重ねが形になっていく喜びは、恋愛では得られないものだ。
少し頭が冷えてくると、人生に必要なのは恋愛以外にも沢山あり、恋愛ばかりにリソースを割くのは勿体ない事に気づいた
昔の映画を見たり、百貨店で行われる催事に足を運んだり、娯楽は世に溢れている。
せっかく毎月給料を貰っているのだから、生きるための事だけでなく、楽しい事に使っていきたい。
と、私は着実に健全な生き方へと歩み始めていた。
こんなこと、彼に囚われているだけでは、決して気づけなかった。
よく聞くが、人生は楽しんだもの勝ちなのだ。
私もようやくその考えに至った。
今日は会社帰りに、値下げされたデパ地下の総菜を購入し、大事に大事にゆっくりと食べた。
本来の値段は割高で手を出すのを躊躇い、しかもなかなか値下げをしないので今日は本当に幸運だった。
お腹が満たされた所でお風呂に入る。独り暮らしであるが湯船に浸かるようにしている。
水道代とガス代も大事だが、お湯に浸かっている方が次の日に疲労が残りにくいので、積極的に入っている。
日によってはバスボールを入れたり、薬湯にしてみたり、バスソルトを入れる事もある。
毎日の事だからこそ、ほんの少し変化を加えるとそれだけで楽しくなるものだ。
日々の行動を少しずつ変えるだけで、世界の見え方が少しずれ、次第に全く異なる世界観へと移り変わる。
世界は多様性に富んでいて、とても美しい。素敵。感動する。
──なーんて、うそ。
いくら変わろうとしても、心にはあの人が残した傷がしっかり残っていて、彼が身に付けていた服のブランドであったり、彼が好きな食べ物だったり、彼と似たような背丈の人だったり、彼から香っていた人工的な匂いだったり、そういう小さな類似点を世界のあらゆる場所で見つけては、ちくちくと胸を刺した。
私は毎日傷ついていない振り、気づかなかった振りを続けている。
そんな振る舞いがいつまで必要なのかは判らない。
いつか、なんとも思わなくなる日がくればいいなと思いながら、私の足は前へ前へと踏み出している。
活発に身体を動かしている日中はかなり忘れられるようになったが、就寝前はまだまだ彼の事ばかりが頭に浮かぶ。
このシーツの上であの人と行った事、息遣い、感じた体温、かけられた言葉が子守歌のようにゆらゆらと頭を巡る。
もう二度と得られないものなのだと思うと鳩尾が鈍く圧されて吐きそうになる。
けれど思い出は案外気持ちよくて、私を好きでいてくれたあの人の姿を思い出すと安心して眠りにつけた。
今日もまた、一生懸命仕事をし、帰ってからは勉強に励んだ。
集中力が切れたら、お風呂にシダーウッドのバスオイルを垂らして、浴槽内でスマホの動画を視聴した。
髪を乾かす間はテレビを眺めて、終わったらすぐに消して、もう一度勉強に戻る。
ついさっき覚えたことを口に出しながら記憶の確認をしていると、インターフォンが鳴った。
ぴん……ぽーん、と。
時計を見ると午後十一時過ぎである。こんな時間に配達など来るはずがない。
機械の誤作動というのも可能性としては低く、霊的なものである可能性は更に低い。
この押し方と深夜の来訪者には心当たりがあった。一人だけ。
私は恐る恐るモニターを確認した。誰の姿も映っていない。
私の胸は早鐘を打っていた。打ち過ぎて壊れてしまいそうだった。
入浴後だというのに、手のひらにはじんわりと汗が滲み始めていた。
私は、恐る恐る、扉を開けた。チェーンは外さなかった。
数センチの隙間から見える人は、思っていた通りの人物で、ぶわっと感情が弾けた私は早口で捲し立てた。
「なんで来たんですか?」
「会いたかったからに決ま、」
「帰って!あなたなんて知りません!帰って下さい!」
ばたんと閉めると同時に涙が噴き出した。
なんであんな普通の顔をして、会いたかったなんていけしゃあしゃあと言うのだろう。
私みたいな小娘なんてキープにすらならないのに。
綺麗な人なんて、あの人の傍にはきっとたくさんいるのだろうから、そこから選べばいいのに。
なんなら日替わりでとっかえひっかえすればいいのに。
なんでわざわざこんなところに足を運んだのだろう。
机の上に置いていたスマホが鳴った。
知らない番号がディスプレイに浮かび上がる。──いや、知っている。
あの人の番号だ。あの人に消されてしまったあの人の番号。
かけることもかけられることもなかったけれど、ちゃんと数字は記憶してある。
バイブレーションでスマホが泳いでいくと、やがて机から転落した。
それでもなかなか着信は止まらない。
ずっと放っておくと、留守番電話に繋がってしまった。
そして再度着信がきた。さっきと同じ番号だ。
私は部屋に戻ってスマホを救出し、震える手でスワイプすると耳に軽く当てた。
「……話がしたい。其方が何を考えているのか、どうか教えてくれぬか?
儂の何が其方をそんなに悲しませてしまったのか。どうしても知りたいのだ」
あの人の言葉が耳に入ると、辛いのに嬉しくて、嗚咽が止まらない。
記憶の中のものではなく、本当の声がまさに今、機械から聞こえてくる。
声だけなのに、とても満たされてしまう。
「其方が本当に儂のことなど見たくない、会いたくないというのならば、儂はこのまま姿を消そう。
そして、二度と其方の前には現れぬ事を誓う。
だが、少しでも、儂にチャンスをくれるというのならば、この扉を開けて欲しい」
私はすぐさま玄関に戻り、扉を開けた。
彼は空いた隙間に手を入れて強引に開け放つと、立ち尽くしていた私を強く抱きしめた。
朧げでしかなかった彼がようやく輪郭を持ち、体温もある生きた人間になった瞬間だった。
良かった。彼は今、私の目の前に存在しているんだ。
嗚咽がおさまると、彼は私を抱きあげてベッドに座らせ、我が家を漁ってお茶を出してくれた。
泣き過ぎたせいで、温かいお茶がとても美味しく感じた。
全部奥に仕舞ってたこと、バレちゃったな……。
「沢山泣かせてしまったな」
彼は高そうに見えるハンカチで、とんとんと涙を拭ってくれた。
「折角の可愛い顔なのになあ。すまない」
容姿の事が気に障り、私はつい刺々しく返した。
「……別に無理に褒めずとも、あなたが連れ歩く女性の容姿と比べれば月とスッポンですよ」
「ん?」
先程抱きしめられて一安心したからか、溜め込んでいたものが堰を切って口から飛び出していく。
「私なんかじゃなくて良いじゃないですか。素敵な方がいらっしゃるならそちら様とお付き合い下さい。
表を連れて歩けないような私なんかより、よっぽど良いじゃないですか。
あなたに恥をかかせずに済みます。あなたも聞こえの良い事ばかり言って、私をおかしくしないでっ!」
言い切ると折角止まった涙がまた流れていった。
両手で顔を覆うのだが、全然止まらない。腕を伝って下に落ちていく。
「待て。何を言う。女とは誰の事だ。儂が何故連れ歩かねば…………」
「その沈黙。今、思い当たりましたね」
「……ああ。なんとなくだが、其方が何を見たのか目星がついた」
じゃあやっぱりそうなんじゃないか。と、私の涙はまたもや加速した。
「違う。違うのだ。頼むから泣かんでくれ。本当だ、信じて欲しい」
「無理。……だって……なんで?
私とは一緒に歩けないのに。……なんで他の人はあなたといられるの?
なんで?私はあなたといられないのも我慢してるのに。
前にあなたが来た時に冷たくしたこと、悪かったと思ってたのに……ごめんなさいって言いたかったのに。
なんで?私があの時ちゃんと言わなかったから、怒ったから、他の人といるの?
あなたはそうやって、代用品がたくさんいるの?
寧ろ私がその代用品の一人だったの?
ねえ……どうして……私が悪いのは謝るよ。謝るけど、当てつけにしても酷すぎない?
どうしてあんなに綺麗な人なの?なんで普通のお仕事じゃない人なの?
結局、夜の世界にいなきゃ、あなたとはいられないの?
私はあなたのこと好きなのに、あなたは私の事どうでもいいの?」
言えば言うほど苦しくなって、髪の毛を掴んで頭を抱えていると、彼は私の指を解きながら抱きしめた。
「沢山我慢してくれたのだな。すまぬ。儂の力不足だ」
背中を彼の手が撫でた。子供をあやしているようで、今の私にはぴったりだった。
「一つずつ答えていこう。
まず、儂は前回の事で其方を怒ってはおらぬ。
寧ろ急いでいるからと其方に何の説明もなくすぐ帰ってしまって悪かったと思っていた。
本当はあの日は其方の所へ行くべきではなかったのだが、どうしても顔が見たくてな。
一目だけでも会いたくて押しかけてしまったのだ。
長居するわけにいかず、其方を驚かせてしまったまま出てしまった。
そのせいで不安がらせた事は、本当に申し訳ない。
それに、そのせいなのだろう、其方が妙な場所をふらふら歩いておったのは。
実は何度か見かけたのだ。だが、接触するわけにはいかず見て見ぬふりをした。
儂が手を出しても出さずとも其方に何かあるやもしれぬ状況だった。
其方が早く諦めてくれればと、遠くから願っておった……すまない。
そして、其方が見た儂が連れ歩いた者というのは、古い友人だ。それ以上でもそれ以下でもない。ただの友人だ」
「……友達なのに、あんなに綺麗なの?」
「見目は好いのだろうが、あれの中身なんて……いや、待ってくれ。すまぬ、泣かせたくないのだ。
親密そうに思ったのかもしれぬが、そうではない。本当にただの旧友でしかないのだ。すまないすまない」
他の人をしかも女性を肯定的に評価した事が辛くて腹が立って、丁度涙を拭ってくれようとした手に噛み付いた。
あの人には傷一つつけてはならない。今までの行為中でも絶対に見える所に私の痕跡は作らなかった。
あの人を困らせたくなかったから。でも今はとにかく困らせてやりたい。
「いたたた。すまない。其方がそれで泣かずに済むと言うならばいくらでも噛んでくれて構わぬ。
儂を嫌いにならずに済むというのなら安いものだ」
「……あなたこそ、私の事、嫌になった?」
来たら追い出すわ、泣くわ、噛むわで、相当厄介で重い女だ。
「儂は其方を想っておるよ。
傍に居ない間も、ずっと其方の事を考えておる。
今は会社だろうか、帰って何をしておるのだろうか、ご飯はちゃんと食べておるか、スマホをやり過ぎていないか、ちゃんと寝ておるのか、……それに、儂の事を少しでも考えてくれているだろうか、とな。
儂が其方を想わぬ日など一日たりともありはしない」
雪解け水のように澄み切っていて、春先を連想させる温かな声色に涙も引いていく。
カタルシスを得た私はするすると言葉が舌の上を転がっていった。
「私も、あなたが好き。
もうあなたなしの世界が見られない」
あの人の強い抱擁が心地よい。心が聞こえてくるようだ。
とくとくと聞こえる心音に心を寄せると、かぷりと耳朶を甘く噛まれた。
「……抱きたい。其方を前に耐えられぬ」
耳の中に熱くなった舌が滑り込み、私は身体を震わせ情けない声をあげた。
寝着のジャージのズボンの中に手を入れられ、柔らかい部分を指で押された。
「ここに儂を誘って欲しい。其方を穢して他の男に手を付けられぬよう牽制してやりたいのだ」
「……私より、あなたの方が浮気な感じでしたけど?」
「身勝手なのは重々承知。儂は儂で、其方が儂ではない男に見初められてはいないかと気が気でないのだ」
「あなたと違って、男性と親密に歩いてもない私に、そんな事言いますか?」
「言うぞ。最近の其方は会社の者達と随分仲が良いようだからな」
仲が良い……って?
業務上関わるのは当然の事だし、特別な事なんて何も──
「っ!や、そこ、だめ」
「特別な事は何もない?そんな事判らぬよ。人の心なんぞ。それに、其方の傍に居られぬ儂がそれを調べる術などない」
下着の隙間から指を差し入れられ、ずぶずぶと中へ沈められる。
慣らしてもいないが容易く私の身体は彼という異物を抱え込んでいった。
もう片方の手はTシャツの裾から侵入して、乳房に触れ始めていた。
「んっ、あっ、あなたが、私の事、そんな風に思ってるの、意外でし、た。
忙しいだろうし、私の事なんて、何とも思ってないんだろうなって」
途端、全ての動きが停止すると、彼は「ほう」と冷たい声を耳元で響かせた。
「会わぬ間儂が其方の事を何とも思っていないと、まさか本気でそう認識しておったのか?
自分だけが不安に陥っていると考えていたのかのう?」
背筋が冷えた。
玄関で私がそっぽを向いた時とは違う。今回こそ怒らせてしまった。
「其方をどれほど想っているか、それをどう伝えれば良いのか。
長く生きていてもこればかりは判らぬなあ。さて、困った困った……」
口角を吊り上げて話すあの人はどこか楽しそうだった。
目元までしっかりと笑っている時、あの人は大体ろくでもない事をする事は少ない経験上ですら判っている。
それでも私は、狼を前にした兎のように、喰い尽くされると判っていても何の抵抗も出来ず静かに身を明け渡すより他ない。
「ふぇ、ごめんなさい。ゆるして、ください」
「其方が儂の事を信じてくれるまで、奥にしか突かぬよ」
「し、しんじる。っ。あなたが、私のこと、好きでいてくれること、ちゃんとしんじますから!」
「本当かどうか判らぬなあ。寂しいのは其方だけではないと判ってくれると良いのだが」
「わかる。わかった。わかったから。奥ばっかり、だめえ」
何とか許してもらった時には、息も絶え絶えで指一本動かすのでさえ億劫であった
ベッドで横たわっているだけで、彼がいようと構わず瞼を落として寝入ってしまいそうになる。
「……それで、其方と会えぬ間儂が全くの平気ではあらぬと、判ってもらえたかな」
「…………判りました。身に染みて判りました」
「それは良かった。やはり話し合いが大事であるな」
どこが。話してないくせに。……なんて言ったら、何が起こるか分からないので言わないけれど。
でも、今回は私が一人で暴走して盛り上がってしまった事は悪いと思ってる。
辛いのは自分だけだと思い、振られたと勘違いし、あの人の心を蔑ろにしたのは良くなかった。
……しかし、それにしてもさっきは怖かった。
何度寸止めされたか判らないし、何もかも全部口で言わせるし、何回も好きと言わせられるし。
達しても達しても終わらせてもらえず、頭がおかしくなるかと思った。
しかもここ集合住宅だっていうのに、わざと声出させてくるのが堪えた。
頑張って声を抑えたけれど、今回ばかりは聞こえたかもしれない。
普通の騒音なら菓子折りを持っていくところだが、これはさすがに対処できない。すみません、隣の人。
「ほら」
身体も頭を動かさず、目だけを彼に向けると、頬に小さな音が落ちた。
「其方は儂に想われている事に自信を持って欲しい。儂の想いは疑わんでくれ」
「はい。……その節はゴメイワクオカケシマシタ」
「迷惑は良い。愛いからな。但し、危険な事と他人と酒を飲み過ぎるのはやめてくれ。隙を見せてはならぬ」
「会社ではそんなに飲まないですよ。料理メインですし」
「本当にそう思っておるのか?」
「思ってますよ。直近ですと……」
会社ではあの人の事は一切口にしていない。
だがうきうきで定時上がりしたり、残業確定の仕事を請うたりと情緒不安定な事が多々あるので、突然破滅しそうと評される。
いつか何かをやらかしそうで怖いと。
あとはなんだろう。
恵んであげたくなると言われる。
確かに年下特権で度々甘い対応をされる。よくお菓子のお裾分けを頂き、お土産なら余った分は私の分にしてくれる。
あとは激励もよくされる。仕事頑張れよ、と沢山の人に見守ってもらえている。
「うん。やっぱり何もないですよ」
「なら店から出る瞬間に頭を打っていたのはまさか素面だと言うのか」
え。なんで知ってるの!?
「あれは全然お酒飲んでないです!目算を誤って半身足りなかったというか」
先日のあれは、食事会が終わって全員が順に外へ出ている時、私だけ店の引き戸に思い切りぶつけたのだ。
障害物が無いものとして頭を振った事から、とても大きな音がして関係ない人にまで心配されたのである。
勢いが付き過ぎていた為に案の定たんこぶが出来てしまって、先輩が濡らしたハンカチを額に当ててくれて……。
……。
……。
……あ。
あの人の視線に気づいて、私は「ははっ」とぎこちなく笑って返した。
「……お、おっしゃっていた意味が判り、ました。出来れば弁解機会を頂きたく存じます」
「良い。大層大きな音だったからな。周囲の心配も当然だろうし全く怒っておらぬよ」
と、彼の大きな手が私の頭を撫でた。気持ちが良い。
一定で変化のない動きがとても安心する。
「本来なら儂が飛んで行って、其方を抱きしめてよしよししてやりたいのだがな。
儂は見ることしか出来ぬ。……本来なら儂の特権だというのに。ただただ口惜しい」
彼の顔を下から眺めていると、彼の瞳はどろりと濁っていてさっきとはまた違う恐怖に呑まれそうだった。
だがそれも一瞬の事、すぐに眉を緩ませ私を幼い者として諭すように言った。
「其方はもっと自惚れて欲しいぞ。この儂が見初めたのだからな。
闇夜を支配する儂が選んだ女性だ。……特別なのだぞ?」
私は頷いた。さっき見たものは、今は忘れよう。
気にせず、あの人が私に自信を持たせようとしてくれている事だけを感じるんだ。
「其方が儂のものであるように、儂も其方のものだ」
欲しい言葉を的確に与えられるこんな幸せ、最近あっただろうか。いやない。
こんな嬉しいことばかりあって、本当に大丈夫だろうか。
嬉しいのに、怖い。だって、彼は期間限定の存在だ。
またすぐ行ってしまうのに、この時間が続けばいいのにと願ってしまう。
無意味なのに。
失う恐怖に呑まれた私は、ついこの幸福の終わりを確かめてしまう。
変な期待をしたくなくて。
「あ、あ、の、時間……大丈夫ですか。もう結構いますし……あなたも仕事あるんじゃ」
「構わぬ。時計など儂らには必要なかろう」
潔く言い切られて、涙ぐんだ。
嬉しいのは勿論なのだが、気を使われている事に対する申し訳なさの方が大きいかもしれない。
多分、本当は私に割ける時間はもうとっくに過ぎている。いつもの傾向から考えるとそうだ。
それなのに、私がこんなだからいてくれようとしているのだろう。
このままこの人に甘えたい。このままいて欲しい。
──でも、駄目だ。
私は彼の優しさをゆっくりと押し返した。
「大丈夫。今日は凄く嬉しかった。だから……もう大丈夫」
「いや、今日は時間を作ってある。其方が心配することなど何もない」
聞いていると、彼は本当の事を言っているように思える。
でも、違うよね。私も少しはあなたの事、知ってるんだよ?
「私は大丈夫。でも……これ以上の問答はしたくない。
このタイミングでならあなたが帰っても我慢できます。
次は、……ないです。泣くの……我慢できなくなっちゃいます」
あの人のビードロのような瞳が揺らめくと、深く深く息を吐き出した。
「苦労をかける。……行ってくる」
「はい、気を付けて行ってらっしゃい。またね」
「また会おう。出来るだけ、近いうちに」
彼は最後まで悩んでいたようだが、私が茶化して追い立てると帰っていった。
彼を失い暫くして私は深いため息を吐いた。
無理に作った顔が崩壊する。
彼の選択がどうであろうと、結局、あの人がいなくなったら泣く羽目になるのだ。
◇[newpage]
私が先日我儘を言ったせいか、あの人は時間も曜日もまるで関係なく来るようになった。
例えば朝、しかも早朝。
インターフォンで起こされ、頭が起きてもないまま玄関に行って開錠すると、倒れるようにあの人が入ってくる。
「徹夜明けでな……。歳のせいか頭痛がする……」
「それなら早く寝て下さい。ほら、勝手に使っていいから。私も二度寝しますし」
彼の手を引いてベッドに連れて行って横になるように促す。
私は起きたついでに身嗜みとして顔洗って、歯磨きもしておく。あ、髪も梳かしておきたい。化粧は……どうしよう。
気になる所を一通り綺麗にして戻ると、あの人はぐっすりと寝ていた。
綺麗な顔が緊張感なくだらしなくしている。
一見死んでいるように見える。徹夜と言っていたから深い眠りなのだろう。
何度か撫でてみたが、起きる様子はない。
咎められない事を良い事に、好きに口付けてみたが全く起きない。
いっそ襲ってしまおうかなどと頭をよぎったが、その考えは振り払った。
傍に居るのに反応を見せない彼を目の前にするのはつまらない。
本当は少しでも話したいが、起こすのは忍びない。
諦めて私もいつもより狭いベッドに滑り込んで、その横に並んだ。
抱き枕のように、彼の身体をぎゅっと抱きしめた。
少しでも逃げられないようにする為……なんて私なりの小さな抵抗だ。
それに接触していれば、彼が起きた時にも気付けると思った。
だが、私の目論見は大きく外れ、目が覚めた時には私の腕の中は空っぽだった。
布団はまだ温かかったが、これが自分由来のものかあの人由来のものかは判らない。
たったこれだけで、また何日も会えない。
シーツに移った残り香を吸い込んだ私は、彼の夢を見られるようにと願いながら三度寝を始めた。
彼が多少変わってくれたように、私も変わりたいと思った。
そのうちの一つが、あの人の事を理解したいという事。
私はあの人についてお付き合いする直前に聞いたことしか知らず、あの人の世界の事は基本的には聞いてこなかった。
あの人が話さないのもあるが、一番は私自身が怖がっていた。未知の世界すぎると。
だが、光の当たらない世界であっても、それが彼の住まう世界だ。
彼に関する事、もっと知って理解して、受け入れたいと思った。
「あの……、普段あなたは働いていらっしゃると思うのですが、収入を得る方法……つまり、反社会的に儲ける方法ってなんですか?」
彼は私の突然の質問に少しぽかんとしたが、淀みなく答えてくれた。
「至極簡単な事だ。禁止されたことをやればいい。
禁酒法時代、マフィアが無許可で製造販売したことで大儲けしたのは知っておるか?」
「はい、授業でやった覚えがあります」
「そういう事だ」
……だそうだ。反社的一般論。
他の方々はどうでも良いのだけれど、彼は、どうなのだろう。
彼の組織は普段何をしているのだろう……。もう少しだけ聞いてみる。
「彼の国はそうでしたが、例えば……ここだったら?」
「禁のつく文字を探してみると良い」
「……禁止?……禁漁?」
「そうだ。あれも密漁行為があるのはニュースでよくやっておるだろう。
其方らが普通に買って食すものも実はそういうものかもしれぬなあ」
何故か笑っている。本当か冗談かは判らないが、多分それだけ私たちに密接しているのだろう。
特別な事じゃない。あの人が住む世界は、異世界でもなんでもない。
私が普段生活する日常の隣にある事だ。私と彼が今隣同士で座っているように。
「希少価値で儲けるという事ですね」
「そういう事だ」
希少価値。普通では手に入らないもの、出来ない事。
思いつくものは沢山ある。敢えて口に出さないものもある。
それらを彼に肯定されるのが怖い。
やはり、足を踏み入れてはいけない気がする。
私は彼を嫌いになりたくない。知らない世界で生きる彼は知りたいが、余計な情報はいらない。
都合の悪い事を知って彼との関係に歪が出来てしまうのが怖くて、彼の事だからと無条件に受け入れる自信は……やはりないようだ。
「なんだか私には難しい話です」
私は、悪い事は、悪いと思う人間なのだ。
私が今まで築いてきたこの倫理観、彼の為に壊せるのだろうか。
今のところは、壊れる気配が、ない。
そうそう、彼の事といえば、最初の頃からずっと気になっている事があった。
でも恥ずかしいのと、デリケートな話題に抵触するからと、いつまでも言い出せなかった。
だが、我慢してばかりでは駄目だ、大事な事ははっきりと伝えないと。
──と、私を押し倒した彼に、致すのなら避妊具をつけろとようやく言った。
「死ぬほど恥ずかしかったんですからね!」
沿線から外れていて、絶対に普段利用しない薬局で避妊具を買った時はお札を出す手が震えた。お釣りはいらないと言いたかったが、言えば余計な時間を食うので耐えた。
「しなくても大丈夫との事ですが、一応して下さい。してもしなくても一緒なら構わないでしょう」
しかし、彼は私の提案を渋った。
「しなくても問題がないなら、する必要がどこにあろうか」
「逆でしょう。しなくても良いなら、したって良いわけでしょう?」
こんな一刻も早く終わらせたい話題なのに、何故かお互いの主張がかみ合わない。
「……普通、するんですよ?常識ですよ?未成年だって知っていますよ?」
「儂は普通でないのだから、世間の普通を当てはめる必要がどこにある?」
「は……何言ってんの?」
中学生のような屁理屈に思わず敬語が吹き飛び、言葉が乱れた。
何故この程度の事に納得できないのか理解が出来ない。
「しないことのメリットは?」
「することの利点とは?」
質問返しをするという事は、自分の本音を隠すつもりだろう。
私がこんなに恥ずかしい思いをして本音を吐露したのに、相手から本音が返ってこないのは悔しいが、まずは私の意見を正しく伝えてみようと思った。
「私は行為を行う際に避妊をしない事は無責任だと考えます。
だって、奇跡的に出来たとしても私たちの関係では困るでしょう?
そういう、新しい生命にかわいそうな事はしたくありません。
それに何より……そういう事を蔑ろにする私に対する雑な扱いが心底気に入らない」
彼は少し考えていた。
「粗雑な扱いをしている気は全くないのだが……寧ろ……」
寧ろ……何?
とても大事な事を言われるような気がして、耳をそばだてた。
「……そうだな。判った、其方の言う通りにしよう」
結局彼が拘っていた事を教えてくれなかった。
この人はいつも、何考えているのだろう。
儂の好意を疑うなと言っていたけれど、疑われるくらいに自分の行動に誠意が伴ってない事にいつ気づくのか。
それに加えて、一ヵ月に一回会ったり会わなかったりで、私はすっかり彼をいない者として扱う事に慣れてしまった。
毎日毎日あの人の事ばかり考えていてはやっていけないと、理屈で理解するだけでなく身体が馴染んできた。
あの人の事は好きだけれど、精神の支柱にするには脆すぎる。
この意味、ちゃんと判っているのだろうか……。
あなたじゃ頼りにならないって。
つまり、そういう事なのだけれど?
◇
まーたこのパターン。
二ヵ月ぶりだっけ、完全にあの人の事を記憶から消してたものだから、よく覚えていないけれど。
来るなんて露程も思っていなくて、仕事は持ち帰っちゃったし、ビールまで開けちゃったよ。
予定がすっかり狂っちゃったな。
「すみません。ちょっと大事な事をやっているので……。その……。何もしてあげられません」
「構わぬよ。儂は座っておるから、作業を続けると良い」
と、彼は私の真後ろに座る……というか隙間に身体を滑らせた。
座椅子、あの人、私、炬燵机(ノートパソコンあり)の順に並ぶ。
「あの……邪魔はしないで下さいね」
「勿論だとも」
背中にいるだけで気が散る。
来てくれたのは嬉しいが、本当に構っていられないのだ。やることはやらないと。
心頭を滅却し、目の前の資料に向き合った。
頭の中に浮かんだ文章をそのままキーで出力し続ける。
あの人は一言も話さず石のようにジッとしていてくれたので、気にせず仕事に取り組めた。
……のは、三十分くらいだけ。
飽きたのか、私を後ろから抱きしめ、それがどんどんエスカレートしていった。
指先が腹部を撫で、腰に触れて足へと進む。
ただ触れるだけなら少し気が散るだけで済むが、その手つきが欲を孕んでいて、私の身体がひどく反応する。
「っ……止めて下さい」
「すまぬ。判ってはいるのだが、目の前に可愛らしい者がおると、つい、な」
注意を素直に聞き入れてくれたので、私は息づき始めた熱情をそっと吐き出し、会社の事で頭を塗りつぶした。
なのに、彼の手は聞き分けがないのかすぐに動き出す。
いちいち指摘していくのも面倒であるし、反応を見せるから喜ばせてしまうのだと無関心を努めた。
そうしていると、少しずつ、手の動きに遠慮がなくなって、胸の膨らみを指でなぞるまでに至った。
ふに、と指で突いてくるし、もう一方は足の付け根付近を通るように何度も往復している。
「っ」
微弱な刺激に頭が持っていかれる。
後ろの彼の事ばかり頭に浮かんで、真面目に考えられない。
「ほんっっとうに、止めて下さい」
「うむ……。判った、努力する……しているつもりなのだ」
彼は握りこぶしを二つ作り、自身の膝の上へ乗せた。
しょんぼりとしているのが嫌でも判る。
大の大人が……私よりも年上の男性が、肩を落としている……。
……はあ。…………可愛いなあ。
「今から十五分、絶対に触らないで下さいね」
「十五分経ったら?」
「……しても、いいので」
彼は少年のように無邪気な顔で笑った。
「承知した。約束しよう」
さて、愛らしい人の為にも私はさっさと終わらせてしまおう。
終わりの時間を設定したのもあり、私は早々に頭を切り替えパソコンへ向かった。
しかし十五分では終わらず、予定時刻よりも少しずつ数字が増えていく。
だが、彼はその事を指摘する事はなく、黙って待ってくれていた。
予定より五分オーバーして、一応の終わりへこぎつけた。
「……はぁ。終わりです」
「お疲れ様。もう良いのか」
「ええ、本当に大事な所はこれで終わりましたから。あとはまあ、ざっと──」
ぎゅっと抱きしめられたと思えば、すぐさま首筋を舐められる。
「据え膳を前に耐えきったのだから、褒美は存分に頂くぞ」
「……ご自由に」
と言いつつ、すかさず机の上に置いてあったリモコンで部屋の照明を落とした。
いつもはなんだかんだで電気を消させてもらえない、または最中に点けられてしまうので先手を打った。
彼からはやや不服な空気が漏れている。
「や、家主のいう事は聞いてもらいますからね!」
「……。相分かった」
でもそれだけが理由じゃない。
暗ければ、お互いが薄らぼんやりとしか認識できない。
あの人に映る私を意識せず、思うまま彼に手を伸ばしてみたり、口付けたりとしたいことをし、言いたいことを言った。
「来るの遅すぎませんか?前回がいつだったか覚えてます?」
「抱けばなんでも帳消しになるなんて事無いんですよ?」
「……。でも、あなたにされるの、すごく、好きです。肌で触れていると近くにいる実感があって」
「ここにいる間は私のこと、ちゃんと見て。時間は私だって気にしてる。盗み見てようが判るんだからね」
「……優しくしないで。痛くして。酷いことして。優しいだけだと忘れちゃう」
「好きなのに、忘れそうになるのが怖い。でも忘れないと、苦しくて息が出来ない」
「もしも叶うなら、あなたが、あなたが……」
最後の最後。
一番大事な本音は言えなかった。
あなたの全部が私のものになればいいのに。
◇
一ヶ月以上空くのが当たり前になってきて、その事に言及するのも疲れてきたところだ。
大体であるが、一年に11回から10回会えることになる。
一回につき大体二時間くらいだから、22〜20時間で一日にも満たない。
一日分で私は一歳を取るのか。凄いね。まるで竜宮城だ。
最近の私たちは、会ったらすぐに抱き合って、そのまま性行為にもつれ込んでいる。
ろくに言葉を交わさないが、それでも肌を合わせていると安心する。
それに、話さない方が私たちには良いのかもしれない。
口を開くと文句を言いたくなるし、寂しいとか辛いとか、ぽこぽこ言ってしまいそうだから。
もっと来てよ。もっと会いたい……なんて、そんなこと言ってもどうせ叶わない。
それに、謗りの言葉よりも「もっと会いたい」という恋人なら当たり前の要望に、彼はひどく傷ついた顔をする。
彼が辛そうにするのは、やっぱり本意じゃない。
だから我慢。しないと。言葉を飲み込むのは大変だけれど。
私の口を塞ぐのに手っ取り早いのが、抱かれることなのだ。
こうやってしょっちゅう文句を連ねているが、抱かれるのが嫌なんて思っていない。
求めあっているのは相手に愛されているという実感があって、気持ちの良いものだ。
あの人が優しく微笑むのも、してやったりと不敵に見下ろしてくるのも好きだ。
単純に触れ合うのは気持ちが良いし、異性であるあの人と行える最上級のコミュニケーションだと思う。
でも、だからといってそればかりで満足かと言われればそうじゃない。
不満だからこそ、彼が帰った次の日は苛々してしまう。
私は他愛のない事がしたい。
見るだけとか、隣にいるだけとか、話すだけとか、ご飯を食べるだけとか、出かけるだけとか、そういう取るに足らない事がしたい。
最上級のコミュニケーションが、最大の愛情かと言われれば、首を傾げてしまう。
心の大部分を満たしてくれるのは確かだが、細かい所が抜け落ちていて、それは性欲では一切埋まらない類のものなのだと思う。
砂粒のような小さな愛。誰に対してもするような些細な関わりで埋まる部分なのだ。
彼とはいつもいつも、そういう細かい所が埋まらなくて、私は物足りずに落ち込んだり苛々したりしてしまう。
あの人がわざわざ会いに来て、無防備に肌を重ねてくれるなんて、とても光栄な事なのだろうけれど。
なんだかな、と私は大きな溜息をつく。
あの人が普通の人じゃないからしょうがないのだろうけれど。
……しょうがない、か。
気付くといつも使っている気がする
最近はめっきり諦めの言葉になってしまった。
◇[newpage]
突然の事だった。
帰宅してすぐ彼が訪れ、心臓がバクバクしているところに、また心臓が飛び出るような事を言われたのだ。
「来て欲しい所がある」
「……い、いつです?」
「今からだ」
「え、今!?わ、私仕事着」
「構わぬ」
私の恋がきらきらしたダイヤモンドから、路傍の石になった事にでも気付かれたのだろうか。
まさかこんなに突然、彼と二人で出歩ける機会が来るなんて。
くすぶっていた炎が煌々と燃えだした。
「あの、場所を教えてくれれば、時間差で行きますよ?」
「いや儂の隣を歩いて欲しい」
胸が痛い。張り裂けそう。嬉しい。
「……喜んで!」
今なら死んだって良い。
……幸せの絶頂にあった私は、彼の案内に素直について行った。
何処へ行くのだろう。どんな所だろう。
色々な想像を巡らしては、一人でにやにやと笑った。
「…………あの、ここは……。スナックというやつでしょうか?」
「友人がやっておってな。ここなら融通が利く」
スナックは勿論聞いたことがあるし、知識もあるが実際に行くのは初めてである。
……正直な所、気分が下がった。ちょっと期待しすぎてしまったのかもしれない。
あの人と二人でいられる場所が普通なわけがない。
こうやって二人で歩けただけ、良かったのだ。
人目のある所で彼といられるなんて二年以上無かったことなのだから。
少し気分が上向きになったところで、彼が扉を開けると中には、以前彼と共にいた綺麗な女性がいた。
私の気分が地の底まで落ちたのは言うまでもあるまい。
「いらっしゃあい。ふふ、待ってたわあ」
私は何という顔をしていいか分からず、愛想笑いをした。
「ど、どうも……」
ああ、値踏みされてるなあ。
しなくても判るじゃん。女として私の方が負けてるって。どう見ても。
「可愛い子じゃない。……あ、貴方はいなくていいわよ」
「えっ!?」
「なっ!?」
第三者がいる場が初めてであるせいか、あの人とハモるなんて初めての経験だ。新鮮!
って、そんな事言っている場合じゃない!?
「いい男ならともかく貴方でしょ?いーわよ。外に出てなさいな」
「仮にも客によくそのような事が言えるな」
「あらあ?お客様と思ってないのばれちゃった」
このやり取りだけで圧倒されてしまう。とても強い女性なんだなあ……。
「しかし、彼女を一人にしては」
「少なくとも女の扱いは貴方より上よ。勘違いされた上に泣かせたような馬鹿な男なんかよりは」
「……判った。其方も驚いているとは思うが、仮にも相手は接客のプロなのでな。
其方を悪いようにはすまい。……信用していない訳ではないが、その子に余計な事はするな」
「はいはい。判ってるわよ」
「いや、ちょ……!」
え、嘘。本当に行っちゃうの!?
ここに私一人残されるのは孤独感凄いんだけど。嘘でしょ。さっきまでの感動を返して。
「ふふ、改めて……初めましてこの店のママやってるミコシよ。よろしくね」
「あ、わ、私こういう者です。えとあとえと、あった!」
あの人は行ってしまうし、やけになった私は仕事だと割り切り名刺を渡した。
彼女は丁寧にそれを受け取ると、にこりと柔らかく微笑んだ。
「ご丁寧にありがとう。ほら、突っ立ってないで座りなさいな」
「ど、どうもです」
中は天井に小さな球体照明がいくつかと間接照明で暗めである。
落ち着いた内装をしていて、隠れ家のようだと思った。
スナックはお酒のやりとりをするので、派手な感じだと思っていたので意外だった。
客として行くには良いと思う。ちびちびお酒を呑むにはいいかもしれない。
しかし、私はこれからどうなるんだろう……。
彼からは何の説明もなかったので、緊張で身体を強張らせながらカウンターの椅子に座った。
「飲み物なんだけど、貴方にはお酒を飲ますなって言われているの。ジュースでごめんなさいね」
「あ、はい。ありがとうございます……」
何を言われているのだろう。彼から見える私がどんなものか気になる。
「……酒癖が悪いとか聞いてます?」
おずおずと尋ねると、思い切り笑われた。
酒癖エピソードは私が知らぬ所まで伝わっているのかと思うと顔から火が出るほど恥ずかしい。
「違うわよ。ま、余計な事は言うなって言われてたけど、あれにバレなきゃ関係ないわよね。
……飲ませたくない理由は、酔ってる貴方が可愛いから他人に見せたくないんだって。
っくく、うふふふはははは。あの男がそんなこと言うなんて、私お腹抱えて笑っちゃったわよ!」
そんなこと言ってたんだ。
酒癖をばらされていても恥ずかしいが、これも相当恥ずかしい。
なんなんだ。私はこれから何されるんだ。怖い。なんで一人で辱めを受けなければならないんだ。
「……なんだか、その……すみません。よく判らないですけど……ごめんなさい」
「やあねえ。謝るような事してないじゃない。
折角あの男を追い出したんだから、あれの恥ずかしい話をいっぱいしましょう。
私もまさかこんな所で仕返しの機会が来るなんて思わなかったから、ワイン空けちゃうわよ!」
うわっ、瓶のままごくごく呑んでる、凄いな……。やっぱりお酒強いんだ。
「ミコシ、さっきからこの子引いてるから、もうちょっと抑えてなきゃダメだよ」
誰かと思ったら別の子が店のソファーに座っていた。
にこにこしている彼女は私と同じくらいの年齢に見える。
ミコシさんよりは若い気がするがこう暗くてはよく判らない。
「正確な年齢はひ、み、つ。アタシはサトリ。この店唯一の店員だよ」
「この店は基本的に私がいればいいから、何人も抱えなくたって十分なの」
簡単に説明を受けていると、サトリさんは隣に座った。
にこにこしたままこちらを見るので、私もにこにこと返す。
このやり取りはなんなのだろう。ちょっと怖い。
「威圧してるわけじゃないって。今はね、人相占い中なの!」
「サトリさんは占いをなさるんですか」
「そう!」
「この子の占い殆ど当たるから」
占いはあまり信じないというより、興味がない。
良い事であっても悪い事であっても、その時は喜んだり残念がったりするが五分後くらいには結果を忘れている。
「キミはね……。とにかく今は怖がっているんだね」
そうです。はい。
……さっきから不思議だったのだが、言葉を口ににする前に会話が成り立っている気が……
ま、いっか。私がそれだけ判りやすいのだろう。
「じゃあ、ミコシ、まずは頼まれた事やったら?その方がこの子も安心できるって」
「そうねえ。今のままじゃ話盛り上がらないだろうし……。先に済ませちゃうわ」
本題に入るようだ。あの人に関する事なのは判っているが、内容は全く想像できない。
辛い内容は聞きたくないが、彼が私をここに連れてきたのだから、逃げたくても最後まで聞こうと思う。
「貴方、あれと付き合ってるんでしょ?」
「……ええ。まあ」
「あの男が何者なのかも勿論判っているのよね」
「…………多少は」
「私はね、あれとは腐れ縁なの。この町で人に言えないような事をする前から知っているわ。
偶々私がここに店を出した時、バックについてやるって言ってきたのよね。えっらそうに。
その態度がムカついたから追い出したけど、今はあの男の下についた方が楽だから後ろ盾にならせてあげてるわ。
私はあの、人を食った態度がだぁい嫌いなのよねえ。
顔が良いのは認めてあげても良いけど、昔から見てたんじゃありがたみなんてないじゃない?」
言っていることはあの人が説明してくれた事と同じだ。
彼女は旧友だって。
「……おしまい」
「…………え?」
唐突に話が終わった。今のは導入じゃないの?
「あの、……本当におしまいですか?」
「ええ。伝える事は伝えたわよ。あの男に頼まれていたのは、私との関係を正しく伝えてくれって事だもの」
「それにしたって、終わり……?」
「終わりよ。そもそもあいつとの関係なんて説明する程のもの一切無いのよ?」
「じゃあ、なんで頼まれたんですか?って、本人に聞いた方が良いんでしょうが」
「そんなの簡単じゃない。貴方に疑われたくないからでしょ」
確かに過去、私は彼女と彼の関係を疑った。
私よりも長い付き合いで、傍から見てとても親密そうで悲しくなった。
だがもう、何も考えないようにしていたし、自分の中で折り合いをつけて終わった話だったのだが。
「なんで今更……?」
「貴方の不安が少しでもなくなるようにって思ったんじゃないの?あんな嘘吐きの言葉なんて信用出来ないじゃない」
「確かに。……あ、いえ。嘘です」
「ふふふ。判るわあ。あの男も馬鹿よねえ。一度嘘を吐けば女はいつまでも疑わなきゃならないのに。
あいつは平気で嘘を吐くの。いいえ、誤魔化すのよ。嘘は言ってない、多少ミスリードは誘ったが、なんて言い出すの。腹立つわよね」
「……確かに。そういう性分なんでしょうね。付き合わされる方はたまったものじゃありませんが」
「でしょ!ふふ、貴方、あいつがどんな人か大体判っているでしょ?
良いわあ。あいつが隙を見せないせいで、周囲から持ち上げられて気持ち悪いのよ!
あいつがどんな男かまるで判っていない。でも貴方は知ってるでしょう?
あいつがどうしようもなくずるくて卑怯で、言葉が上滑りしてるの」
「……判ります。なんとなく騙そうとしているなって時は雰囲気で判ります」
「そう!貴方ちゃんと見てるわね。良いじゃない。あの男の化けの皮を剥いで徹底的に悪く言いましょう。
知ってる人間がいなさ過ぎて、私も愚痴を言う相手がいないのよ」
女子会で盛り上がる事の一つが愚痴、特に付き合っている男の悪口は大いに盛り上がる。欠席裁判である。
私たちも例外ではなく、とてつもなく盛り上がった。
あの人の事を知るミコシさんには、あの人の事を何でも言える。
良い事も悪い事も。私が何を言ったところで、長い付き合い故にあの人への評価も変わらない。
だから私のせいで、あの人の名誉を傷つけ地位を落とす事はない。
だから安心して、愚痴を言い合えた。
「とにかくあの人はずるいんです!!
私をどれだけ待たせれば気が済むって思ってんのか、一度好きになったからっていつまでも想い続けるわけないって判ってんの????って話ですよ!!
もう二年以上こんな事続けてて、私が浮気しないとでも思ってるの??
浮気なんて曲がった事する人たちはおかしいって思ってたけど、そりゃするよ!今なら判るよ!!
こんなに会ってなきゃしたっておかしくないでしょ!
なんでスマホがあって、通話アプリがあって、テレビ通話可能な時代に、連絡手段がないのよ!!
今が何時代か判ってんの????平安時代だって手紙でやりとりしてるでしょ!
辛い時いつも誰がいるってのよ。いっつも誰もいないから!!
寂しい時はお酒とテレビと動画と美味しいご飯!!偶に映画!!!」
ノンアルコールビールを呷りながら、私は思う存分思っていた事をぶちまけていた。
私が何を言っても、ミコシさんとサトリさんは「やれやれー」と煽ってくるので、私は調子に乗った。
お酒も飲んでいないのに、大声を出し、早口で捲し立てた。
全てを吐き出して気が済んだ時には、喉が痛み、疲労で身体が重かった。
最後の理性を振り絞って、カウンターに突っ伏して寝ないようにしていた。
「お疲れ様。水、置いておくわ」
「ありがとうございます……」
こくんと飲むと、冷たい水がすーっと臓腑に染みていくのが判る。
冷静さが戻ってきた。
「あの、先程はすみませんでした。うるさくして……すみません」
「良いのよ。だってここスナックだもの。日頃の疲れを吐き出す場所よ?」
「キミはお客さんなんだから、好きなだけ喋って良いんだよ」
「すみません。……あの、料金を支払いたいのですが、お会計ってどうすれば」
「女が財布なんて出すんじゃないの。貴方が楽しいのが一番なのよ」
支払い済みという事なのだろうか。店のシステムがよく判らないし、彼とミコシさんで話をしているようだから私は何もしない方が良いのだろうか。
そういえば……あの人何処に行ったんだろう。私は帰った方が良いのだろうか。
「心配しないで。もうすぐ帰ってくる頃だから。ね?」
「……はい。判りました」
私の不安を読み切って、声をかけてくれるサトリさんは流石接客業のプロと感心する。
こんなに気が利くなんて尊敬だ。普段何に気を付けているのだろう。
「特に何もないよ」
出来る人間は特段意識なく出来るってことなのだろう。
参考にはならないが、このやり取りの中で何かヒントが得られれば仕事にも生かせそうだ。
サトリさんはまたにこにことしている。大事なのは……笑顔?
「邪魔するぞ。そろそろ良いか」
彼だ。私は声のする方へ急いで顔を向けた。
ミコシさんはまた追い出そうとしていたが、あの人は頑なにその要求を退けている。
「十二分に彼女を貸した。これ以上は譲らぬ」
「けちくさいわねえ。なによ、普段放っておいているのは貴方のくせに。
ほら、貴方も文句がある分言っちゃいなさい。言えないなら叩いても良いわ」
いくらなんでも暴力はちょっと……。
後ろから羽交い絞めにされている彼も困惑している。ミコシさんは盛り上がっているというか、多分酔っているのだろう。
空瓶がカウンターに一列に整列しているくらいだから。
「彼の顔に傷がつくのは心苦しいので、叩くのは止めておきます。
それに、ミコシさんが聞き上手だったお陰で、とても今は気分が良いんです」
「……良い子過ぎる」
ミコシさんが次の酒瓶を探しにカウンター内に入ったのと入れ違いに、私は彼の近くに歩み寄った。
「さっきまで何をしていたんですか?」
「ん。……秘密だ」
拒絶されたようで胸がちくりと痛んだ。
せっかく愚痴を吐き出してすっきりしても、彼に会うとまた小さな悲しみが積み上がっていく。
「あなたとミコシさんの関係について、お話しして頂きました。ご友人であることは理解しました」
「それなら良かった。後ろめたい事は何もない事はどうか知って欲しかったのだ」
ミコシさんとあの人が二人で歩いているのを見たのは、もうかなり前の話だ。
それを今更弁解の為に彼女のもとへ連れてくるなんて。
私は、彼の言い分を全く信じられない。
引っかかる事がある。彼の今までの行動を考えたら、当然湧いてくる疑問だ。
「ここに連れてくる事は、あなたにとってリスクがある事じゃないんですか?」
「そんなことはない。ここは儂が利用する事があるとはいえ普通の店だからな」
「いいえ、慎重なあなたは繋がりが深いと考えられる旧友の店から私を遠ざけるはずです。
私とあなたを繋ぐ線を徹底的になくしたいはずですから。
それで、今回多少のリスクを犯してでも、連れてきたのはどうしてですか」
誤魔化されてたまるものかと、私は彼を真っ直ぐ見据えた。
彼は笑みを湛えていたが、次第に視線を外した。
「……其方は聡くて困る」
彼は肩を竦めた。
「あのまま閉じ込めておくだけでは、其方が儂を切り捨てそうだったのでな。こうして儂の傍へと近づけた」
「私が冷めつつあるのはちゃんと判っているんですね」
「認めたくはないがな。其方の中から儂が消えていくように感じた」
「……ふうん」
弱気な事を言っていても、顔が良いと美しく見える。
だが、私はその整った顔を思い切りはたいた。
BGMのない店では乾いた音が響き、彼は赤くなる頬を押さえて目を丸くしていた。
どうして、という顔を見ていると、悔しくて悲しさで手のひらが痛い。
「私は出会った頃から変わらずあなたが好きですけどね。
浮気をする気なんて毛頭ないし、男性との接触も避けています。
会社の中でさえ指定がなければ男性の隣には座りませんし、可能な限り二人きりにもなりません。
私にここまでさせておいて、よくもまあ切り捨てられそうだとおっしゃいますね。
謀略があなたのお得意の手だという事は聞き及んでおりますが、もう少し盤上の駒を見つめたらいかがですか。
それとも私に会わなさ過ぎて、私がどういうものか忘れているのでは?
懐に置いた人間の心すら読めないなら、全てが自分の思い通りになるなんて自惚れ、さっさと捨てた方が懸命ですよ」
さっきまでの興奮のせいか、言葉が水道水のように途切れず出続けた。
あの人は叩かれた時よりも、更に驚いていて、完全に停止していた。
そのせいで私も言い終わった後どう振舞えば良いか判らず、なんとなく怒っている顔を作り続けた。
その時ぱしゃっと音がした。ミコシさんのスマホだ。笑いを堪えているのか肩が震えている。
「傑作じゃない!良いもの撮れたわ。貴方がビンタされて惚けているなんて初めてじゃなぁい?」
あまりに愉快そうにしているので、気が抜けてしまった。
暴力を振るってしまった手前、ばつが悪い。
「……叩いて申し訳御座いませんでした。
あなたも、不安になると私みたいによく判らない事しちゃうんですね。
ちょっと驚きました。……あなたって私なんかと比べていつも冷静ですし」
あの人はまだ何も言わない。戸惑っているのだろう。
「あなたにとって今回の事は失策でしょうが、私としては良かったです。
今日はとても面白い体験が出来ましたし、別の人から見るあなたを知る事が出来て良かった。
それに、好きな人の話を誰かとするのはすごく楽しいです」
あの人がぴくりと動いた。抱きしめられる予感がして身体の力を抜いた。
「甘酸っぱいわああ!!」
予想通り抱きつかれたが、想像とは少し違って柔らかい。
「み、ミコシさん、痛いです。特にその、お胸が攻撃的で、照れる」
「貴方には勿体無いわ。こんなに可愛い子が貴方の魔の手に落ちるなんて許せないわ」
「だよねー。キミみたいな素直な子はいっそアタシと付き合うなんてどう?」
「あら、私もどう?可愛がってあげるわよ」
冗談と判っていても返し方が判らない。
「そこまで冗談じゃないんだけどなー」
あ、最近よく話題になるLGBT的な事でしょうか。
「そうじゃないよ!もう!」
すみません。私こういうノリどうしていいか判らないんです、ごめんなさい。
「単純にキミの事を見ていると、初めての気がしないんだよ。なんだか懐かしくて、すごく嬉しくなる」
「判るわ!この子って絶対今日が初対面のはずなのに、なあんだか、知っている気がするのよねえ……」
無条件な好意は私も嬉しいんだけど、知っている……ってなんなんだろう。
知らず知らずのうちにすれ違ってたのかな。
「これ。ミコシもサトリも放さぬか」
二人を乱雑に引き剥がすと、改めて彼が私を抱きしめた。
それも人前で。
「誰にもやらぬよ。儂だけのものだ」
いつもよりも若干低いトーンの声色に、頬がかああっと熱くなる。
「はーあ、いい歳した男の嫉妬なんて醜いわぁ。頼まれてた事は済んだしもう帰りなさいな」
しっしと言われ、彼と共に扉の向こうへと追い立てられる。
追い出しながらミコシさんは私の目を見て言った。
「彼がなしで遠慮なく来なさいな。たぁくさんサービスしてあげるわよ」
「はい!」
帰り道も二人で歩く。
私の隣を見上げると、大好きな人の横顔がある。
彼の隣を歩いて良いんだ……その事に胸が震える。
「あの、私、別ルートで帰りましょうか?」
「却下だ。儂の傍に居てもらう。今宵は結局其方との時間を潰されてしまったからな」
なんだか嬉しい。今晩は殆ど一緒に居られなかったのに、とても充実していた。
身体を合わせなくとも、彼が私に抱いている感情が伝わってきて、満たされていくのが判る。
「……ねえ」
「ん」
「また、ミコシさんに会いに行っても良い?」
「構わぬよ。其方が望むなら」
二人の時間を潰された事に彼は不満のようだけれど、私はとても充たされている。
彼の事を知っている人に、彼の良い事も悪い事も言うのってとても楽しい。
みんなこんなことしてるんだ。恋って、こんなに楽しいものなんだね。
この充実感。あの人と仲良くなり始めた頃の事を思い出す。
「行っても良いというのは、本音?それとも、本当は違うの?」
念の為聞いてみると、彼は困った顔をしていた。
「良い事もあれば、悪い事もある。だが、今よりは儂の様子を耳に出来るだろう。
それに儂も、其方が何を思っているのか、間接的に聞くことが出来るからな。
……欠点はやはり、其方に何かあったらという事だ。
あとは、……本気か冗談なのかは知らぬが、あの二人に食われてはならぬぞ」
最後の忠告には笑ってしまった。
「じゃあ、しっかり時間を空けてお邪魔するようにしますね。それなら少しはマシですか?」
「ああ。そうしてくれと助かる」
「はい」
私は彼の手を握った。
何か言われる前に、先手を打つ。
「少しだけ繋がせて下さい。次の信号まで」
ほんの十数歩歩いて、私は彼の大きな手を放した。
彼と触れ合いながら外を歩けること。
どんな口付けよりもドキドキする。
◇
あの人と出会ってしばらく経つが、未だに本当の感情が見えず、何を考えているのか判らない。
そんな人だが、最近気が立っているのか、前回から一週間と空けずにやってきた。
前回は随分自分本位に抱いてくると思ったが、今回もそうだった。
普段の彼は私に触れるばかりで、自身を奉仕させる事は少なく、時間も短い。
そんな人が、無理やり口に己を捻じ込み、喉奥に当たりそうな程貫いてくる。
苦しくて何度もえずきそうになるのだが、彼は私と目が合っても何も言わない。まるで道具扱いだ。
私は彼に逆らわず、彼が望むように動いて、手早く事を終わらせる。
口の中に溢れる白濁液を舌で触れぬよう飲み干すと、彼はそこでようやく我に返るのか、前回同様苦しそうに顔を歪ませていた。
それについて何も言わず、私はただ黙々とティッシュで口を拭い、彼のものを綺麗にしていく。
前回は聞いた。どうしたの、と。でも彼は言わなかった。
言えない内容なのだろうから、無理には聞かない。
それを彼は望んでいるだろうから。
私は彼の理想を演じる。
「お疲れでしょう?他に何かして欲しい事はありますか?」
隠し事が趣味の彼が隠しきれないほどの大きな感情を抱いている。
多分、私に会う事で少しでも解消したいのだろうから、期待通り彼の願いを叶えよう。
「……儂をどう思っているか。優しければ優しいほど、甘ければ甘いほど良いな」
それは、好きとか、愛しているとか、そういう言葉が欲しいのだろうか。
私は少し考えて、思っている事を包み隠さずに言った。
「あなたが来てくれるなら、都合の良い女でも構わない……と思うくらいには依存しています」
彼は捨てられた犬のように気を落としているように見えた。
何をされても好きだという事を伝えたつもりだったのだが、失敗してしまったようだ。
ストレートに言っても上辺だけのような気がして捻ったのだが。
……なんて、自然とこんな風に考えてしまうのは彼に毒され過ぎたか。
失礼な事を考えていると、彼にぎゅっと抱かれる。
「儂の理想はな……朝、其方の寝顔を見ながら起きて、夜は其方を抱きながら寝る事だ」
彼は彼で、私を都合の良い女にしたいわけじゃないと言いたいのだろう。
そして多分、普通の生活を望んでいる。
ただ、彼の立場がそれを許さない。
「…………大丈夫ですよ。私はちゃんとここにいるから。
来たい時に来て下さい。もてなしはあまり期待しないで欲しいですけど」
「其方が門戸を開くなら、それで十分満たされる」
ぎゅっと抱き返してあげた。
大きくてちいさなこどもみたいな彼を。
寂しい。私も、あなたも。
普通を望むのは、私だけではない、……ようだ。
◇[newpage]
ミコシさんの店に行くようになって、私は随分明るくなれたように思う。
人肌恋しい時に来店すると、彼女は私の話をいくらでも聞いてくれ、彼の事をなんでも話してくれた。
彼は今、本業がとても大変らしい
直接でなくとも、こうやって彼の事を教えてもらえると安心する。
せめて、アプリで文字のやり取りくらい出来たら良いのに。
出来たら今までもあんなに苦しまずに済んだのに。なんて、言っても仕方がない。
「貴方は、あんなので良いの?」
ミコシさんはカウンターに肘をつきながら、私に尋ねた。
「彼が良いんですよ。だって、好きなんですもん」
「……今、私が何を言っても通じないだろうけど、心配だから一応言っておくわよ?
この先、一年先、二年先、十年先の事、考え続けなきゃ駄目よ?」
「じゃあ、ミコシさんはどうするのが良いと思いますか?」
「あの男の事は思い出にして、別の男を探した方が良いわ。いえ、別に一人でも良いの。
とにかくあの男からは離れた方が良いわ」
「……第三者から見ると、それが当然ですよね。私も自覚しています」
でも、出来ない。
「正直に言うと、私はあの人と普通の生活は考えてなくて、歪であっても、あの人と繋がっていたいんです」
正確には、私は普通の生活を望んでいる。
当然彼といれば普通の生活など手に入るはずがないし、望む事で彼に重いと思われてしまうくらいなら、普通の生活は不要だと嘘を吐こう。
聞いてくれるミコシさんは好きだけれど、ここでの言葉は彼に伝わる可能性があるのだ。
やっぱり全ては言えない。
ミコシさんは私の虚言を見下ろし、溜息を吐いた。
「……ほんと罪な男。こんな子惑わせて」
彼女の大きな手が私の頭を撫でた。あの人とは違う繊細で、温かい手だ。
励ましてくれているのか、かわいそうと思っているのか。どっちでもいいや。
「貴方みたいな女は突き進む以外ないわよね。行先が地獄であっても、進み続けるんでしょ?」
「道がある限りは」
なんてことを話した帰り道。
あの人といるためにはどうすればいいだろう、と考えた。
何も望まなければいい。普通を捨てればいい。
発展性皆無のこの関係を何年も続ける。
出来るだろうか。あの人と繋がり続けられるだろうか。
弱気になってしまうのは、私がだんだんと歳を取ってしまったからかもしれない。
周囲は変わっていくのに、私だけは変わらない。
身体も疲れやすくなったし、物覚えも悪くなった。
友人からは結婚式の招待状が届いた。何枚も。
油物が胃にもたれやすくなって、食べたいと思う物でも一度に沢山食べられなくなった。
生命保険や年金のニュースがあるとつい目を通してしまうようになった。
あとは介護、孤独死等も見る度に重くのしかかる。
世間は学業を終えたら独り立ちをしなさいと言うくせに、結婚だ介護だと、すぐまた他人と生活させようとする。
私の実家も例外ではないが、一人娘ではないのである程度は自由が利く。
だがその自由も、あとどのくらい許されるだろう。
数日経って、私は上司に呼び出された。
わざわざ空いている会議室に呼びつけられたので、私は大きな失敗をしたのだと胃を痛めながら向かったのであるが。
「へっ、お見合い、ですか!?私が?」
部長の言葉に素っ頓狂な声をあげてしまったが、誰だってそうだろう。
「この時代に……凄いですね。完全なパワハラじゃないですか」
「だから内密に。内密にな。どうしても君じゃないと駄目なんだ!」
普段世話になっているし、頭を下げてくるから告げ口をしようとは思わないが、随分突飛な事を言うものだ。
結婚相談所や、婚活サイト、街コン等その手のサービスが数多ある中、会社経由で見合いなんてある所にはあるものだなと、ぼんやり思う。
「私は構わないから良いですけれど、他の方なら普通怒りますよ?」
「だろうな。だから君指定で助かった」
なんだそれ。私なら何でも言っていいと思っているのだろうか。
大抵の事は聞き流す私だから正しくはあるのだがタイムリーな話題で流石に少し傷つく。
「別に交際は断って良いそうだ。しかし形だけは整える必要があるらしくてな……。
評判の料亭だから、食事は保証するぞ。食事代がバイト代みたいなものだな」
「……じゃあ、行きます」
「ありがとう。助かる。取引先の方だから断るわけにいかなくてな」
「仕事の一環ですね、判りましたよ。予行練習がてら行かせて頂きます」
親に結婚の事をぼんやりと言われた事があった。
その時は相手なんていないと誤魔化したけれど。
私は未だに後ろめたくて、それからずっと里帰り出来ずにいる。
ここまでよくしてくれたのに、私はまっとうな道から少し外れた道を歩いている。
いっそ、結婚して安心させることが、両親の為だろうか。
それに、あの人の事を隠す隠れ蓑には丁度いい。
偽装結婚なんて良いのではなかろうか?事情がある者同士なら誰も傷つかない。
……本当に誰も、傷つかないか?
嘘を吐かれた両親は傷つかないのか?
私はあの人に嘘を吐かれると、ほんの小さな事であっても傷つくのに?
この案は却下だ。良くない。
なら偽装ではなく、普通に結婚することになってしまうが……彼に浮気するという事、か?
いやいや、それは人として絶対にしてはいけない。
じゃあ、私が彼ではない別の誰かを好きになって、その延長で結婚する……?
そういう未来だって……あっても……おかしくはない、よね……?
──見合い当日。
彼ではない誰かの為に着飾り、顔も知らない誰かにほんの少しだけどきどきした。
指定された部屋に入ると、男性が一人いるだけだった。部長すらいない。
「初めまして。今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします……」
自己紹介を済ませると、男性は他に誰もいないので気楽にして欲しいと言った。
見合いではなく、食事会……いや、二人きりだからデートだ。
予想外の展開で相手に伝わりやすく眉を顰めると、平謝りしてきたので流す事にした。
ほどなくして食事が運ばれ、すっきりとしない気持ちは一旦置いて、私たちは食事を楽しんだ。
そこで改めて、今回のお見合いを私の部長に持ち掛けた男性をまじまじと見た。
あの人ほどではないけれど、随分麗しい方だ。女性にかなり好まれるのではないだろうか。
お見合いする必要はなく、自由恋愛市場で十分戦っていける……いや、明らかな強者だ。
それが何故私のような者と見合いなんてしているのか。
私が社長令嬢や重役の娘ならまだしも、メリットが判らない。
「今日はお付き合い下さり、本当に有難う御座います」
私たちは食事をとりながら、取るに足らない世間話をした。
騙されたようで印象は良くなかったが、お話自体はとても面白くて、ずっと聞いていられる。
威圧的でもないし、かといって引っ込みすぎることも無く、人柄は丁度良い。
ただ、それなら余計に何故私と見合いしたかったのか判らなかったので、理由を尋ねた。
「形だけ、どうしても必要だったんです。
あなたが良かったのも、実はあなたでなければと言うより……ほら、僕たちくらいの年齢だと周囲が色々と心配してくれるでしょう?」
まるで私みたいな理由で、親近感がわいた。そうか年齢で私を選んだのか。
まだ上の世代は結婚して子供を産むべきだと言う考えが下地にある為に、どうしてもそういう話が出てくる。
これがバツがついている人だとまた違う意見なのだけれど。
でも勢いがないと結婚に踏み切れないから、とりあえずしておけとは言われる。
冷静になればなるほど、結婚に対してメリットが見出せなくなるし、恋愛に情熱を傾けられないと。
私があの人に一生懸命なのも、今だけなのだろうか。少し、怖い。
「貴女は結婚願望がありますか?」
と男性は尋ねた。
「ありません。相手がいればしたいと思うのかもしれませんが、私は独り身なもので」
「失礼しました。貴女と話していると楽しくて、きっとどなたか特定の方がいらっしゃるのかと思いました」
「そんなことはありませんよ。一人ではありますが仕事は楽しいですし、人にも恵まれております」
特定の人、か。
こんな一回限りの場でも、彼の存在は口にできない。
黙っていないといけないなんて、いないのも同じだ。
「良い方たちに恵まれているのですね。……私は貴女に興味が湧いてきました。
どうです?僕たち付き合ってみませんか?結婚前提で」
え。と思った。
先方は朗らかに笑んでいる。社交辞令のようにも思えるし、半分本気にも思える。
「すみません。少し化粧を直してきます」
「ええ、ごゆっくり」
私はお手洗いに席を立った。
さすが高級の料亭は建物の作りが違う。
個室ばかりで、誰がいるのか全く判らない。
私たちがいる場所は襖で仕切られただけで耳をすませば声が聞こえるが、奥には完全個室の座敷があるようで本当に聞かれたくない時はそちらを利用するのだろう。
もう二度と来ることが無いだろうし、この非日常感を堪能していこう。
仲居に教わった通りに歩いて、小用を済ませる。
今度はそのまま逆方向へと歩いていると、他の客が前方から来たのでそっと端へ寄った。
目を伏せて歩いていたせいか、軽くぶつかってしまい、謝罪の為に顔を上げた。
「大変申し訳御座いません。私の注意が足りず」
「足りないのは、用心深さ……ではないのか?」
見知った人でぎょっとした。
なんでこんなところに居るのか。たまたま?
ここは高級料亭だからいてもおかしくはないけど、でも偶然にしては出来過ぎていないか。
動けない。表情が無い。まずい。どうしよう。
勿論、彼には見合いなんて一言も言っていない。全く会う機会がなく、連絡手段も無かったからと心の中で自己弁護してしまう。
「ついてきてくれるな?」
無の表情。逆らえばどうなるか判らない。
だが部屋に残したままにしている男性をそのままにも出来ない。
「人を待たせています。……後にして下さい」
「勿論把握済みだ。その上で言っておるのだよ」
どこまで把握しているのだろう。成す術などない。
男性に迷惑をかけない為には、ここは彼に大人しく従っていた方が良い気がする。
私は彼の提案に同意し、彼が歩む方へ付いて行った。
さっきまでぼうっと眺めていた奥座敷の一つに着くと、背を押され、床に押し倒されて上から跨がれた。
これから何が起こるのかは判らないが、私の選択肢など全て潰されている。儘よ。
「今日の其方は格別に美しいな」
「有難う御座います」
「この店の料理はなかなか良かったであろう?」
「はい。とても美味しく頂きました」
「其方の相手はなかなか良い男だったか?其方の目から見て」
「……。一般的には良いのではないかと」
「儂は其方の感性を尋ねているのだよ」
「まあまあです。もっと綺麗な顔をよく見ているもので。今も」
彼は黙って私の首に触れた。鎖骨をなぞる。
「其方は、あの者と婚姻を結ぼうと思ったか?」
「いいえ。先方は見合いをすれば目的を達せられるとお聞きしました。相手に一切の結婚の意思がない以上私も同様です。ですが、部屋を出る前に結婚前提の交際を提案されました」
「……提案?彼奴の目的は既に達成のはず」
敵意。嫉妬は判るがあの男性には何もして欲しくない、と私が思うのは勝手すぎる。
今は刺激をしない為にも、余計な事は一切言わぬが吉。
「では、其方の目的はどうだ。達成出来たのだろうか?」
私は……。
「概ね達成出来ました。上司の顔は立てましたし、美味しい食事も口に出来ました」
「では、何が足りなかった」
「互いの条件をすり合わせて、婚姻に踏み切ろうとする方の姿勢を一度拝見したかったのですが、前述の通り先方には意思が無かった為に達成できませんでした」
彼に報告すると、彼は深い息を吐いた。
「……其方の為を想うなら、こういう事には動かぬのが得策だと判っているのだ」
彼は私を見下ろしながらも、視線をずらしている。
「それでも、其方が他の者と家族を築くことに耐えられなんだ。
儂が求めて止まぬものを、他の男が得ようなどと、許せなんだ」
するりと私の両手首を抑えた。圧倒的拘束感だが、何故かあまり怖くない。
「其方は儂を幸福にしてくれるが、儂が其方を幸福にしてやれぬのは自覚しておるよ。
それでも、其方が儂を置いていくなど、断じて認めぬ」
私に馬乗りになっている彼は、頭を垂れ、背も丸めてしまってみっともない。
こんな人だったっけ。それとも、こんな風にしたのは私だろうか。
そう考えると例え自惚れでも気分が良くて、どうしようもない。
醜い感情だって構うものか。彼が私によって変わってしまうのが心地よい。
私程度の小娘に揺り動かされているのと興奮する。
私は、彼にとって影響がある人間なのだ、とるに足らない小さき存在ではない事を証明するものだ。
浮かれ切った私は、わざと彼を詰ってしまう。
「私にずっと独り身でいろって事ですか」
「そうは言っておらぬよ」
「邪魔するってそう言う事ですよね」
「……とにかくあの者はやめた方がいい」
「反社のボスよりはマシなんじゃないんですか」
「あれも似たようなものだ」
「嘘はいいです」
「全くの嘘ではあらぬ」
「勝手すぎませんか?」
「強欲でないボスがおるはずがなかろう」
ああ言えばこう言う。
むきになって大人気ない。
子供みたいに駄々をこねてなんとかなると思っている。
ほんとに──。本当に、敵わないんだ。
「ねえ……、舌出して」
彼が素直に差し出す舌を舐めて、舌だけ絡めた。
「化粧崩れるからこれだけね」
セットしてある彼の髪を崩さぬように、軽く撫でる。
本当はもっとわしゃわしゃ撫でたいけれど、"お仕事中"だろうから。
「あなたはすぐに本来の仕事に戻って下さい」
「ならば……!」
なにその期待した顔。
「愛してるって言って。私が一番だって言って」
「儂は其方無しでは生きられぬ。其方を一番愛している」
ああほんと
────大嘘つき。
一番なら裏稼業なんてやめてよ。
それさえなければ私たちはこんなに苦しまずに済むのに。
「……ありがとう。私も、あなたが一番好き」
口付けてしまいたい欲をぐっと堪え、私は彼の望みを叶えに部屋へ戻った。
「遅くなって申し訳御座いません」
「いいえ」
「先程の件ですが、大変申し訳御座いませんが辞退させて頂きます」
「そのように仰々しくなさらなくとも大丈夫ですよ」
笑っている。ただの冗談だったのかもしれない。
顔が赤くなるくらい恥ずかしいが、きちんと宣言する事に意味があるのだ。
「貴女がもし一人で生きる事に不安を感じていたのなら、同じく不安を抱いている僕と付き合っていけるのではないかと思って、あわよくばと提案してみたのです。お気に障ってしまったらすみません」
私は首を振った。
「迷いはあります。ですが、もう少し一人で生きていこうと思います。
一人の夜が過ごせなくなったら、その時結婚を考えようと思います。
「良かったですね。迷いを断ち切ってくれるような出来事でもありましたか?」
なにそれ……私があの人と会ったことを知っている?
本当にあの人の知り合い?
……であるならば、私は慌ててはいけない。落ち着いて、返事をすべきだ。
「私にそんな方はいませんよ。だって、私の隣にはいつだって誰もいないんですもの」
◇
特定の相手がいるのに見合いに行った事は非難されるべきだろう。
しかし、彼はそれについては何も言わなかった。仕方がないと受け入れているのだろう。
離れる事も致し方なしと思われている事に傷ついた私は、見合いを断ってあげた対価と称して、我儘を一つ言った。
「二人で出かけたいです。前みたいに」
私たちがただの他人だった時のように。普通でいられたあの頃のように。
「善処しよう。場所も時間も限定されるが、それでも良いか?」
「良いですよ。例えどんなに短いとしても。会ったら抱くだけとか言う愛人ごっこ以外が出来るなら」
「愛人ではないと前から言っておるではないか。それに肌に触れたいと思うのは其方がそれだけ恋しいからで……」
「むきにならないで下さい。別に拗ねているわけじゃないんです」
彼が調整に調整を重ね、何かあった時の対処法まで念入りに私にレクチャー(但し会う時間はないのでミコシさん越し)して、私たちは付き合って初めてのデートを迎えた。
「なんですその格好!!」
待ち合わせ場所に十分前に行くと、妙に浮いている人間がいて、横目で見るとまさに待ち合わせしていた人物で思わず二度見をし、ずかずかと詰め寄った。
「趣味ではなかったか。なら今から替えを買って」
「そうじゃなくって!格好良すぎて目立つんです!」
「ほう……」
嬉しそうな顔は可愛いけれども、このままにするわけにはいかない。
「立場上目立つのは嫌ですよね?ならもっとだっっっさい格好して下さい!そうすればいくらイケメンでも残念認定してもらえて目立ちにくくなりますから」
「なら其方が服を選んでくれぬか。其方の言うださい格好というものが儂には皆目わからん」
「え?私が選ぶんですか!?」
この顔でこの身体で?
色も流行も全て無視で全身コーデしろって?
「無理。無理です。こんな、神に愛されたとしか思えないこの容姿と身体にそんな罪深いこと出来ない」
「其方はたまに救いようがなくて……愉快だな」
私はその辺の店に彼を連れ込み、全体的をシンプルに仕上げた。
その分顔が目立つような気がするが、金の匂いが一切消えて落ち着いた分ましだろう。
「さて、行きますよ。二人で電車……は駄目でしたね。タクシーはと」
「これ、もっとこっちへ来るが良い」
彼の近くへと腰をぐっと引き寄せられる。顔が近過ぎて思わず顔を背けた。
「……儂の恋人は随分恥ずかしがり屋のようだ」
揶揄うように囁かれると、身体が反応してしまい、頰が熱を帯びた。
「儂がエスコートする。だから其方はただ儂を頼ってくれぬか」
ここは外なのに。
なのに、しても……いいの?触れてもいいの?
私が恐る恐る手を伸ばすと、指先に口付けられた。
「恐れも躊躇いも必要ない。儂に全てを委ねておくれ」
これは本音?嘘?
判らない。判りたくない。信じたい。言葉通りに受け取りたい。
今日くらいは……良いだろうか。
「……普通に振舞って良いですか?」
彼は笑った。
「勿論。今日の其方は、至って普通の儂の恋人さ」
自身の腕を掴ませた彼の言葉を、今日は信じる事にした。
それが、私の信じたいことだったから。
今日だけは自分に都合よく解釈していきたい。
彼はいくつかデートの候補先を提示し、私はその中の水族館を選択した。
まず暗がりが多い所が良いと思った。
私はあの人の事を穴が開くほど見たいので、その視線に気づかれたくなかったのだ。
他には大人っぽくない場所なのも理由の一つだ。洗練された彼をなんとか俗世に落としたかった。一方的に彼のペースで事が進められるのが嫌だと言う、子供過ぎる抵抗だ。
それに見られる事が当たり前の彼が肩肘を張らず、子供っぽく自由に振舞って欲しかったというのもある。
これらの理由は言わなかったが、彼は私の希望を必ず叶えると宣言し、見事本日叶えてもらった。
水に囲まれた非日常空間で、私は公共の場で彼の腕を抱くと言う非日常行為を行っていた。
魚を見る度に美味しそうと言っていると、彼には口元を抑えるほど笑われてしまった。
そんなに笑ってくれるなら、私も馬鹿な事を言った甲斐があるというものだ。
……まあ、美味しそうという感想に嘘偽りなど微塵もないが。
水槽越しの光に照らされながらぼうっと水の生物を見ていると、彼が突然私の頬に触れて顔を近づけた。
口付けられると思った私は、彼の唇を指で抑えた。
「キスはしませんよ。外なんですから。それに、それじゃいつもと同じですし。
今日はいつもと違う事をするんですからね!」
「外でしたことなどないではないか。それにこんな暗がりなら判らぬよ」
「そういう事言う方々のせいで、公共の場が乱れていくんですよ」
「ふむ。其方が言うのであれば従おう」
とにかく、今日は健全に過ごすのだ。
彼を適度に振り回したり、私の要望を彼がいつも先回りしてくれてみたりと、夢のようだった。
とうの昔に捨てたはずの理想が、今ここで現実となって現れるなんて、思いもしなかった。
腕の中には彼がいて、見上げれば彼がいる。この人が私の大事な人で、恋人なのだ。
「そんなに見られると……悪い気はせぬな」
「お付き合い出来て光栄だと、改めて思いまして……」
と言った後、彼の瞳の色が変わった事に気が付いた。
見慣れた熱情が見て取れて、私はすっと目線を逸らした。
すると。スマホのバイブレーション音が聞こえた。
私は鞄から取り出すが画面には何の通知も表示されていない。
私じゃない。
胸がじくりと痛んでいく中、彼はスマホを見て表情を変えた。
しばらく画面を見ると、私に言った。
「一分、いや、三分待っていてくれぬか」
「十分でも一時間でも待ちますから。大丈夫」
「……すまぬ」
一瞬申し訳なさそうな顔をしたが、すぐに鋭い表情へと変わり、私の腕をすり抜け人混みの中へ紛れていった。
私はひとりになった。容赦なく溜息を吐く。
こんな時にまで彼の世界は私の邪魔をするのね。
営業の電話みたいなもの、と考えればいくらかましか。
それなら普通の恋人でもありえることだし……。
揺らめく青の世界に取り残されると、やっぱりこうなるんだ、と悲しくなった。
深海の生物は群れずに個体で生活しているそうだが、こんな感じなのだろうか。
群れるには光が必要なのだと、壁の説明に書いてあった。
だが深海には光は届かない。
ならば、私と彼が立つ場所も深海なのかもしれない。
世間の光が届かない場所。
十分くらい物思いに耽っていると、彼が足早に戻ってきて、行きとは違いふにゃりとした一見無害に見える顔になっていた。
「一人にしてすまなかった。だが、待たせた以上の収穫は得た。これで其方を送り届けるまで儂らは一緒だ」
さっきとは打って変わって、有頂天の気持ちだ。
まだ彼と光の中にいられる。夢が覚めずに済む。
「大好き!」
彼の首に抱き着いて彼の口元に唇を寄せると、指を押し当てられた。
「おっと。今日はせぬと言っておったではないか」
「……ノーカンです」
指を剥ぎ取り、キスをした。
「これっきり。もう今日はしませんから」
自分でもとんでもなく恥ずかしい事をしている自覚はあるので、顔全体が熱くなった。
彼は笑いを押し殺している。元はと言えば誰が不安にさせていると……。
でもいいや。
彼と一緒にいられるなら。恥ずかしい思いだって平気。
「……今日はありがとうございます。それも家まで送って下さって」
「当然の事だ。其方を守るのは儂の役目だからな。それに可能な限り傍にいたかった」
「私もです。本当に今日は楽しかったです。我儘を聞いてくれてありがとう」
「我儘ではあらぬ。今日は儂の方こそ楽しませてもらった」
玄関で何度もお礼を言い、何度も感想を言って、名残を惜しんで手を振った。
世間一般の恋人みたいに。
今日のデート、初めてのデートはとても楽しかった。
すっごく、すっごく楽しくて、幸せだった。
だから、いつも以上にサヨナラが悲しかった。
廊下で泣き崩れて、一歩も歩けないくらいに。
やっぱり、私は”普通”が欲しい。
あの人と普通に生きて普通に死にたい。
でも、絶対にできない。
死ぬ時だって、私たちは別々でお葬式すら行けないんだ。
◇
「ちょっと、貴方聞いたわよ!!大丈夫なの?」
「ん?」
『new美虚視』に来店早々、男は店主に詰め寄られた。
「話が私の耳にまで届いてるのよ……ここに来てる場合?」
「はて、なんのことやら判らぬなあ」
「飄々としていられるの?内部から崩れるわよ」
「ははっ。そうはさせぬよ」
まともに取り合わない様子に、女店主は溜息を吐いた。
「とにかく、あの子には言わないから」
「そうしてくれると助かる」
そこで初めて、男は女を窺うように目を向けた。
そこにはいい歳をした男の甘えが浮かび、男をよく知らない者ならば胸を掴まれただろうが、生憎付き合いの長いこの男の下心は見抜いている。
「貴方の為じゃないけどね。……あの子と貴方って、なかなか上手くいかないわね」
「いかせてみせるさ。儂は悲観しておらぬよ」
「自信があるのは良い事だけど、ね……」
話が途切れ、ようやく席についた男にいつもの酒を出しながら、女は苦言を呈した。
「最近のあの子、大丈夫なの?見ていて苦しいわ。こんな男のどこがいいのかしらってまた言っちゃったわよ」
「そんなに何度も言っておるのか……」
「そうしたら、あの子はなんて言ったと思う?
判らない……って。でも、こう続けたわ。
それでも手を放す事が出来ない。貴方の顔を見るとほっとするんだって」
男の顔は崩れない。
女は睨みつけながら更に続けた。
「あの子は貴方に勿体ないと思うんだけど?
どれだけ犠牲を払わせるのよ。女の良い時を全部あんたなんかにとられて。人生棒に振ってるのよ。
それも判っていて、今貴方といられるだけいないと、死ぬ時に後悔するって言うの。
女にそこまで言わせて、貴方はそれで良いの?」
返ってきたのはただの瞬き。
暖簾に腕押しの状態に、女は怒気を強めた。
「あの子の好意に胡坐かかないで。そりゃ貴方がどういう立場なのか知ってるけど。
同じ女としては、貴方みたいな駄目男、ひっぱたくどころか刺すわよ」
男はロックグラスを静かにカウンターに置いた。
「儂とて判ってはいるのだ。会いたいのは儂とて同じ。だが、何かあっては後悔してもしきれぬ。
普通にしていればまず体験しないような恐怖に晒したくはない。
もしもあれが命を失いでもしたら……。儂は耐えきれぬ」
からりと澄んだ氷が鳴る。
「じゃあ、私は良いっていうの?」
今はここにいない者を想ってしおらしくなる男に、茶化して言った。
「其方は分を弁えておる。必要以上に近寄らぬし、そもそも其方がどう振舞ったところで儂の生き方を変えられぬ」
「ふうん。あの子の存在で、貴方はそんなに変えられてしまったの?」
「そうだな。組織の為ではなく、儂の為に動く気なんて起きなかったろうよ」
「はー。あなたたちって。本当……おばかちゃんよねえ」
女は今日も一人で一生懸命生きている誰かの事を想って嘆いた。
その者が本当に会いたい男は自分のすぐ目の前にいて、会わせてやりたいが男の周囲を考えるとそうもいかず。
今晩も一人で寂しさを紛らわす為に機械音に囲まれているのかと思うと、心苦しかった。
「大切なのよね。相手が」
「当然さ」
「でも、貴方は他にも大切なものがあるのよね」
「……ああ、そうとも言える」
「あの子には、貴方以外に大切なものなんてないのに」
「……」
男は何も答えない。
「最低。お風呂で居眠りして死んじゃいなさい」
「はは、手厳しいな。だが、その通りだ。もう儂は自分の為だけには生きられぬ」
男がが率いている者達は百どころではない。それを遥かに超える大規模な集団である。
それを己のカリスマと謀略を駆使してまとめてきた。
大きすぎる組織は、個人の感情を易々と呑み込む。
「今となっては、儂に子種が無くて良かったと思っておるよ。余計なものに足を引っ張られずに済んだ」
「それ、あの子に対してもそうなの?」
「考えた事がない。足掻いても無駄な事について考えても仕方あるまいて。故に足掻けば手に入るものは必ず手に入れる」
「貴方はそれでいいわよ。もう嫌な思いはしたくありません、ってだけの事でしょ。
でも、あの子は違う。貴方の都合で貴方と同じ場所へ堕とさないでよ」
「ははっ。毎度毎度罪悪感を抱くようでは、闇の中では生きられぬさ」
「じゃあ貴方一人で勝手に死になさいな。光なんて追うんじゃないわよ」
「光か」
店内の天井で淡く輝く光を見上げた。
「儂の腕に閉じ込めた途端、あの子は光を産まなくなってしまった」
男が光を抱いた娘に手を付けたのは、二年を過ぎ、そろそろ三年近くなる。
期待に溢れていた娘も、次第に男を取り巻く環境に慣れていき、すっかり仄暗くなってしまった。
「手に入れた、と思ったのだがな。儂はどうにも、一番欲しい物は手に入らぬようだ」
「馬鹿じゃないの。悲観ぶっている暇があれば、あの子の望みをもっと叶えてあげなさいな」
「はは、全く持ってその通りだ」
男は頬杖をつきながら、店の隅にあるL字ソファーに座っているサトリを見た。
サトリは普段の接客同様人懐こい笑みを浮かべるが、近づいては来ない。
「……儂の提案、聞き入れて貰えるかな?」
「毎度毎度お金を積むのだけは上手だよねー。そういうのキラーイ」
◇
「手紙よ。誰からかは言わなくても判るわよね」
ちょっといいお菓子を貰ったからとミコシさんとサトリさんに会いに来たらそんな事を言われて、私は悪い予感一色で染まった。
「それでね、貴方には悪いけど、読んだら処分してくれって。見届けるように言われてるの」
出来ない。やりたくない。写真だって撮れないのに。
そんな人が手紙をくれたなんて、絶対に捨てたくない。
どうにかして持って帰れないだろうか。
「読まなくても処分するように言われているから、足掻いても駄目よ」
全てあの人に見透かされているようだ。
「……読みます。でもまず、お菓子持ってきたので一緒に食べませんか?」
定位置と化したカウンターの真ん中に座り、隣にはサトリさん、正面にはミコシさん。
私が持ってきたお菓子を摘まんでもらいながら、私は彼からの手紙を開封した。
拝啓、とまず始まった手紙は至って普通の手紙だった。
時候の挨拶が入っていて堅い印象を受けたが、それを乗り越えた途端に甘い言葉を書き殴っていて、読んでいて恥ずかしくなった。
手紙の中で私の事を何度も好きだと言ってくれて。大切だと言ってくれて。
何をしたい、これをしたい、という妄想が書かれているのはおかしかった。
出歩かない私たちは彼好みのデートなんて知りもしなかったが、なるほど、結構旅行好きなタイプだったのか。
電車に揺られているだけで満足出来るというのは、イメージ通りだ。
彼は考え事ばかりしているのか、基本的には物静かでぼーっとしている事が多い。
だから乗り物に揺られるのは、思考の邪魔がされないから好きなのだろう。
そんな気がする。あの人らしい。
と、くすりと笑える内容ばかりが書かれていたのだが、そんな手紙の締めには苦労をかけてすまない、と謝罪があった。
「……手紙にすれば誠意が伝わるとか、そう言う事ですかね?」
「さあね。あんな男の事なんて判りたくないわ」
おそらく、本当に言いたいのは最後だけだろう。
なんとなく、そんな気がする。あの人が本音の方に紙面を割くわけがない。
彼はそんなに謝罪したかったのだろうか。
謝られたところで、今更としか思えないのだが。
しかし、手紙とは古風な。あの人はどんな顔をして書いたのだろう。
便箋は和紙で飾りがなく線しかない。シンプルなもの。でも紙がとても綺麗に見える。
詳しくはないけれど、あの人が選んだものは高価に違いないという勝手な思い込みがある。
文字は水性のインクだ。筆圧で文字の太さが変わっているから万年筆かもしれない。
流石に毛筆ではないようだ。様になるだろうに。
そんな事まで想像すると楽しくてつい笑ってしまう。
あの人自身はいないけれど、こういう間接的な触れ合いもとても嬉しい。
「あの、何でもいいので、なんならチラシでいいので、紙を一枚下さい」
ミコシさんが探している間、私はお店のマッチの隣に置いてあるクリップ付きの鉛筆を手に取った。
言いたいことは沢山ある。その中から、相手が求めている言葉を手探りで探していく。
正解は判らない。これを読む時には、私はいないわけだから。
「度々すみません。あの人が来たらこれを渡して下さい。私の方は別に、とっていようが、捨てようが構いません」
「判った。いつ来るかは知らないけど、来たらちゃんと渡すわね」
「有難うございます。……いつもいつも、ご迷惑おかけしております」
ミコシさんから頂いたチラシは、ザラザラした単色印刷で情報量がぎゅうぎゅうに詰まっていて、鉛筆で書けそうなスペースは少なかった。
98円均一と書かれている、一の部分が一番白くまっすぐで読みやすかったので、そこに一言だけ書いた。
「愛しています」
◇[newpage]
いつもと変わらない会社の仕事を終え、いつも通り帰宅した。
今日も疲れたと思いながら鞄を床に落とし、スーツを脱いでいると、インターフォンが鳴った。
服を全部脱ぐ前で良かったと思いながら、モニターは見ずそのまま開けた。
「はい。なん、」
──刹那。
扉の隙間からにゅっといくつもの手が伸びてきて、まず私の口を押さえ、続けて両手と身体を拘束した。
目にも止まらぬ速さで現実がひっくり返り、身体と頭が硬直する。
私を押さえる者が一人、そして目の前には一人の成人男性。
会社帰りのサラリーマンとしか見えない外見だが、明らかに手慣れている。
呼吸が浅くなる私に、目の前の男は静かな声色で命令した。
「声を出すな。出さなければ手荒な事はしない。我々は話し合いが目的だ」
どうしていいのか判らない。驚きもある。恐怖もある。
身の安全確保の為、訳も判らず、ただ従順に頷いた。
「我々はこの方の下についている者だ」
彼らが提示した写真には、見慣れたあの人が写っていた。
悲鳴をあげたくても声が出ない。
つまり彼らはあの人の組織に属する者達だ。
そんな彼らが私を拘束する理由なんて、良いものなはずがない。
話し合いが目的とは言うが、私はここで死ぬのかもしれないし、暴行されるのかもしれない。
上手く息が吸えない。緊張で声を震わせながら、私はまず、大事な事を確認した。
「証拠を下さい」
彼らは顔を見合わせているようだったが、目の前の男はスマホを手に取り誰かに連絡した。
電話の相手はすぐに出た。
「何用か」
「お忙しい時に申し訳御座いません。帰りにもののけ堂の甘味でもいかがかと思いまして、連絡させて頂きました」
「ははっ、そうであったか。丁度まんじゅうが食べたいと思っておってな、一箱頼めるか」
「勿論です。すぐにお持ちします」
「すまぬな。楽しみにしておるよ」
スピーカーにせずとも漏れてきた電話口の声は、確かにあの人だった。
もののけ堂なんてマイナーで店内が暗くて怪しくて、接客のおばあさんがいつも変な笑いをしているようなお店のおまんじゅうが好きな人なんて、あの人くらいしかいない。
目の前の不審者に対して親しげに話しているという事は、本当に彼の組織の人と考えていいと思われる。
「……信じます」
反抗する意思がないと判断されたのか、私への拘束は解かれた。
だが真後ろからは移動しない。私の前後の立ち位置をキープしているという事は警戒は続いている。
正面の男は言った。
「単刀直入に言う。ボスと関わる事を止めて頂きたい」
ああ、そういう事。
予想の範囲内の発言だ。
「あの人はこの事を承知ですか?」
「いいえ」
独断での行動。
「詳しくはないのですが、勝手な行動をとって良いものなのでしょうか」
「罰は甘んじて受ける。その覚悟で我々はここにいる」
「断ったら、きっと私はろくなことにならないんですよね?」
「想像に任せる」
となるとこれは選択肢がないのと同義。私は。どうしよう。
私は勿論、彼と離れるつもりはない。
彼から言われるなら一考に値するが、周囲の者にとやかく言われたからと言って折れる気は毛頭ない。
だが、相手は普通じゃない。
彼は自分の組織が町を完全に支配していると言っていた。
であれば、トップの彼と親しげに話せる彼らも相応の強さを持つだろう。
知力か武力かは判らないが、一般女性に属する私よりはどちらも上である事には違いない。
賢く立ち回るならば、ここは彼らの要望に答えるべきだろう。
それでしれっと「私は縁を切りましたが、彼の方から近づいてくるもので」と言えば……
…………いや、そんな事をしたら殺される。冗談ではなく。
独断専行に及んだ彼らの覚悟は並大抵の事ではあるまい。
こんな事になるなんて、正直一回も考えたことなかった。
敵対する組織に殺される事は何度も想像したけれど、まさか味方からの反発なんて。
とにかく、正解が判らないのだから、もう少し会話を続けてみよう。
もしかしたら、何か別の方法があるかもしれない。
「……私があの人と別れる事であなた方にどんなメリットがあるんですか?」
「問答は良い。我々が大人しくしていると思ったらそれは大きな間違いだ」
──殴られる。
とっさに目を瞑った。しかし、拳は来なかった。
「待て。……貴女は最近見合いをしませんでしたか?」
後ろからの声が私に尋ねた。
見合いはした。しかし、何故知っているのだろう。
見合いがあったのは確か先月くらいの事で、私の中の記憶も薄らいでいる。
それを何故今更言うのか。
「貴女の見合い相手は我々とは敵対する組織の者でした。
そして丁度その日、その組織との会合がありました。
我々の支配権についての重要な話し合いです」
顔が引きつった。
この後、何を言われるかなんて、余程の馬鹿じゃなければ想像できる。
「貴女の見合いを破談にする為、あの方は会合に参加しませんでした。
それだけでなく、貴女に手を出さないようにと、少なくない対価を支払いました。
その結果、我々の組織はあの方をよく思わない派閥から、これ見よがしに反発の声があがっています」
私が軽い気持ちで、付き合いで受けただけのものだったのに。
「組織に亀裂を入れた気分はいかがですか?」
亀裂?そんな事で収まるような損失ではない。
あの人、対価に何を払ったの?何があったの?
そんな事何も聞いてない。
それどころか、外でデートしたいなんて我儘言ったのに。
その時だって、あの人は何も言わなかった。構わないって、そう言っていた。
嘘でしょ。構うに決まってるじゃん。
裏の事を知らない私だって、あの人が払った代償が私じゃ一生かかっても得られないような大きなものである事は想像できる。
あの人の組織の事だって、集団の中の反ボス一派が発言権を増したとなると、あの人は対外組織だけでなく身内までも心を砕かなければいけない。
そんなの……大変に決まっている……それどころか、そういうのって……下手したら……あの人自身が倒される、つまり死ぬことだって、あるんだ……よね……。
私が何も考えていないせいで、あの人の立場を悪くした。
そして、あの人が大事にしているものを壊してしまった。
私を一番と言いながらも、ずっと抱えて放さなかったものを……私が、壊したんだ。
あれだけ憎かったあの人の組織だけれど……こんな結果は、望んでいない。
「あの方の行動には正直参りましたが、貴女さえいなければ組織は立ち戻るでしょう。
我々はあの方に拾われ、あの方に面倒を見てもらった。
この程度で見放したりはしません。我々はファミリー(家族)ですから」
目を見開いた。
私の中でずっともやもやと渦巻いていたものが、今、冬場の朝の空気のように澄み切った。
彼は私と違う。
大切な家族を、守るべき家族をちゃんと持っている。
そして、想ってくれる人がたくさんいる。
寂しくない。
だって、こんなに慕われている。
────私は、あの人の人生には不要
最近ずっと、私は得体のしれない違和感をずっと抱えていた。
一人でいても、誰かといても、あの人といたって、その正体が何かに気づけなかった。
それがまさか、こんな所で理解してしまうなんて。
いや、前から思っていたよ。
私が気づきたくなかっただけで。
なんだかんだ言っても、あの人は組織を大事にしていて、私と会う前から身を置いて過ごしてきた。
あの人はとっくにこの人たちのものなのに、後から来た私が割り込んで彼を寝取ろうとしているようだ。
そうか、間女だ。言い得て妙だな。
悲しいほどしっくりきてしまう。
「……承知致しました。あの人とは別れます」
いや、ただ別れるだけじゃ駄目だ。
あの人は多分、別れ話なんかじゃ別れてくれない。だって、私がそうだから。
「そこでお手数ですが、私に手を貸していただけませんか。心情的には嫌でしょうが。
私とあなたたちが脅迫ではなく協力関係にある事が明確であれば、彼に衝撃を与えられる事でしょう。
関係が密であればあるほど、言葉で説得するよりも納得してくれる。いいえ、納得せざるを得ないから。
だってあの人は、私といても、組織のボスの肩書は決して捨てなかったんですよ。
……元々、あの人にとって一番大事なのは、あなたたちだけなのに」
言葉にしてみると、酷い話だ。
彼には私がいないといけないんだ、と勘違いしていた私も。
私を愛で縛りながら、他のものをそれ以上に愛し続けていた彼も。
ひどい。
本当に、ひどい。
◇
スピード勝負だった。彼に知られない為には。
私の行動は全て彼の部下に伝え、彼が私と鉢合わせたり、私の行動を探らせたりしないように便宜を図ってもらった。
私はまず会社に退職のことを言いに行った。
話が広まるとまずいので、まずは普通に仕事をして部長にだけ勤務後に話したいことがあると言って呼びつけた。
部長は私の剣幕に押されたのか、それとも元々気が利く人だったのかは知らないが、同じ部署の人を全て帰らせて誰もいない会議室で話を聞いてくれた。
そこで私はどうしても事情があって、二週間も待てないし勿論引継ぎだって出来ないと矢継ぎ早に伝えた。
無茶苦茶なお願いなのは重々承知なので、夜逃げを匂わせるようなことを言って、反社会的勢力に消される……という感じで説明した。
「つまり、あの方との繋がりが切れたんだな」
部長は驚かないばかりか、意味ありげな事を言い出すので私の方が驚いた。
「あの方なんて、そんな意味ありげな」
「君はあの方に目をかけられていた。名前は出せないが、君はよく知る相手なんだろう?」
あの方って、多分あの人なんだろうけれど、鎌をかけられている可能性もあるので私は何も言えない。
「君が入社する時にあの方に言われた時は驚いた。無茶な事を言う、と。
その後もまた面倒な事を言ってくるもんでな。
自分との繋がりは一切探るな、能力がないなら辞めさせても良いが、正しく評価してくれなんて事を言ってくる。
……いっそ、贔屓をしてくれと言われる方が楽なのにな」
私は彼の力で捻じ込まれたコネ入社だったが、部長が事情を知っていたんだ。
あの人も人が悪い。
正しく評価してくれ、なんて……。そんな事まで気を使ってくれていた。
どうして、彼との関係を終わらせようとしている、今、彼の良い所を見つけてしまうのだろう。
「あの方の愛人か?」
「違います」
愛人、ではない。正確には……なんて、答える義理は流石にない。
「スケジュールの全てを伝えるように言われていたからてっきり愛人かと思ってたんだが。
それに、君は誰かと交際していただろう?口を割らなかったが、みんな気づいてたぞ」
「え!?なんで!?」
なんで?
「仕事仲間は異性であっても仕事仲間。同僚だったり、上司だったり、部下だったり。
でも、偶に、ふとした時に男を感じたり、女を感じたりするもんだ。
なのに、君は全くそれが無かった。一切の色気がない。
少ないじゃなく、全くないって事は女の魅せ方を知っている奴だ。
知っているからこそ、そういう匂いを巧妙に隠せる。
で、なんでも顔に出るような君がこんな芸当が出来るって事は、相手の男は相当な色男なんだろうな」
全くの初耳だった。
彼の事を隠していたし、男性との接触も回避していたが、でも、魅せ方とか隠すとか考えたことがない。
しかも、そんな事で気づかれてしまうものだなんて。脇が甘かった。いや、恋愛の経験が無さ過ぎたのだろう。
「皆の間でお前は浮気してんだろうなって言ってたな」
「浮気なんてしてませんよ!」
「本当か……?嘘言ってるだろ」
「嘘じゃなくて!本当です!出来そうなタイプに見えますか?」
「それが全然見えないんだよな」
「でしょ?」
部長とは軽口を交わしながら、今後の事と、ほんの少しの思い出話をした。
無我夢中で就職活動して、何度も落ちた私を拾ってくれた会社と、出来が悪いであろう私に付き合い続けたみんな。
知れば知るほど楽しくなる仕事、辛い時は食事が喉を通らぬほど辛くなる仕事。
私は、とても好きだった。私に安心と優しさと社会の繋がりをくれてありがとう。
「みんなには良いように言っておくから。あと手続きもな」
「大変そうなので離職票いらないです」
「こっちは離職証明書を提出する必要があるんだよ!懲戒免職はまずいから、わざわざ自己都合をでっちあげるんだぞ!それに雇用保険の資格喪失手続きも!」
「あ、はい……。私自身はその、そういう事に構っている余裕はないので……」
「よく判らないが、そうなんだろうな。会社としてやる事はやるが、不利になっても何も言うなよ」
「勿論です」
諸々の手続きをやっていては足がつく。
私は全ての権利を放棄し、会社に別れを告げた。
会社の始末が済んだら、今度は家の始末である。
昨日付けで会社を辞めた私は、早朝から何もかも、下着や服でさえも、全部捨てた。
どの服も覚えている。あの人とデートした時の服。あの人と初めて会った時の服。
あの人に連れられてミコシさんのところへ行った時のスーツ。
化粧品は悩んだけれど、やっぱり全部捨てた。
あの人に少しでも綺麗だと思ってもらいたくて、化粧品は新作チェックをかかさなかった。
そうそうこのリップ。
たまたま切らしてしまって、あの人を待たせて買ったものだ。
付き合う前の話だったのだが、何気なく何色がいいか聞いたら、私の趣味よりは薄い桃色を選んだ。
その日からずっとなんとなくその色を使い続け、付き合ってからは彼の為にその色を保ってきた。
だが、もう合わせなくて良いのだ。
今度からはもっと濃い、赤っぽい色を使おう。
メイクもあの人が好みそうだと思ってナチュラルに徹していた。
しかし努力は空しく、お風呂上がりに来ることが多かったせいでほぼスッピンで接する羽目になったのが、思い出してもがっくりとくる。
通勤鞄……。
色々あったなあ。誕生日だからって、あの人が買ってくれたんだ。
最初は超高級な鞄を買ってくれようとして必死に止めたんだよね。
普段使いしたいからOLが「自分へのご褒美」で買える値段にして欲しいってお願いして。
貰ってからはずっとそれを使ってた。
これを持って出勤して、あの人がどこか遠くで見てくれているような気がしてた。思い込んでた。
これは本当に気に入ってたんだよね。毎日使ってたから愛着もとてもある。
だからこそ、捨てなきゃ。
あの人にとっても、思い出深い品だと思う。なんてったって誕生日の贈り物だから。
もしあの人に見つかっても良いように、ゴミ袋の外側から見えるようにしておこう。
こんなことされたら流石のあの人も心折れるでしょ。私なら根元から折れる。
食器……は平皿ばかりであまり使わなかったんだよね。
彼に料理を振舞う……なんて出来事も無かったし。
彼に対して一番使ったのは湯呑と急須だろう。
彼の為に買ったのだ。私はただの水で十分だったのに。
物に心が宿るとしたら、これにはあの人の気持ちが少しは入っているのだろうか。なんてね。
結局私が淹れたお茶はまずかったのだろうか、普通だったのだろうか。聞けず仕舞いだ。
思い出すと本当に苦しい。苦しくて苦しくて、涙が止まらない。
でも。やるしかない。
陶器製の湯呑と急須を両手に持ち、私は左右からお互いを叩きつけた。
儚げな大きな音と共に、盛大に砕け散った。
いくらか切った手のまま欠片を集め、一袋にまとめた。陶器は埋め立てごみだっけな。
役所のゴミ出しのページを確認するがなかなかスワイプが決まらずスクロールしない。
画面の赤い汚れが邪魔だった。
次は大物家具だ。
初めての給料の次の給料で買った炬燵。
炬燵布団をセールで買ったのを今でも覚えている。
お客さん一号はあの人だったな。
大好きな人がいつも私が使う机の前で、ちょこんと座っているのは非日常的でとても好きだった。
自分の空間にあの人がいると、本来遠い所にいるはずのあの人がぐっと近づいて見えた。
私は盲目だったな。近くになんているはずなかったのに。
あの人と寝たベッドなんてもってのほか。思い出があり過ぎて重い。
そのまま粗大ごみとして持って行ってもらおう。
就寝の為の道具なのに、彼とはここで肌を重ねるばかりだったな。
致した後はすぐに帰るばかりだったので、彼は殆どここで寝ていない。
私は彼がいようがいまいがここで眠り、布団の中でいつも彼を思い出した。
想像上の彼はいつも小さな笑みを浮かべて私を見つめてくれた。
好きだとか愛してるとかは言ってくれない。
でも私の行動一つ一つをちゃんと見てくれていた。
……そう信じないと、どうかしちゃいそうだった。
こんなに一つ一つ思い出せるって事は、私はほんとうに、あの人の事が好きだったんだな。
なんて感慨深い。この部屋だって彼が私を入社させてくれたおかげで借りられたものだし、ここに彼の存在がないものなんて一つもない。
だから、ぜーーんぶ残らず処分した。ゴミ袋に詰めて、ぽいっと捨てた。
あの人の匂いがついた物なんて、私には必要ない。
家の始末が終わったのは夕方だった。
さあ次は、人の始末だ。
「ミコシさん、お別れに来ました」
来て早々、この口上。
彼女は何かを言おうとしていたが、構わず捲したてる。
「あの人の話を有難う。あの人との仲介もしてくれてありがとう。
それから、私の話に付き合ってくれてありがとう。
惚気なんて、私人生で初めてで、とても楽しかったです。
惚気相手があの人の事だから猶更です。
大好きなあの人とここにこれてよかった。
私……。
私、あの人とお別れします。あの人との思い出とも今日限りでさよならします。
あの人を好きな気持ちも、あの人のぬくもりも、あの人から与えられたものも、全部今日でさようならします。
ミコシさん、サトリさん、あなた方も、私にとってはあの人の一部です。
だから、今日でお別れです。
本当に有難う。大好きです。だから、さようなら。明日からは違う場所で違う人生を歩みます。
あなた達の事も忘れて、生きていきます。
ありがとう。さようなら。……ごめんなさい。お二人の事も大好きでした!」
耐えられなかった。最後は泣きながら言って、そのまま急いで走って逃げた。
ミコシさんやサトリさんに優しくされたら、私の決心は揺らいでしまいそうだったから。
お別れの後、部屋に帰ると何もなかった。
彼の部下が全て処分してくれたのだが、仕事がとても早い。手慣れているのが怖いが、今は感謝だ。
私は何もなくなっていた部屋で最後の就寝をした。
早朝に目を覚まし、昨日買ったばかりの安い服に着替えて、玄関に向かった。
振り返って最後、去る前に部屋に向かって言った。
「私の人生にあなたはいらない。さようなら」
マンションの入り口であの人の部下たちに会った。
全てが終了し、私が今すぐここから離れる事を伝え、もしもの時は撹乱して欲しいと伝えた。
「これ、お手数ですが、あの人に渡して下さい」
嫌がるそぶりを見せたが、私は茶封筒を押し付けた。
「いいえ、絶対に渡して下さい。あの人への三行半ですから。これがとどめになるはずです」
私は、その日限りで、
あの人と出会った町も、
あの人のお陰で就職できた会社も、
あの人のお陰で出会えた人も、
全部処分した。
私はすべてを失ったのだ。
すべてと引き換えに、あの人に本来の未来を返した。
一方私は、先の見えないまっさらな未来を手にした。
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