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闇夜の中、二人の衣擦れが静かに響いた。ヌラリヒョンの唇が独神の鎖骨に触れる。衣服の境目へ軽やかな口付け。その温度が肌に残り、独神の心拍が僅かに早くなる。
「あ……」
小さく漏れる吐息ごと、ヌラリヒョンの腕が独神を抱き寄せた。包まれる温もりに身を委ねながら、今度は独神がヌラリヒョンの肩に唇を落とす。乱れた吐息が膨れ上がる要求を伝える。
ヌラリヒョンは独神の頬を包み、唇────ではなく額に唇を寄せた。その仕草は愛おしさに満ちていて、独神は小さく身を震わせながら、自身の着物の襟元に指を滑らせた。
「ヌラリヒョン……」
名前を呼ぶ声が甘く掠れている。独神の手が胸元を意味ありげに撫でると、ヌラリヒョンは僅かに息を呑んだ。ヌラリヒョンの唇が衿の際をそっと下っていく。胸の膨らみに差し掛かるところで、顔を上げた。
「この先は、恋人とするが良い」
その声は水のように優しくありながらも、強い意志を感じさせた。
独神は「こいびと」の四文字を深く考える前に、ヌラリヒョンの肌に薄く滲んだ汗を舐めるように口付けた。塩っぽい味が舌先に広がり、それが今この瞬間を現実のものとして刻み付ける。
◇
「えぇ!? 切り合ってる!? マサカドさんとキイチさんが!?」
朝一、かろうじて着物を着ていた独神は櫛を放り投げ、縁側から草履を爪先に引っかけて訓練場へ向かう。髪を振り乱して駆け出す主の姿に、英傑達も何事かとわらわらと着いてくる。
刀音は訓練場の外にまで響き渡っていた。独神が乱暴に戸を開くと、ヌラリヒョンが剣を片手に二人の間へ割って入っていた。
「また死合をしているの!?」
「いいや」
三人は口を揃えて否定した。それぞれが武器を収め、マサカドとキイチホウゲンは背を向けて訓練場を後にする。
残ったヌラリヒョンは軽く笑っていた。
「何事もなかった。……それで良いな?」
独神は意図をくみ取り何度か頷いた。
「判った。何もなかった」
独神がそう言えば、私闘を繰り広げた二人を罰せずに済む。
「挨拶が遅れたがおはよう。朝の仕度中に騒いですまなかったな」
独神は慌てて頬に貼り付いていた髪を耳にかけた。急な運動による熱気で浮いた髪を全体的に撫でつける。
「……止めてくれてありがとう」
「なあに、双方聞き分けが良かったお陰で手間はかかっておらぬよ」
二人で独神の私室である八尋殿へ行き、独神が鏡に向かう間、ヌラリヒョンはこだわりが感じられる鶯色の座布団に座して待っていた。独神はクセのついた髪を櫛で梳かし簪で一つにまとめる。化粧は薄く、素顔を大きく変えない範囲で整える。
「さっきの二人。元気が有り余ってるから薩摩の討伐にでも行かせようかな。どう思う?」
「噴火で両陣営膠着状態であろう。士気も下がりつつある中での新規投入は刺激にはなるだろう。あの二人ならば戦局を動かし得る」
「それで。あと前言ってた薬師さんまだ来ないの?」
「崖崩れで足止めを食らっている。周辺の村も往生しているそうだ」
「界力低下に伴って地盤がどんどん弱くなってるね。一帯の支援を」
「既に手は打った」
「ありがと」
支度を終えて立ち上がった独神は鏡の前で顔を引き締め、身なりの最終確認を行う。
「おかしくない?」
「乱れ一つない。いつも通りさ」
二人は広間の隅で朝食をとる。まばらに座っていた英傑たちが独神に気づくとわらわらと集まってくる。
「主様おはよー」
「今日も可愛いね」
「なあ聞いてくれよぉ」
独神は一人一人に挨拶をし、投げかけられた雑談にまっすぐ応じる。
その間、お伽番であるヌラリヒョンは静かに食事をしていた。話を振られれば答えるが積極的に話はしない。
なかなか英傑たちとの時間を割けない独神に気を回しているように見える。
「ドクちん!」
広間に駆け込んできたシーサーが大声で呼んだ。
「ドクちんに今すぐ会わせろって。待っててって言っても全然聞いてくれないサー!!」
独神は残りの朝食を全てかき込み、口を拭いながら立ち上がる。
「ごめんちょっと行ってくる! またあとで話そうね。シーサー行こう!」
独神は拝殿へ向かった。部屋の中央で、年若い女が着物をぐっしょりと濡らして座り込んでいた。独神を見るや駆け寄って着物を掴んだ。つんと潮の香りが鼻腔を刺す。
「独神様! お助け下さい!!」
独神は掴まれた着物から染みが広がるのも構わず、女の話に耳を傾けた。
女は悪霊に襲われた村を救うために、遠路はるばる海を越え、嵐を越え、オノゴロ島の結界を越えてここまで来たと言う。自分以外の村人は悪霊に強制労働をさせられているので、自分とともに村へ戻り悪霊を退治してほしいというのが女の願いだ。
独神は小さく頷きながらやわらかな笑みを浮かべた。
「判りました。一緒に助けましょう。長旅にさぞお疲れでしょう。準備の間は町でお休みください。島内は安全ですが念の為英傑に同伴させます」
控えていたミツクニが役を買って出ようと一歩踏み出した、その時だった。
女が懐から刃を抜いた。
独神の喉元へ向かって振り上げられた刃は、ミツクニの腕に阻まれた。
鮮血が飛び散る。
ミツクニによって腕を捻り上げられた女は悲鳴を上げて刃を取り落とした。
「ミツクニ!」
駆け寄ろうとした独神を、ミチザネが肩を掴んで引き留めた。クツツラが素早く女を取り押さえ、シーサーが刃を蹴り飛ばす。
女は床に押さえつけられたまま、震える声で叫んだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい! でも独神様を殺さないと、村が、村の皆が……!」
独神はミチザネの手を振りほどき、女の前に膝をついた。
「顔を上げてください」
穏やかな声だった。
女が恐る恐る顔を上げると、独神は真っ直ぐに目を見て言った。
「あなたの村は絶対に助けます。大丈夫。あとは我々に任せてください」
女の目から大粒の涙が零れた。肩が震え、嗚咽が漏れる。
「ごめん、なさい……ごめんなさい……!」
「ミチザネ、ミツクニの治療を」
「既にしている」
ミツクニの傷口は既に塞がっていた。
「ミツクニ、悪いけどこの方を宿場町まで連れてってくれる? 村の場所も聞いておいて」
「任せな」
ミツクニは手をひらひらとさせて、女を本殿外へ連れて行く。クツツラが濡れた床と血痕を神経質に拭き取る中、ミチザネが鼻を鳴らした。
「今週で三度目だぞ。主殿への謁見はもう限界だ。いい加減俺たちに任せてはどうだ」
「そうはいかないよ。民は独神に助けを求めに来てるのに、私が出なきゃ納得できないでしょ」
「その拘りで英傑が負傷するのはいいのか?」
「……良いわけないよ」
独神は俯いた。
民と顔を見合わせて話を伺うのは、神代八傑しかいなかった時からの習慣だ。
守るべき八百万の民の気持ちを忘れないために。英傑との机上のやり取りだけで世界を知った気にならないために。
だが、ミチザネの言い分も当然だった。
英傑達は皆一様に独神を慕い、独神に何かあれば進んで身を挺する。その善意を自身の拘りで────
「独神様!」
独神の視界が、一気に押し寄せた人影で狭まる。
差し込む朝の柔らかな光が、彼らの顔の険しい皺を浮き彫りにした。急がなければ大きな混乱を招く。
独神はすぐに顔を引き締め、二人目の謁見を開始した。
「悪霊のせいで田畑が荒れてしまいました。豊穣の神にお願いすることはできませんか。これでは全滅です。お願いです。助けてください。独神様しかいないんです。助けて下さい」
「神の力より先に、界力を取り戻さなければなりません。ミチザネ、ちょっとこの方の村を確認して」
ミチザネが確認している間、次の民へ。
着飾った商人風の女は立ったまま、やや上から目線で口を開く。
「独神様。泥棒の件、もう一週間も待ってるんですけど」
女の依頼は盗賊団の討伐。彼らは奪った金品の量を競い、彼女の財もその標的になった。
勝負はネズミコゾウが止め、盗品も回収済み。
だが問題は、取り戻したその財そのものだった。
最初に盗んだのは、依頼者自身かもしれない。
よって今は、金品を正しい持ち主へ返している最中である。
もう少し時間がいる。
「申し訳ありません。現在、より緊急度の高い案件から順に対応させていただいており」
「隣の町はすぐに英傑が来て解決してましたよね」
女は独神の説明を遮った。
「うちの町が軽く見られてるってことですか?」
独神は小さく息を吐いた。
隣町は悪霊の襲撃、こちらは泥棒が泥棒に盗まれただけの些末な事件。緊急度が違うのだが、それを説明すれば「独神は仕事を選り好みするのか」と言われるだろう。
「決してそのようなことはありません。一週間以内には必ず着手致します」
「そう言って、また延びるんじゃないでしょうね」
女はわざとらしく溜息をついて去っていく。
オノゴロ島まで来たからと言って、誰もが善良な民ではない。
裏取りをするまで、盲目的に信じずに対応することが求められる。
「主殿。派遣する英傑は決まったぞ。出発は午後だ」
「ありがとう。じゃあ、シー────」
「儂が行く。声掛けの他に何かあるか」
ひょっこりと現れたのはヌラリヒョンだった。いつも唐突現れるのが常だが、慣れているとはいえ少し驚く。
「え。えっと、ついでに……みんなの様子を見てくれる? 何か気になることがあったら教えて」
「承知した」
ヌラリヒョンに手を振ろうとした時だった。目を血走らせた男が独神を見るなり、大声で怒鳴りつけた。
「お前のせいだ! お前のせいで俺の息子が死んだんだ!」
男は独神に詰め寄る。酒の匂いが漂った。
「もっと早く来てくれれば! なんで俺の村を後回しにしたんだ!」
独神は動かなかった。男の拳が振り上げられるのを、ただ見つめている。
「答えろ! お前が悪霊を野放しにしてるから」
シーサーが男の腕を掴んで制した。同時にクツツラがもう片方の腕を押さえる。
「お前なんかに頼んだのが間違いだった! 救世主気取りの偽物が!」
男は英傑たちに引きずられるように拝殿を出ていく。その怒号は廊下まで響いた。
民たちがざわつく。
先程の場面を見て、顔色を変えるもの変えないもの。
揺るがない意志を持っているもの、まだ信じ切れていないもの、損得勘定を行うものと様々な思惑が渦巻いている。
だが、そんなことはどうでもよいのだ。
独神はただ、一人ひとりと顔を合わせて言葉を交わし、民が望むものを己の良識の範囲内で与えていく。
理解されなくても、罵倒されても、これだけは続けなければならない。
何十人が対応した後、シーサーが独神に声をかけた。
「ねぇ……ドクちん大丈夫? 無理してない?」
「平気。大変なのは民の方だよ。ここまでやってくるくらい困ってるんだもん」
独神は笑顔で答えた。その笑顔に一点の曇りもなく、シーサーは眉根をぐっと下げた。
そして次の民の言葉に、また耳を傾ける。
民の訴えが途切れた隙に、ヌラリヒョンが和菓子店の紙袋を持って現れた。
その足音は相変わらず静かで、気配を消すのが得意な妖怪らしく、独神も気づかないうちに傍に立っていた。紙袋からは甘い香りが漂っている。
「お疲れ様。昼食時だが少しどうだ」
「おかえり。外のみんなはどんな感じ」
「特に何もあらぬよ。少しやんちゃなくらいさ」
思わず独神が噴き出した。しっかり頬を上げて笑っている。屈託のない笑顔に、ヌラリヒョンの表情も和らいだ。
「元気でなにより。あ、美味しそうな大福。一つ頂くね」
独神が手を伸ばした、その時だった。
「主! 西海岸の方で結界を破ろうとしている黒船が見えるって!」
拝殿に駆け込んできたのはイダテンである。緊迫した表情を浮かべている。
独神は伸ばした手をさっと引っ込めた。甘い香りの大福は遠ざかっていく。
「すぐ行く! ごめん、ちょっと行ってくる」
「待て。儂も行く」
「いい。それより私の代役よろしくね」
独神はお伽番に全てを任せて駆け出した。イダテンには海で戦える者たちの招集を頼む。
結界の要石に行くと、西方を守護するビャッコがいた。
「先生! 待っていたぞ」
「遅くなってごめんね。壊れたってどういうこと?」
海を見ると黒い船が結界の境界線よりも手前にいた。結界の効力が完全に消えたわけではないのか、それ以上は近づけない様子。
独神はすぐさまオノゴロ島の界力を結界へと注ぎ込んでいく。普段は本殿内の施設の活動燃料として使っている分を防衛に回すのだ。
術に集中する独神の額に、薄っすらと汗が浮かぶ。界力の大量消費は体力を削る作業だった。
結界が強固されると黒船が少しずつ押しやられていく。暫くすると沖へと撤退した。
「どうやら諦めたようじゃ。おつかれさま。先生」
「早く教えてくれたお陰で対処できたよ。でもどうして結界が弱まったんだろう。心当たりはある?」
「……うーむ。昨晩は問題なかった。朝、例えば島に来た者で不審な者はおらなんだか?」
独神はどきりとした。朝、一番最初に会った民のことを思い出したのだ。
オノゴロ島は独神の本拠地である。八百万界の民ですら気軽に入れる島ではない。上陸するには正しい上陸方法を知る必要がある。
通常は島の近くまで来た来訪者を英傑たちが舟で迎えに行き、町や本殿へ連れて行く。
あの女は濡れていた。快晴である今日の海ならば、暴れでもしなければ濡れることはないはず。
「いた。私を殺そうとしてきた人が。あ、勿論未遂で終わってるよ」
急いで付け足しておく。でなければ心配されてしまう。
「……先生。今気付いたのだが」
ビャッコが言いかけた時、獣の耳がぴくりと動いた。背後へ扇を構えると、木々の間からキリンの姿が現れる。
「主君。お伽番からの言伝で参りました」
「なに?」
「悪霊の目的は、独神を結界修復へ向かわせ、手薄になった所から島へ上陸することです。よって、東と南の海域に英傑を配置しました。案の定、悪霊の本隊が現れましたが、既に撃退済みです」
独神は目を丸くした。
「今丁度、私を誘導したかっただけじゃないかって気付いたところだったの……」
「ミツクニさんが民より聞き出して、本当の目的を知ったそうです。報告を受けたヌラリヒョンがあとは」
独神は小さく息を吐いた。
またヌラリヒョンに先回りされてしまった。いつものことだが、自分の未熟さを痛感する瞬間でもある。身体が先に動いてしまう自分を補佐してくれる優秀なお伽番。その配慮に感謝しながらも、主として至らない申し訳なさを抱かせる存在。
ビャッコに引き続き西の守護を頼み、独神は本殿へと帰った。
もう昼は大きく過ぎていて、午後の謁見開始時間が過ぎている。
拝殿へ向かおうとすると、キリンが腕を掴んだ。笑顔だが有無を言わさない圧がある。
「実は私、ウカノミタマからも言伝を預かっているのです」
「っ。……はいはい。ちゃんと行きます」
ウカノミタマとくれば、言いたいことは一つだ。
広間に顔を出すと、ウカノミタマが「主さまおかえり~、ちょっと待ってて! ちょっとだけだから! ちょっとなの!」と言いながら、温かな昼食をささっと目の前に置いていく。
一汁三菜の手の込んだ献立だ。
「わざわざ残してくれてたの?」
独神が申し訳なさそうに言うと、ウカノミタマは慌てたように首を振った。
「主さまは頑張ってるんだからこれくらいさせてよ~!! 本当はもっともっと作りたいんだから!」
「いつもありがとう。いただきます」
独神は箸を取る。汁の湯気が頬にかかり、ようやく人心地ついた気分になる。
広間を見渡すと、食事をしている英傑はいなかった。
台所からはウカノミタマが「わたしは見回りがあるから後はよろしくね」と、サラカゾエに引き継いでいる。
みんな午後の役割を果たしている。
その中で、独神だけがちまちまと魚を突く。柔らかな煮魚は上品で食べやすい。
そういえば、ヌラリヒョンに茶菓子を貰ったが食べ損ねてしまった。
あれは独神の為に買ってきたのだろう。悪いことをした。
礼を言って、謝って、ミツクニにも声をかけて朝の件を謝って今任せきりにしている民の対応も独神である自分がいかなければならないやることは山積みだそういえば花廊も最近は足が遠のいているから生長具合をみにいかないと錬金のほうはどうだろうか火の神であり鍛冶に精通するカグツチに頼んでいても未だに安定しないが一度顔を出して進捗をおいた方が良いだろうそうだ最近八尋殿の周囲に花が植えられていた多分トラクマドウジが彩ってくれたのだろうそれも声をかけておきたい他にも色々ある気がするなにか忘れてないか沢山ある気がする多分あるなにかある多分きっとやるべきことがまだまだ残っているはず多分きっとある少しでも動いて一つずつでも積み上げていかないと────
気づけば早食いを始めていた。
と、そこへイザナミが疫病の報告に訪れた。話している最中にヌラリヒョンが現れ、三人で対処を協議する。イザナミが去ると、独神は頭を下げた。
「さっきはごめんね。せっかく用意してくれたのに食べられなくて」
「そんなこと気にするでないよ」
ヌラリヒョンはそう言って、懐から小さな包みを取り出した。
「さっきのものは儂が食べてしまったが、まだ他にもある。休憩がてら一つ食べるといい」
「ありがとう」
独神は包みを開けて先ほどとは違う小ぶりの大福を口に入れた。
柔らかな生地と上品な甘さが、疲れた身体に染み渡っていく。
「術を使った後の甘味は染みるなぁ……」
「まだまだあるぞ」
ヌラリヒョンが続けて差し出そうとするのを、独神は手で制した。
「折角だけどやめとく。これ以上休んでる場合じゃないから。ミツクニにも謝らないと。聞き出してくれなきゃ危なかった」
「まだ帰っておらぬよ。怪我のことも心配無用。どうしてもと言うならば夜まで帰りを待つと良い」
そもそも、ヌラリヒョンはいつミツクニと接触したのだろう。
独神より早く情報を耳にし、行動に移した。
お陰で救われたが、どこか釈然としないのが本音だ。
まだ主の器ではないと思われているのだろう。少し悔しい。
「顔色が良くない。結界の修復が負担だったのだろう」
独神のことをよく見てくれているのも、素直に喜べない。
いつまで経っても敵わない存在。
対抗するわけではないが、少しでも自分が役目を果たしていることを伝えたくなった。
「今の結界じゃ今後は通用しないと思う改良しないと。そのことも誰かに相談して、一緒に構造を考えたい」
「術師連中は出払っているだろう。帰りを待ってからだな」
「人手、足りないよね。もっと一血卍傑をして英傑を増やそう。今からでも」
「慌てるでないよ。一血卍傑が必要な時は英傑の五割が同意してから行う、と定めたであろう。承認がなければ最高権力者の其方でもならぬ」
事務的な口調だった。
ヌラリヒョンの言うことは正しい。独神は完全に空回りだ。
独神は小さく息を吐いた。
「……そうだったね」
「そう言えばアスガルズの祭りを再現したいとオーディンが言っておった。其方の手を借りたいと」
話題が大きく変えられる。独神はその気遣いにのった。
「アスガルズの? へえ、どんな祭りだろう」
「儂らで言う夏至祭だな。向こうではみっどさまぁと言うらしい。花冠を作って――」
ヌラリヒョンが説明を続けようとした時、障子が勢いよく開いた。
「主様! 怪我人が沢山いるの! 手伝って!」
「主。こちらのことは全て任せよ。其方は帰還した者を十分に労わってやれ」
「お願い。何かあれば私の名を出して」
「ああ。借りるぞ」
ヌラリヒョンに任せて、独神は怪我人たちのところへ向かった。
傷が深いものも多く、血の匂いが霊廟に立ち込めている。独神は怪我人の一人一人に声をかけて、おつかれさまと労いの言葉をかけながら、彼らの傍にしっかりと寄り添った。
「主を独り占めにできるのは嬉しいんだけどさ、主もやることがあるんだろ? 気にせず行きな」
傷ついた英傑達は、寄り添う独神に気遣いの声をかける。
独神は首を振って、ちゃんと傍にいた。
「私が邪魔だっていうなら行くけど、どうする?」
「……邪魔なわけねぇだろ」
そうやって治療だ報告だのと忙しくしているうちに夜になっていた。
少し落ち着いてきた頃にヌラリヒョンがやってきた。
「主。そっちはどうだ」
「うん。戦況はカラステングに伝えた。ユキムラさんにもすぐ届くよ。あと薬がもっと必要になりそうだから頼んでおいた」
「其方ら、もう主を連れて行って良いか。政務について報告がある」
英傑達は了承した。むしろ、独神が仕事をし過ぎるから、連れて行ってくれと冗談を言う。
「主もしっかり休めよ。俺たちも暫くは食って寝るだけのダラダラ過ごさせてもらうからさ」
独神もそれを判って「好きなだけ休んでちょうだい」と微笑んで答えた。
「それで、私がいない間どうだった」
「それを答える前にまずは食事と風呂を済ませるが良い。儂は先に食べさせてもらったぞ」
独神は言われた通りに食事や風呂を済ませた。温かい湯に浸かると、少しだけ気分がすっきりしてくる。
身体の芯まで温まると、積み上がった疲労が浮き上がってくる感覚がある。
食事は白米と味噌汁。それ以上は胃が受け付けそうになかった。
甘みを感じない白米を、しっかり出汁を取った汁で流していく。野菜はどれも柔らかく舌で崩れてくれるのであまり噛まなくても良かった。
すぐに食べ終え、両手を合わせる。
「ごちそうさま」
小声で呟く。
空になった皿を見ていると、少しだけほっとした。
これでヌラリヒョンに言われていたことは終わった。
八尋殿へ戻ると、ヌラリヒョンが部屋の前に立っていた。
「お疲れ様。済ませたようだな」
「終わったよ。今日も色々ありがと、助かったよ」
「其方の頑張りには敵わぬさ」
ヌラリヒョンの返答は相変わらず謙虚だった。
「さて風呂も静かになった頃だ。儂は行ってくるぞ」
独神は目を見開いた。廊下を歩いて行く背中を見送る。
先に風呂へ行ってくれていれば、すぐに報告が聞けたのに。
仕方ない。部屋に入って座布団に足を投げ出して座ると、しばらくして襖が静かに開く音がした。
「報告だ、主」
忍のハットリハンゾウだ。機密性の高い情報は、いつも忍から直接聞いている。
この時だけはヌラリヒョンも同席しない。人の気配があると忍たちは口を開かないからだ。
ハンゾウの報告は、独神の息を止めた。
とある宝物庫が悪霊の生産工場と化していたという。本来最も神聖であるべき場所が、汚染されていたのだ。
「まさか盲点だったよね……」
力なく笑う独神。
「あなたにも言われたのにね。なのに別の場所に人員を多く導入させて……」
自分の判断に怒りが湧いてくる。
「主。反省は後だ」
ハンゾウが短く諫めると独神が頷く。
「町民への謝罪……じゃなくて、情報統制が必要。宝物庫の件が漏れれば民の信仰を揺るがす。信仰心の弱まりが一帯の神を弱体化させることに繋がるから、それは絶対に阻止」
「情報の攪乱は任せておけ。だが既に知った者、行き着く者も零ではない。どうする」
「行き着いたのなら、私へ繋いでしまうのが良いでしょうね。変に隠して私たちへの不信感を高める方が良くない」
「承知した。あとは任せておけ」
去ろうとするハンゾウが、ふっと振りかえった。
「なにか他にもあるの?」
「いや」
飼い猫と同じ色の瞳にじっと見つめられると、意味もなく恥ずかしくなってくる。
「え。なに。言いたいことならちゃんと言ってよ」
「……今回の件、落ち度はこちらにある」
それだけ言って去っていく。多分自分を責めるなと言っているのだろう。
(そうはいっても、はいそうでしたとは思えないよ)
現場をよく知るハンゾウに任せていれば良かったのだ。
素人判断で乱してしまった結果がこれだ。
宝物庫へ入れるのは巫女だけ。でなければ災いが来ると、と散々言われて独神は臆したのだ。
その手の話で本当の禁忌は八百万界に数多くあるが故に。
今回の宝物庫はたまたま該当しなかったが、今更だ。
「そろそろ終わったか」
ヌラリヒョンが襖の隙間から顔を出した。湯上がりの彼からは仄かに湯気が立ち上っている。
「大丈夫。報告は終わり。それで、あなたからの報告は?」
「儂からの報告はだな」
どきっとした。今度こそ重要な話かと身構える。
「山車を戦わせる祭りがしたい。と言われたな」
「……え。戦うの? 山車で」
「勝った集落に賞品か、加護か、まあ判らんが何かしようと考えているそうだ。そうすることで地域との繋がりが強固になり、結束も深まるだろうとな」
楽しそうではある。英傑たちが暴れなければ良いが。
「やりたいなら良いんじゃない。オーディンが言ってたお祭りと日程はずらして。……他は?」
「本殿にいた白猫。あれが子を産んだから猫小屋を作ってやったそうだ」
「そう。うん。良いんじゃないかな。……それで他は?」
「新作の浮世絵を見て欲しいそうだ。明日にでも見てくれ」
「ねえ、他にもあるんじゃないの? さっきから重要じゃないことばかり言ってるよね? わざとでしょ?」
ヌラリヒョンがふふふと笑う。その笑顔の奥に、隠している何かがあることは明らかだった。
「いいや。儂はあるがままを報告しているにすぎぬ」
「だって絶対何かあったでしょ。ねえ。隠さないで。知らなくて困るの判ってるでしょ?」
「未解決ならばそうだが、既に終わったのことならばもう構わぬだろう?」
独神が出ずとも全部終わらせてしまったのだ。元々独神より要領の良い総大将。
いつもそうだ。問題が起きる前に、独神が気づく前に、全て片付けてしまう。
「一つ言うならば、アカヒゲが其方にもっと食事をとってもらいたいと言っておったぞ。心当たりはあるな?」
自覚はある。気持ちが入らなくて最近は食が進まない。
だからヌラリヒョンは積極的に差し入れをくれるのだろう。独神が少しでも食べてくれるならと。
「判った。気を付けるよ」
立ち上がった独神に、ヌラリヒョンが声をかける。
「どこへいく」
「浮世絵見ておこうと思って」
「そんなもの明日で良い。其方はもう休め」
「見るだけだから大丈夫だって」
行こうとする独神の前に、ヌラリヒョンが立ちはだかった。
「……心配しないで。今日は早く寝るつもりなんだから」
ヌラリヒョンは表情を変えず、じっと独神を見つめている。
動く気配がない。独神は諦めた。
「判った。寝ればいいんでしょ」
ヌラリヒョンは押し入れを開いて、蒲団を敷き始めた。
なにがなんでも独神の就寝を確認するつもりだろう。
独神はひんやりとした蒲団に入り、目だけお伽番に向けた。
「じゃ、おやすみ」
「おやすみ」
ヌラリヒョンが部屋を出て行く。
暫く天井の木目を目でなぞり、頃合いを見て独神は起き上がった。
やらなければならないことが頭の中を駆け巡る。浮世絵の確認、明日の予定の整理、英傑たちへの報告書……。仕事は尽きない。
部屋を出ると、お見通しだとばかりにヌラリヒョンが立っていた。
困ったような、それでいて優しい表情で独神を見つめている。
声を上げる前に、両手が伸びてきて、独神の身体に触れた。
「っや」
驚きの声が漏れる。身を固くした独神の身体をヌラリヒョンの腕ががっしりと抱きしめた。
ほのかに入浴剤の香りがする。
「放して」
「……」
「やらなきゃ」
「……」
「邪魔しないで」
押し返そうとするが力が入らない。英傑が相手というのもあるが、朝から晩まで働き続け、大量の界力を操った身体は限界を迎えていたのだろう。
だがここで言いなりになる訳にはいかない。
独神であるならば、多少の疲労で止まってはいけない。止まることを独神自身が許せなかった。
だからなんとしてもヌラリヒョンの拘束から抜け出さなければ。
「お願い、放して……」
気持ちとは裏腹に声は段々弱々しく情けないものになっていく。
抵抗する力も徐々に抜け、ヌラリヒョンの胸に顔を埋めたまま次第に手がずるりと落ちていった。
「……息を大きく吸って。それからゆっくりと吐く」
耳元で囁かれる声は、普段よりもずっと柔らかく、まるで子供をあやすような調子だった。
一瞬嫌悪が浮かんだが、寝着を越えて伝わる命の温度に溶けていった。
吸って。
吐く。
吸って。
吐く。
繰り返すうちに、拍動が正常に戻っていった。緊張もほどけていく。
「うむ。上手にできたな」
ヌラリヒョンの大きな手が、独神の頭を優しく撫でる。
その手の気持ち良さに、春の温かな縁側で昼寝をした事を思い出す。
広すぎる本殿を持て余していた昔。
悪霊を倒すという目的はあったが、何から始めていいのか判らなかった。
施設の使い方も判らず、花廊にとりあえず野菜の種を撒いて、どうなるかと観察したりした。錬金堂は何回も爆発させた。霊廟は意味もなく誰がどの部屋を使うか揉めて、八傑達が二手に分かれて戦ったことも。
世界の危機の中、なにをふざけたことをしているのかと批判されるだろうが、正直あの時は楽しかった。
愚かだったのだ。
人々の苦しみや悲しみを知らず、目の前の楽しいことに引っ張られていた。
今は違う。
日々積み上がる仕事をこなすことに苦心している。主としての能力は低いかもしれないが、やる気だけはあるつもりだ。
今日も本当ならこっそり拝殿に行って、いくつか仕事を済ませるつもりだったのに。
なのに、さっきから触れてくるこの手は、独神からやる気をごっそりと奪っていく。
ぽっかりと空いた穴に、温もりをそっと置いて。
「さあ、戻ろうか」
導かれるまま独神は蒲団の上に座った。
溢れんばかりの焦燥感が薄れ、頭がぼんやりとする。
「焦ったとて状況に大きな変化はない。最も重要なのは、人々の希望である其方が元気であることだ」
その言葉は優しく、責めるような調子は一切ない。
そうさせてしまった自分に大きな溜息をついた。
「……最近の私、目の前のことが見えてない、よね……」
自分でも理解しているのだ。しかし止めることができない。
悪霊討伐は根本的解決には至っていない。一血卍傑に必要な御統珠の取得も昨年を下回り、今年は秘儀の使い手としての成果を出せていない。代わりに少しでも結果を出そうと仕事に向き合っているが、思うようにはいかない。悪霊の規模から考えて、これが短期決戦ではなく長期にわたる戦いになることは想像できるのに、気持ちばかりが焦燥している。英傑達の精神的支柱であらねばと思うほどに脆い自分を見つけてしまう。
「儂は今から当たり前のことを言うぞ」
「うん」
「休息は立派な仕事だ。他人のことばかり考えているが、其方自身はどうだ。其方が一人になれた日が一ヵ月に何度ある? 一度も無かろう」
図星だった。働かなかった日がない。一人でいた記憶もない。
「でもみんなが」
「其方の周囲にいるのは、其方が犠牲になることが心苦しいと思う連中だ」
「……そう言われても、休むって落ち着かないんだよね」
はははと乾いた笑いを浮かべると、再び抱きしめられた。
今度は座ったままで、ヌラリヒョンの胸に頭を預ける形になる。背中をとんとんと軽く叩かれる。まるで子供をあやすように。
「私、主だよ?」
そう言いながらも、その温かさは心地よかった。
ヌラリヒョンが差し出した優しさを、今は素直に受け入れることしか出来ない。拒否する気力がなかったし、それに、与えられる安らぎが手放しがたくて。
「……今日も色々とありがとう。私の手を煩わせないように四方八方に手を回してくれたんだよね」
黙っているヌラリヒョン。何も教える気は無いようだ。だが独神は判っていた。
今日一日、いや、今日だけではない、毎日どれほど助けてくれているか。
「ヌラリヒョンにお伽番を任せて良かった。ありがとう」
何も言わないまま、ただ、頭を撫でる手がより優しくなった。
「……今日、くれようとしてた大福、あれ、食べてみたいな」
ヌラリヒョンがそっと独神を放した。
「明日買って来よう。今日は大福だけだったが、おすすめは他にもある」
ぱっと明るい笑顔で言うので、独神もつられて笑った。
「本当に和菓子好きだよね」
おかしそうに笑った独神の顔に、ほんの少しの痛みが走る。毎日笑顔を浮かべているはずなのに、まるで久しぶりに表情筋を使ったかのような違和感があった。
そんな独神の様子を、ヌラリヒョンは静かに見つめていた。柔らかな笑顔を浮かべながら、どこか安堵したような表情で。
今日は、背筋を伸ばした独神でなくても、許される気がした。
「…………迷惑ついでに、もう一回してもらってもいいかなあ?」
間延びした声で呟くと、ヌラリヒョンは黙って抱きしめ、頭を撫でてくれる。
主として恥ずかしいことを求めているのに、馬鹿にするでもなく、ただ静かに受け入れてくれる。
独神は開き直り始めていた。
どうせヌラリヒョンは独神の至らなさを全て知っている。毎日先回りして手を回してくれるのも、誰よりも独神が不完全な主だと理解しているからだ。今更取り繕っても仕方がない。そう悟った時、なぜか心が軽くなった。
「ありがとう。もういいよ。このまま寝れそうだから」
ヌラリヒョンは黙って独神を放し、蒲団に入れてくれる。わざわざ布団をそっと肩まで掛け直してくれて。
行燈が消えて真っ暗になると、ヌラリヒョンの声が闇の中から優しく響いた。
「おやすみ、主」
ひさしぶりにヌラリヒョンのことを書いた。
今回は、年上ヌラリヒョン×年下独神 というのを意識して書く予定。
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