ある本殿の一日

午後 肆



 日中の喧騒が落ち着き、西に傾いた太陽が本殿の庭を赤く染める時間。任務から戻った英傑たちが、それぞれの方法でこの静かな時間を楽しんでいた。
 髪をまとめた独神はバタバタと庭に置かれた石灯籠に灯りをともす準備をしていた。日が落ちるとすぐに暗くなる季節で、早めに灯りをともしておくのが独神の日課だった。しかし今日は一度軽く風呂に入ったので遅くなってしまったのだ。

「はぁ……面倒くさいんだけど」

 背後から聞こえてきた投げやりな声に振り返ると、ロキが退屈そうな表情で立っていた。
 ロキの瞳が夕日に照らされて、いつも以上に鮮やかに見える。

「おかえり。今任務から戻ったの?」
「ああ、つまんねぇ任務だったぜ。全然楽しめなかった」

 そう言いながら、ロキはいきなり後ろから独神を抱きしめた。

「え!? ちょっと、何?」
「トーホクなんて行かせるゴシュジンへの罰だ。向こうは寒かったんだからな」

 ロキの体温が背中に伝わってくる。確かに春先なので少し肌寒かっただろうが、これは単なる口実だということは明らかだった。

「まあ……うん。えっと、ごめん」
「許さねぇ。おれに遊ばれてろ」

 楽しそうにロキが言った。
 アスガルズ界の英傑であるロキは、他の英傑とあまり仲が良くない。
 他人を玩具と思っている節があり、自分が「面白い」と思うこと以外には興味を示さないからだ。
 それなのに、なぜか独神の側にはよく現れる。

「ゴシュジンは毎日こんなことやってんのか?」

 ロキは独神の肩越しに、手に持っていた灯りの道具を指さした。温かい吐息が耳に当たって思わずぞくりとする。

「うん、日課だから」
「へぇ、ハウスキーパーみたいだな。主のくせに」

 耳元で囁くような声に、独神の顔が熱くなる。くすぐったさに耐えながら答える。

「灯りで周りが照らされたら綺麗でしょ? それに火があるとみんな安心できるだろうから。それで毎日やってるの」

「いや。そうじゃねぇって…………。嫌味が通じねぇのは馬鹿だからか?」

 ぼそっと零す悪口には困惑が見て取れる。悪神と呼ばれているらしいが、意外と感性が普通なので接しやすいと独神は思っていた。

「……なあ、手伝ってやろうか?」

 予想外の申し出に、独神は驚いて「え」と声を漏らした。

「今日は機嫌がいいから相手してやるよってだけ。それとも……もっと違う相手の仕方がいいか?」

 意味ありげに笑うロキに、独神は思わず顔を背けた。

「いいから! 灯りつけるの手伝ってよ!」
「はいはい」

 ロキは独神の手を取り、一緒に庭へ降りた。手を繋いだまま離そうとしない。
 石灯籠の前で火打石を構えた独神の後ろに回り込み、そのまま独神を包み込むように両腕を伸ばしてきた。

「え? ロ、ロキ?」
「手伝うって言ったろ?」

 そう言いながら、ロキは独神の両手を自分の手で包み込み、火打石を握る手をゆっくりと動かし始めた。
 ロキの胸が背中に密着し、吐息が耳を撫でる。心臓の鼓動がお互いの体を通して共鳴するようで、火打石をうまく扱えなくなる。

「力入れすぎだって、ゴシュジン。もっと、こう……」

 ロキの声が耳元で震え、独神の指を一本ずつ丁寧に調整していく。本当に火をつけたいのか、それとも独神をからかいたいのか、ロキの指の動きはどこか意図的にゆっくりで。
 両手ともロキの手に包まれ、まるで人形のように操られているのに嫌な感じはしない。

「ロキってば、こんなの……やりにくいよ!」

 抗議の言葉とは裏腹に、この距離感が心地よいことに独神自身驚いていた。

「ゴシュジンが下手くそだからレッスンしてやってんだよ。感謝しろよ?」

 くすりと耳元で笑う声に、心臓が早鐘を打つ。ロキの唇と独神の耳の距離があまりに近く、一瞬目を閉じてしまう。

「ありがと、ロキ。……一応お礼」

 と素直に言うと、ロキはどこか満足そうにした。
 いつもの三倍の時間をかけて灯りをともされた。げっそりする独神とは逆にロキは元気だ。
 夕暮れの赤い光が徐々に薄れ、代わりに石灯籠の温かな明かりが庭を照らし始める。
 作業を終えて縁側に腰を下ろすと、庭からは虫の音色が聞こえてきた。ロキは再び抱きつこうとしてきたが、独神は猫のように威嚇した。

「馬鹿みてぇ!」

 笑っているロキの背を独神は一回叩いた。

「パワハラ」

 意味の判らないことを言われたが独神は無視した。
 本殿の他の場所からは、英傑たちの談笑や動き回る音が遠くに響いているが、この場所だけは不思議と静寂に包まれている。

「ねえ、アスガルズ界にもこんな時間ってあるの?」

 ロキは空を見上げながら、珍しくポツポツ故郷の話をし始めた。

「おれの世界でも太陽が落ちる時間は特別だったな。他のヤツらが忙しく動き回ってる時に、おれだけはこうやってのんびり眺めてるのって最高だろ」

 笑っているが、その笑顔には儚さが混じっている。故郷を思い出す目が、どこか透明で脆いものに見えた。

「こんなおれだけど、純粋に景色が綺麗だって思うことはあるんだぜ?」

 ロキの言葉に、夕暮れの空を見上げる。赤と紫が混ざり合う美しい景色が、本殿の庭全体を幻想的に彩っていた。ロキの横顔には、普段は決して見せない優しさと哀しみが交錯しているようで独神は言葉をかける勇気が出ない。

「……ま、今は悪霊で無茶苦茶だけどな。おもしーれーの」

 強がりの言葉の下に、故郷への複雑な想いが隠されているのを感じた。

「ロキ……」

 独神が何か言おうとした瞬間、ロキは急に身を乗り出し、独神の前髪をそっと撫でた。

「だからさ、ここの景色が無事に済むように戦ってもいいかなって」

 夜にほど近い紺色の光に照らされたロキの表情は、いつになく真剣だった。

「ゴシュジンがいれば、飽きねぇしな」

 ロキの指が独神の頬をそっと撫でる。

「ちっ、なんだこの顔は。勘違いすんなよ。おれは単に退屈しないところに居たいだけなんだからな」

 ロキは急に立ち上がった。言葉は突き放すのに、指先は名残惜しそうに独神の頬から離れていく。目は合わせないくせに、視線の端で独神の反応を窺っている。

「これ以上いると他のヤツらに変な目で見られるから消えてやるよ。おれは勘違いされて構わないけどな」
「それは私も構わないけど」

 ロキは「へえ」と言いながらも口元がひくついていた。

「ご。ゴシュジンは明日も、この時間はここにいるのか?」
「うん、日課だから」
「ふーん。じゃあまた来てやるかもな。ま、つまんないから忘れるかもだけど」

 そう言って去っていくロキの背中が、庭の灯りに照らされて長い影を引いていた。
 ロキが「忘れる」と言いながらも、また来てくれることを独神は知っていた。
 夕暮れ時の縁側は、それぞれの英傑が自分の時間を見つける場所。この静かな時間に、邪神さえも素直になるのだと知った。

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