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午後 参
夕立は突然だった。
独神は空を見上げ、雨粒が顔に落ちるのを感じた。雲が重いから傘を持っていくようにと英傑たちに散々言われていたが、あとであとでと後回しにし続け、とうとう持っていかずじまい。そして今、その結果を濡れた肌で受け止めていた。
困った表情とは裏腹に、独神の心はどこか浮き立っていた。雨のせいで帰れない理由ができた。
わくわくしていた。
「仕方ないよね」
独神はそう呟き、近くの茶屋に駆け込んだ。店内は静かで客はまばらだった。隅の席に座り、湯飲みを手に取る。温かい茶の香りが立ち込める中、雨音だけが時を知らせていた。
カラカラと戸が開き、雨の音が一瞬大きくなった。自分と同じ雨宿り客だろうと思って顔を上げると、見知った風貌に独神は思わず「あ」と声を漏らした。
「……」
独神は知らん顔して茶を啜った。その気配は迷うことなく、独神の前まで真っ直ぐに歩み寄ると、どかりと席に座った。
「一人は十分楽しめたか」
低く落ち着いた声。ハットリハンゾウだった。いつもなら巨大な猫を連れているのに、今日は姿が見えない。独神は目線を斜めに落とした。
「……十分なんてこれっぽっちも思ってないけど」
少し毒を含ませた言葉を返したがハンゾウは動じなかった。
「滞った仕事を誰が処理していると思っている。奴等も貴様の仕事ぶりには辟易しているだろう」
「それはハンゾウの意見でしょ」
静かな攻防。雨は一向に止む気配がなかった。
茶屋の窓から見える雨脚を眺めながら独神が呟いた。
「あなたが私を探しに来るなんてね。意外」
ハンゾウは独神が嫌いだ。
他人に対して甘いところが嫌いらしい。接し方を変える気のない独神もハンゾウのことは苦手だった。口煩いところも辟易している。
「別に。探しに来たのではない。たまたま通りかかっただけだ」
その言葉とは裏腹に、ハンゾウの足元から小さな水溜りができていた。雨の中を歩き回ったのだろう。
「……濡れているな」
言った次の瞬間には独神の背後に立っていた。忍の動きは予測できない。
「なっ。私? いや、こんなの大したことないよ」
適当に言うと、ハンゾウの眉間には深い皺が寄った。
「出るぞ」
「待って、お勘定」
ハンゾウは多めの界貨を机に置いて独神を外へ引っ張り出した。
雨は依然として強く降り続けている。ハンゾウは傘を広げ、独神をその下に引き寄せた。
「こっちだ」
小声で言うと、人気のない裏路地へと進み始めた。話しかけたかったが、ハンゾウの険しい表情に言葉を飲み込んだ。
路地を抜けると古びた裏長屋の一角に着いた。ハンゾウは周囲を素早く確認すると、扉を開けて独神を中へと押し込んだ。
「ここは?」
「俺が巡回の際に使う隠れ家だ。誰も来ない」
部屋は小さいが清潔に保たれていた。窓は雨戸で閉ざされ、外の音だけが響いている。光が殆ど差さない部屋で二人の表情に影が落ちる。
ハンゾウは突然、両手で独神の肩をつかみ、壁際に押しやった。二人の間は数寸しかない。
「貴様は……っ」
怒った声色に独神は少し怯えた。ハンゾウがこれほど感情を表すことは珍しい。暗い部屋の中でハンゾウの輪郭すら定かでないのに、その怒りだけは明確に伝わってきた。
「そんなに怒ってたのは……ごめん」
「怒りなど忍にはあり得ん」
明らかに怒っている。独神は何をされるのかと恐怖にどきどきした。いつ殴られてもおかしくない雰囲気だ。
「はぁ……貴様に振り回される自分が悔しい」
肩をすくめるハンゾウに、独神は目を丸くした。
「全く。こんな姿で人前を歩くなんて……物事の分別がないのか」
その言葉に独神は思わず自分の濡れた着物に触れた。雨に打たれた布地が身体に張り付いている感触。暗闇の中では見えないが、茶屋の明かりの中では不特定の視線に晒されただろう。突然ハンゾウが独神を引っ張って、暗い部屋に押し込めた理由が理解できた。
「もしかして、心配してくれてた?」
ハンゾウは答えず、独神から離れた。
「待っていろ。すぐ戻る」
ハンゾウは少し離れ、部屋を漁る音が聞こえた。衣擦れの音が僅かに耳に入る。
しばらくして、ハンゾウは戻ってきた。
「着替えておけ」
そう言うと、気配が消えた。扉の音と共にハンゾウの背中が現れ、扉によって消え去った。席を外してくれたのだろう。
独神は速やかに濡れた衣服を脱ぎ、手拭いで身体を拭きとってから乾いた着物に袖を通した。
「……できたよ」
再び扉が開くと、外のほんのりとした灯りに照らされたハンゾウが見えた。扉が閉まるとまた見えなくなる。
足音が近づくと、囁くような声が耳を撫でた。
「まだ濡れている」
袖を軽く引かれた。
「座れ」
誘導に従って座ると、小さな座布団の感触を尻で感じた。ハンゾウは背後に立ち、静かに髪を拭き始めた。慣れた英傑ならまだしも、ハンゾウにされるのは気恥ずかしかった。
「自分でできるって」
「黙っていろ」
ハンゾウの指が独神の髪に触れ、丁寧に水滴を拭い取っていく。その動きは驚くほど優しく、まるで大切な何かを扱うかのようだった。
「髪が長い」
ハンゾウが小さく呟いた。
「大体でいいよ」
と独神は言ったが、変わらぬ手つきで水気を拭っていた。嫌っている相手にどうして献身的にできるのか。独神は一つの答えに達して一人で感心した。
「ハンゾウは今までの主たちにもこうやって色々世話してきたの?」
ハンゾウは黙って独神の髪を梳いていた。だが、その指先が一瞬だけ独神の首筋をなぞった。
「世話…………ねぇ」
その言葉は風のように小さく、聞き逃すところだった。
独神は思わず息を呑んだ。
「ご想像にお任せする」
誤魔化された。これ以上この話題に踏み込まない方がいいだろう。
ハンゾウはどこからか金属製と思われる物を取り出し、さらさらと砂のような音を鳴らすと「ぼっ」と温かな物の気配が産まれた。
「独神様は夜目が効かないんだったな」
わざとらしく言って部屋の灯りを灯した。部屋は思っていたより質素だった。床には古い筵が敷かれ、隅には小さな懸け軸が一つ。文字はなく、墨の滲みだけが描かれている。壁には何もなく、ただ時間の経過を告げる薄い埃の跡がかすかに残るのみ。窓際には木の棚が一つ、そこに小さな茶器と水差しがひっそりと並んでいた。先ほどハンゾウが衣類を取り出したのはそこからだろう。荷物を置くための台や、長居を示す布団は見当たらない。
「これを飲んで身体を温めておけ」
ハンゾウは手の中にあった金属の筒から、小さな杯へと液体を注いだ。注がれたのは透明な液体だったが、不思議と湯気が立ち上り、甘い蓬の香りが広がった。忍の茶か何かだろうか。雨に濡れた身体を芯から温めるには最適の一杯だと思わせる香りだった。
「……はは。美味しくはないね」
「まあな。効能重視だ」
飲めないほどではなかったので、ちびちびと独神は飲んだ。味はともかく身体が芯から温まったような気がする。
「この隠れ家、落ち着くね」
独神はくつろいだ様子で言った。
「誰も来ないなら、また来てもいい?」
「何を馬鹿なことを」
「でも、誰も知らないんでしょ? 秘密基地みたいで楽しそうじゃない?」
独神は無邪気に笑った。
「ねぇ、ハンゾウ」
無視を決め込む忍に嘘くさい甘えた声を出した。
「だめ?」
ハンゾウは独神の頬をぎゅむっと片手で掴んだ。
「間抜け」
罵るハンゾウを見つめると、何かを抑え込もうとしているように感じられた。何かに耐えている。そして何かを言いかけて、また言葉を飲み込む。掴んだ手をさっと離した。
「ハンゾウ……?」
独神が顔を伺いつつ名を呼ぶと、ハンゾウは目を閉じ、深く息を吐いた。
「主の愚かさに紡ぐ言葉を見失っただけだ。気にしなくて良い」
雨音に耳を澄ませば、先ほどより小さくなっていた。ハンゾウが立ち上がる。
「小降りになった。帰るぞ」
外に出てまずハンゾウは独神を傘の真ん中に立たせ、自分は雨粒を受けていた。肩が濡れていくのも気にする様子もない。
「濡れるからハンゾウもこっちに来て」
「俺は忍だ。気遣い無用。それにもう濡れているだろ」
「これ以上濡れなくたって良いでしょ」
独神が傘を寄せると、わずかに肩を寄せた。二人の間に落ちる雨粒の音が小さくなる。
湿った路地を歩く二人の足音だけが静寂を破っていた。ハンゾウの腕が時折独神の肩に触れる。それは偶然なのか、意図的なのか。独神には判らなかった。
「あまり心配をかけるな」
雨音に紛れて僅かに聞こえた。ハンゾウの声には普段聞かれない優しさがあった。
「……ごめん」
独神はそう呟き、再び沈黙が二人を包んだ。しかしその沈黙は居心地が悪くなかった。むしろ心地よいものだった。
町を出ると雨はすっかり上がり、雲の切れ間から夕日が差し込んでいた。濡れた石畳が橙色に染まり、水たまりには空の色が映り込んでいる。ハンゾウは傘を閉じ、軽く水を払った。
夕日に照らされたハンゾウの横顔を独神は見つめた。いつもの厳しい表情の中に、かすかな柔らかさが見える。それは今日だけの錯覚だろうか。
「今日の件は他言無用だ。いいな?」
独神は小さく笑った。その笑顔にハンゾウの目が一瞬だけ留まる。
「判った。秘密ね」
「ああ。秘密にしていろ」
ハンゾウは無表情ながらも、どこか楽しそうにしているように見えた。偶然生まれたこの特別な時間を、ハンゾウもまた大切にしているように見えるのは錯覚ではないはずだ。
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