ある本殿の一日

午前 弐



 春の陽射しが障子を通して執務室に差し込んでいた。午前も半ばを過ぎ、本殿の中は静かな緊張感に包まれている。独神は山になった書から顔を上げ、目を休めるように一瞬だけ閉じた。朝から始まった悪霊の文字の解読作業が続いている。

「少し休んだら?」

 独神は机の向こうで黙々と筆を走らせるミチザネに声をかけた。朝から休みなく作業を続ける姿に、少し心配になったのだ。
 ミチザネは独神の声に一瞬だけ筆を止め、視線を上げた。瞬間的に眼差しが交わり、彼はすぐに目をそらした。

「この程度で休むような軟弱者とお考えか?」

 ミチザネは再び筆を走らせながら嫌味交じりに答えた。独神はそれ以上は何も言わず、両手を上げてうんと伸びをした。肩の凝りが少しほぐれる感覚がある。

「主殿こそ、疲れているんじゃないのか?」

 独神はへへっと笑った。

「お前の頭では長時間の解読は難しいだろう。俺に任せろ」

 ミチザネの言葉は刺々しいがその裏には、ほんのりと思いやりが隠れている。

「頼んでもいい?」

 書を手渡すと、ミチザネは鋭い目で文字を追い始めた。そこには疲れの色など微塵も見えない。集中すると神々しいほどの光を放つ。独神はそんな深い集中に入るミチザネをぼんやりと眺めた。
 ミチザネの筆は休むことなく動き続けた。解読した内容を美しい筆跡で記録していく。静かな執務室に筆の滑る音だけが響く。
 かつて都で讒言され、その怒りと恨みは「祟り神」とまで呼ばれるほどであった。人でありながら人でなし。八百万界の地に何度も雷を落とし、恨みの炎を燃やしていた。誰もが討伐を口にする中、独神はミチザネの才を見抜き、仲間として迎え入れた。あれから三年。雷鳴の中で交わした約束は今も守られている。

「……判ったぞ」

 執務室の静寂が破られる。独神が覗き込むとミチザネは指差した。

「ここだ。ヤシマと書かれている。ご丁寧に兵の動きが書かれていたお陰で、讃岐の屋島だと断定できたぞ」

 独神は思わず感嘆の声を漏らした。

「さすが、ミチザネ」

 素直に称えると、ミチザネは一瞬だけ顔を上げた。その瞳が独神の目と合い、すぐに文書へと視線を戻す。

「俺は求められた役目を果たしただけだ」

 片眉を上げながらも、ミチザネの筆の運びはわずかに丁寧になった。言葉の扱いが得意なくせに、自分のこととなるとてんで駄目になるのがミチザネだ。
 そういうところに可愛げを感じる独神は思わず頬を緩めた。

「ところで主殿、梅の季節が近づいているな」

 唐突に話題を変えてミチザネが言った。幾分緊張が混じっているように思えたので、独神はいつも通りに答えた。

「今年も良い花が見られると良いね」
「俺の知る限り、今年は例年より美しく咲くだろうな。……まあ、お前の目には違いが判らないだろうが」

 独神はミチザネが梅を愛していることを知っている。機嫌が良いときは梅の話をすることが多い。解読できた満足感で言い出したのかもしれない。

「じゃあ、一緒に見に行こう。違いはミチザネが教えてくれるでしょ?」

 その言葉にミチザネの手が一瞬止まり、顔が上がった。何か言いたげな表情だったが、すぐに表情を取り繕い、筆を動かし始める。素直に嬉しいと言えないミチザネらしい反応だ。

「俺に構うより仕事をした方がいいだろうに」

 そう言いながらも、唇の端が微かに上がっているのを、独神は見逃さなかった。ミチザネが隠そうとしている些細な反応を読み取るのは、もう慣れてきた。
 ミチザネは一度解読したものをまとめると言って山になっていた書を分別した。早々に整理し終えると、ミチザネは自分の硯を取り出した。独神は彼が何をするのか見ていた。

「漢詩でも詠むの?」

 ミチザネは肯定した。詩人としても才能がある彼は、時折漢詩を詠むことがある。独神はその才能も尊敬していた。

「ああ、少し言葉が浮かんでな……」
「また梅の詩?」
「……ふん。まあそうだな」

 ミチザネは梅を詠むことが多い。それは昔の記憶と関係しているのだろう。

「じゃあ、読ませてくれる? 完成したら」
「お前に漢詩が判るも、」

 言いかけて、ミチザネは何かを悟ったように口を閉じた。独神はじっと彼を見つめた。理解できないと思われているのは少し残念だった。

「読ませる代わりに、梅酒を用意しておけ」

 独神は微笑んだ。

「いいよ。約束ね」

 独神は席を立ち、縁側へと歩み寄った。陽だまりの暖かさを感じながら庭を眺める。早春の庭は静かだが、梅の木にはわずかに膨らんだつぼみが見える。

「もうすぐ昼でしょ。一緒に食べる?」
「遠慮しておく。俺はこのあと討伐だからな。部屋で休む」
「そうだったね。私は先食べちゃうね。お疲れ様」

 食事をとりに廊下を出る。しばらく歩いてから振り返ると、ミチザネが何かを口の中で呟いている姿が見えた。何を言っているのだろう。思い浮かんだ詩だろうか。いつかミチザネの心の内側にある言葉を、聞いてみたいと思った。

「東風吹かん 匂い忘れぬ梅の花」

(主を想う心を詠んだ続きを、おまえにいつ聞かせてやれるのだろうな)

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