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夜中
月明かりだけが本殿を照らす丑三つ時。独神は喉の渇きを覚え、水を求めて廊下を歩いていた。その時、縁側の向こうに人影を見つけた。
庭の入り口から本殿へと足を進めるその姿は、紛れもなくヌラリヒョン。普段の堂々とした歩みではなく、影に紛れるように静かに歩む姿に、独神は思わず息を潜めた。
独神は僅かに悩んだがそっと履物を爪先に引っかけて、影へと近づいた。偶然を装って声をかける。
「ヌラリヒョン?」
声をかけられたヌラリヒョンは、一瞬だけ身構えるような仕草を見せた。月光に照らされた彼の横顔は、いつもの穏やかな老人の表情ではなく、鋭い緊張感に満ちていた。だが、独神と気づくやいなや、すぐに柔らかな微笑みへと変わった。
「おや、主か。こんな夜更けに何をしている」
その声には昼間の元気さはなく、夜の静けさに溶け込むような優しさがあった。
「喉が乾いたから厨房へ行こうと思って。で、今は寄り道の散歩」
独神は言葉を続けながら、ヌラリヒョンの様子を窺った。
月光に照らされた老妖の姿は、日中とは違う神秘的な魅力を放っていた。そして袖の端に、微かに黒ずんだ染みが見える。
「ヌラリヒョンこそ。こんな時間にどうしたの?」
「ははっ。爺はな、時折眠れぬことがあるのさ」
ヌラリヒョンは独神に近づきながら言った。その距離が縮まるにつれ、独神はヌラリヒョンから漂う異質な気配に気づいた。土と血の匂い、そして妖の気配。
「長生きしてると、ふいに昔のことが思い出されてな。今宵のような月を見ると、特にそう思うのだよ」
彼は自然に袖の染みを隠すように腕を組んだ。その仕草はあまりに自然で、まるで長年の習慣のようだった。
「そうだったんだ。偶然だね」
独神は知らぬふりをした。何かあったのは明らかだったが、ヌラリヒョンがそれを隠すのなら、その意志を尊重しようと思った。
「気が合うな」
その微笑みは不思議と若々しさを帯びていた。白髪と対照的なその表情に、独神は思わず見とれてしまう。
「そうだ、まだ飲んでいないのなら、儂が茶を淹れよう。月を見ながら呑むのは格別だぞ」
思いがけない提案に、独神は少し驚いた。早く去りたいのとばかり思っていたのに。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
二人は廊下に並んで座り、ヌラリヒョンが用意した茶を静かに啜った。独神は隣の英傑の横顔を見つめた。月明かりに照らされたヌラリヒョンの表情はどこか物寂しさを帯びていた。
と言っても表情はいつもと変わらない。ただ言いようもない雰囲気がそのように見せているのである。
「主よ、こんな話を知っておるか?」
ヌラリヒョンは突然切り出した。声は低く、物語を紡ぐように静かに響いた。
「昔、ある渡し守のことだ。彼は千年もの間、三途の川を行き来し、数えきれぬほどの魂を見送ってきた」
湯呑を手に持ったまま、ヌラリヒョンは月を見上げた。
「彼の心は時と共に静かになり、もはや誰が川を渡っても、特別な感情を抱くことはなくなっていた。魂の流れもまた、川の流れのように、ただそこにあるものとして受け入れていた」
その言葉は月明かりに溶け込むように、夜の静寂の中へと広がっていった。
「ある月の夜、一人の旅人が川辺に立っていた。渡し守は声をかけた。『渡るのか』と。旅人は首を振った。『私はまだ渡るべきではない。私には果たすべき使命がある』と。渡し守は多くの言葉を聞いてきた。だが、この旅人の声だけは不思議と心に残った。単なる興味のつもりで、彼は旅人に訊ねた。『お前の使命とは何だ』と。旅人は答えた。『それを知るために旅をしている』と。その素直な瞳に、渡し守は千年の間忘れていた感情を思い出した」
その時、ヌラリヒョンはそっと独神の方を見た。
「川の流れのように淡々と過ぎる日々の中で、渡し守は気づけばその旅人のことを思うようになっていた。旅人が川辺に現れる度に、彼の心は静かな波紋を広げた」
ヌラリヒョンの声は次第に柔らかくなり、独神だけに聞かせるような響きを帯びていた。物語を語る彼の姿勢は、独神の方へと僅かに傾いていた。
「渡し守は自問した。『なぜこの者だけが特別なのか』と。千年を経て初めて、彼は舟から降り、自らの足で岸へと歩み寄った。そして、渡し守は気づいた。自分はもはや渡し守ではなく、ただ一人の旅人を待ち続ける者となっていることに」
物語が終わり、静かな沈黙が二人を包んだ。月の光だけが、彼らの間に横たわっていた。
「渡し守は悟った。千年の孤独は旅人と会うためにあったのだと」
ヌラリヒョンは静かに言った。その声は物語から現実へと戻ってきたようでありながら、なお何か不思議な余韻を残していた。
気付けば、二人はわずかに触れ合う位置にあった。
月明かりの中、ヌラリヒョンの瞳は静かな光を宿していた。その目は話の登場人物である渡し守と重なって見えた。
「長い時を生きていると、何度も別れを経験する」
ヌラリヒョンは独神の方へと視線を向けた。その瞳には、語り終えた物語の余韻と、語られなかった何かが宿っていた。
「そして、失うことの痛みを知るほど、守りたいものの大切さも痛いほど分かるようになる」
その言葉には何か個人的な経験が滲んでいるようだった。独神はふと、彼の袖に見えた黒ずんだ染みを思い出した。
「儂にも、守りたいものがある。それは主も同じだろう?」
静かな問いかけに、独神はただ頷くことしかできなかった。ヌラリヒョンの言葉の奥に秘められた何かが、胸に染み入るようだった。
「儂の部屋には、いつでも主の席を用意している」
ヌラリヒョンはさり気なく言った。その目は真っ直ぐに独神を見つめていた。
「うん、今度伺うよ」
独神の返事に、ヌラリヒョンの瞳の奥で何かが輝いた。それは長い時を生きた者の、静かだが確かな喜びだった。
「ああいつでも来るといい」
ヌラリヒョンは空になった湯呑を独神から受け取りながら言った。その手が独神の指に触れた時、わずかな温もりが伝わった。それは偶然ではなく、意図的な接触だったことを、独神は直感的に理解した。
ヌラリヒョンの指先は独神の手に触れたまま、一瞬だけ留まり、そっと離れていった。
「さあ、もう休むがよい。まだ夜は冷えるからな」
ヌラリヒョンは立ち上がり、廊下の奥へと歩き出した。その背中には、妖の総大将と呼ばれた頃の威厳が漂っていた。
「おやすみ、ヌラリヒョン。そっちも身体には気を付けて」
独神の声に、彼は立ち止まり、振り返らずに言った。
「……肝に銘じておく」
その言葉を残し、ヌラリヒョンは月明かりの中へと消えていった。が、数歩進んだところで、ヌラリヒョンは振り返り、遠く離れた独神を見つめた。独神の姿は彼の視界に小さく映るが、その輪郭を見つめる彼の瞳は、どこまでも優しかった。
(其方の心に届かぬ想いであろうとも、抱き続けるのは妖の永き生の道楽だな。……だが果てしない生で培われた忍耐は、ときに危うい熱に変わるものさ)
2025/05/12
スパコミとエアブーで配布・公開していたお話。
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