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私を値踏みする、その目が苦手だった。
八百万界に産み落ちてわずか零日目にして悪霊退治の旅が始まった私は、まだまだ世界に不慣れだった。
定期的に食べ物を摂取するだとか、身体を綺麗にするとか、そういう基本的なことすら知らない。
そんな身体だけ大きい赤ちゃんの私を、神代八傑が世話してくれた。なんでもしてくれていた。
それを当たり前に享受している私を、彼はきっと嫌いだったのだろうと思う。
今だからこそ、そりゃそうだ、と思うが当時は嫌な人だとしか思えなかった。
一血卍傑で英傑たちが増えて、私も独神として成長して、それからかな。
彼のことを嫌な人だと思わなくなったのは。
生き物としての知識や社会性が身についていくと、他人との交流で小さな壁にぶつかった。
英傑数が増え、在籍年数が増えるとどうしても『なあなあ』になるところが増えてくる。
一言二言言いたいけれど、それを飲み込んでうんうんと許す。
普段お世話になっているのだから、少々のことは受け入れていかないと。
完璧なことはない。私に都合良すぎることもない。
彼にはそういう『なあなあ』が一切なかった。
出会った頃と同じ。私になんの許しも求めてこなかった。
自制心が強く、責任感があった。
私だって小言をこぼしながらも、『なあなあ』にしているところがたくさんあるのに。
私は彼を尊敬し、彼の振る舞いからいくつも学んだ。
楽な方に逃げない。独神という役割を日々全うする。役割通りの言動を心がける。
私欲を捨て、役割に沿った行動を常に選ぶのは難しく、時には重圧に息が出来なくなる時もあった。
「忍ならば当然のことだ。もっとも、全員ができているとは言わないがな」
縁側に座る私の傍、けれど庭側で腕を組んだまま不動の姿勢をしたサスケがそう言った。
その視線を追いかけると、当たり前のように庭で爆発を起こすサイゾウの姿。
金銀財宝を見つけたといって小さな体躯の数倍の大きさの金塊を背負うヒデヨシ。
忍ぶはずの忍の姿だ。
私は思わず吹き出した。
そうだねと言って笑うと、心なしか彼の口布の端がわずかに持ち上がった気がした。
それを見て、少しだけ彼と打ち解けた気がした。
庭の草木が爆炎で焼け焦げた匂いのする中で。
彼と過ごす時間が増えていき、無表情の区別がつくようになって、私はいつしか、彼が認めるような、恥ずかしくない主になりたいと思うようになっていた。
絶対に悪霊を倒そう。
誰もが出来ないと諦めても、私だけは目的を達するまで絶対に折れない負けない。
絶対勝つ。
それが『独神』だ。
英傑たちのおかげで、悪霊は全員八百万界から消え去った。
しかしまたしても問題が発生した。
危機が去ると、オノゴロ島は海に沈むという。
私たち全員は今後の生き方を決めなければならなくなった。
主として英傑一人一人と話した。もちろん彼もその一人だ。
「…………サスケは、これからどうするの?」
すぐそこまで波の音がしていた。
「通常通り任務終了後は甲賀へ戻る。そこで新たな任務を与えられ、新しい雇い主に従う。繰り返しだ」
そう言い放つ彼の顔は、何でもないことを話すときと変わらなかった。
私は話を聞く前から胸がぎゅっと掴まれて痛いのに。
彼は表情一つだって動かさず、いつも通り平坦な声で話す。
私は少し高い位置にある肩を掴んで、強引に顔を近づけた。
絶対に人前で外さないと言われる口布に指をかけて下げ、サスケの唇に押し当てた。
私と同じ柔らかな感触を知った時にはもう、後悔していた。
すぐさま後方に飛んだ。
「ごめんなさい。もう二度としない。本当にごめんなさい」
と言い放ちながら私は駆けだしていた。
後ろは絶対に振り返らなかった。
あれから彼には会っていない。
本殿を解散するその日にだって、一言の挨拶もなかった。
他の忍だってみんな挨拶をしてくれたのに。
突然口づけるようなはしたない不合理な主は嫌われて当然だ。
私はそうやって納得することにした。
私の恋を、穢したのは私。
だったら飲み込む他にないでしょ。
本殿解体後の進路は紆余曲折あったが、最終的に江戸で厄介になることにした。
強大な力を得た者は、その責任を果たす努力をしなければならない。という教えに従うなら江戸か京か出雲の三択。
江戸は領主がミツクニへと変わったばかりだった。
何故水戸藩の者がと疑問だったが、どうやら内部の強引な誘致により就任させられたらしい。
本来予定になかった領主で、周辺諸国もざわついた。
近いうちに一悶着あるだろうが、私がいれば助けてやることも、他国との調整も出来るだろう。
私は江戸を選んだ。
「ご主人本当にいいのか」
熱心に江戸へ来いと誘った割に、いざ江戸の滞在を決めるとミツクニが改めて確認しにきた。
「人の心配してる場合? これから大変だよ領主さま」
「ならご主人が江戸を治めてもいいんだぜ」
「むりむり。私には」
「オレたちを率いておいてよく言うぜ」
ミツクニはそう言って、佇まいを直した。
背筋をぴんと伸ばす。
「江戸に来るってことは、オレの下につくことになる。本当に良いんだな?」
独神が一領主に従うなど、良いはずがない。
特定勢力に肩入れしたとなると、新たな火種になるのは火を見るより明らか。
「……その認識でいいよ」
なのに私の口は、従うと告げていた。
ミツクニは小さく頷きながら、私の言葉の意図を飲み込んでいるようだった。
「今後はオレの決定に従うよーに。判ったな」
「承知いたしました。領主さま。ご随意に」
こうして、天下の独神は江戸へ住まいを移し、生活は一変した。
…………こともなかった。
「ご主人、これなんだけど」
「あー、このひとかぁ……私、好きなお菓子知ってるよ。交渉するならまず幼なじみの側近から言った方がいい」
「助かるぜ」
とか。
「ねぇねぇミツクニ。魚が捕れないって話でしょ。あれ、オトヒメサマに聞いたら、魚たちが移動しているだけみたいだよ。今年は駄目だけど来年にはまた戻ってくるって」
「となると、今年だけどうにかすればいいんだな。漁師のみの援助ってなると批判もくるだろうから……、土木作業でも手伝わせるか。それなら支援できる」
とか。
「ご主人ー」
「ミツクニー」
「……」
「……」
「先いいぜ」
「お先どうぞ」
「なんだよそれ」
「だって」
「順番な。オレから。賭博にハマる奴が多くて最近納めるものも納めねぇんだよ」
「そうなの! それで負けがこんで喧嘩になるでしょう? 暴れて困るからどうにかしてって言われたんだよね」
「根っこは同じようだな」
「じゃ、まずは負けが込んでるイシマツに聞いてくるね!」
「こりねぇなあいつ」
とか。
やることは本殿時代より少ししょぼくなった。
けれど、護衛の一切をつけず自由に外出して、暇に任せて江戸を歩き回ることはとても楽しい。
ミツクニが休みの時には一緒に店を巡ることもある。
立場のある者同士、少し注目を浴びてしまうが、二人とも慣れていた。
むしろ立場が変わらない私たちだから、相手に気負うこともなかった。
「なぁご主人。あれ」
「領主さまったら、非番の日にも働きたがるなんて」
「あんたと同じだよ」
「そうね。じゃ、尾行開始ね!」
関わる英傑はミツクニだけじゃない。
「アカヒゲ先生はいらっしゃる?」
「先生は急患の対応中です! 日を改めてください!」
御薬園内にあるクスノキの傍にある建物がアカヒゲが働く養生所だ。
ここは無料なのもあって、いつ行っても先生は急患の対応中なのである。
話したければ診察終わりを待つしかない。
だが今日の慌ただしさを見ると、まだまだかかりそうだ。
「すみません。ではまた」
踵を返そうとすると別の方に止められる。
「お待ちください! 先生への言づてを承ります」
「どうして相手するんですか、こんなひと」
「シーッ! 大変失礼しました。彼女はあなたを知らないのです」
「いいよいいよ。気にしないで。アカヒゲへの伝言もいいよ。また来るから」
診察を待つ人たちは私たちのやりとりを見もしない。
祈祷師でも灸でも治らなかったものたちが、ここならと縋っているのだろう。
本殿時代は神族も妖族もいた。江戸での主流は人族だけだ。これでは足りない場面が出てくる。
このことはミツクニに再度報告しておくのがいいだろう。
老中たちの中には無料の養生所のことをよく思っていないらしいが、そこは私も手を回そう。
健康優良児の私は再び踵を返した。
「山場は超えた。あとは様子を見てやってくれ……って、頭領さん!?」
丁度診療が終わったであろうアカヒゲが見つけてくれた。運がいい。
「こんにちは」
「ひとまずあがってくれ!!」
「いや忙しいようだから日を改めるよ」
「いいから来い!」
と言いながら、アカヒゲは私の腕を引いて奥の座敷へと連れて行った。
「なんで先生があんなひとを!? どう見ても健康そのものですよね?」
「しーっ! あのお方は独神様だよ。うちが他の場所より薬草や設備が多いのも、治りが早いのも、独神様のおかげなんだからね」
「ええ!? あんな地味なひとが!?」
なんとまあ恥ずかしい。
顔の広さを利用しただけで、実際に動いていたのは私じゃないのに。
「……すまねぇ。叱っておく」
「それよりいいの? 忙しいんじゃない?」
「休憩だ」
アカヒゲはそう言いながらお茶を淹れ始めた。
新しい茶葉を急須に入れる。なくていいし、出涸らしでいいよって言ってるのに。
どこで買ったのか、少しおしゃれで可愛い猫の絵がついた湯呑に入れてくれる。
アカヒゲの風貌の人が買うようなものなんかじゃない。ただの客用と言っていたけれど、私にしか出していないことも知っている。
傷のない机にことんと置かれる猫の湯呑。
これの中身がなくなるまでは向き合って話そう、という意味なんだと三回目くらいに気付いた。
「頭領さん。困りごとか」
「ううん。ちょっと。顔、見たくて」
「…………」
いつも困ったような顔を一瞬だけして、すぐに真剣になる。
きりっとした医者の顔だ。
「食えてるか」
「うん。ミツクニは私に不自由させないから」
「それだろ。原因は」
私は頷いた。
「……頭領さん」
アカヒゲが頭を抱えてしまった。いつものことだけど。
江戸城での生活は楽しいし不自由をしていない。
今までの経験も生かせているのでそれなりに充実感もある。
ミツクニが独神という異物を周囲に緩衝してくれているおかげだ。
それは判っている。これ以上ないくらい感謝している。
でもそれは、私が有用だからじゃない。
下心だ。
その下心が独神を政治的に利用したい、であれば悩むことはなかった。
そんな汚いものじゃない。
ミツクニは私を、将来を共にする者として見ている。
いつまでも結婚相手を決めずにふらふらしているのはそのせいだ。
本当ならば世継ぎをつくるところ。重臣たちもそれを望んでいる。
周囲の重圧に歯向かうのは、私のせい。江戸に私がいる限り希望を持ち続ける。
私は以前、まだ悪霊が八百万界にいる時にミツクニに告白された。
いつもふざけてばかりのミツクニが、一切茶化さず、冗談めかさなかった。
私はきちんと断った。好きなひとを追いかけていたから。
「……なら平和になったらもう一度考えてくれ」
そしてその平和が来た。
本殿解散後、あろうことか私は江戸を滞在地に選んだ。
「……ツケを払うときが来たのよね」
「もう一度断ったらどうだ」
「うん。それも考えたの」
「しない理由は」
「…………前に進む時が来たんじゃないかって」
「それはそうだろうな」
アカヒゲは呆れていた。毎度のことだ。
湯呑を傾けちまちまと飲んだ。
「大体頭領さん、もう連絡とってねぇんだろ」
「一度も。連絡する術なんてないし。第一、相手も迷惑でしょ…………」
「ったく、どこのどいつだよ。頭領さんを振った英傑ってのは」
私は笑ってごまかした。
独神を振る不届きものことは誰にも言っていない。
好きなひとがいることもずっと言わなかった。
それがついうっかりアカヒゲに言ってしまった。
好きなひとは本殿にいた英傑で、もう振られてると。きちんと伝えた。
それを聞いたときのアカヒゲは口をあんぐり開けて固まっていた。今思い出しても笑ってしまう。
ありがたいことに、私は英傑たちには慕われていて、よく同じ未来を歩きたいと願われた。
そんな私だが、好きなひとにはものの見事に振られてしまった。
蒲団の中では娘たちと同じように声を押し殺して泣いた。
振られた場面を繰り返し思い出して、思い出した数だけ歯を食いしばった。
私は切り替えが遅く、なかなか次の恋愛に進めなかった。
他の英傑に告白されても、心が動かなかった。
申し訳ないと謝る言葉はするすると出た。
相手を好きになる努力をすることができなかった。
億劫だったのかもしれない。
もう傷つきたくなくて。
その点ではミツクニと一緒になることは最善手だ。
相手が私を好きなら、もう私は振られることはない。
それにミツクニならきっと私を幸せにしてくれる。
八百万界の平和維持活動だってずっと続けられる。
こうやって、時々アカヒゲやホクサイ、キンシロウのところに行って話すことだってできる。
不自由はない。
「お世話になっているのに、どうして一歩前に進めないのかな」
アカヒゲと話す時、私はいつもこの言葉をこぼす。
「結局忘れる気がねぇんだろ。ずっとうじうじ振った奴のことばかり考えて。時間を進める気なんざねぇんだ。頭領さんは」
「……。別にね、あの人は感情を見せもしないし、面白いことをするわけでもないんだよ。一緒にしたことを思い出そうとしたって、いつも私の言うことを聞いてくれて、結果を出してくれてたなって、それだけなんだよ。なのに、なんで…………こんなに忘れられないのかな。忘れたっていいよね?」
「頭領さんは普段振る方だからだろ。新鮮だったんじゃねぇのか。振られるのが。それを特別視してんだろ」
「そんなんじゃない! ずっと認められたかっただけなのに……っ」
じわっと涙がこみ上げる。
「認めるもなにも、そいつはもう頭領さんを見てねぇんだぞ」
ぴしゃりと言ってくれる。
アカヒゲは、さっさとミツクニと一緒になれと最初から言っている。
悪いやつじゃない。意外と妻を大事にする奴だと。
ここまで待ってくれる奴はいないからなと。
「……そんなの……判ってるし」
どれだけ頑張っても、もう評価してもらえない。
独神らしくしたって無駄なのかもしれない。
「っ」
アカヒゲはすーっと顔を背けて肘をついた。
慰めないのは優しさだ。私が切り替えられるように。
でもごめんなさい。やっぱり今日も無理。
湯気の立っている湯呑をひっつかんで一気に喉に流し込んだ。
焼けるように熱い。
「…………帰る」
「ああ、優しい領主様の所へ帰りな」
私はついむっとしてしまったが、一呼吸置く。
「……人の世話もいいけど、身体に気をつけてね、先生。支援が必要な時はすぐ声かけて」
「もう十分援助してくれてるだろ。……ま、なんかあれば声をかける」
お互いに笑いあって、私は手を振った。アカヒゲも手を上げて返してくれた。
最後は必ず、笑う。
江戸城に帰ると、城中の役人たちがせわしなく走っている。巻物を抱えた小姓が二人、息を切らせてすれ違った。
私が目を向けると、廊下を行き来していた人々が避けるように去っていく。誰も何も言わない。一人だけ、振り返ってこちらを見た目が、すぐ逸らされた。
やっぱり普通のひと相手だと、独神へ壁を感じるのだろう。
「あ。テンカイじゃない。どうしたの?」
「なんでもありませんよ」
嘘だ。師走ですら走らないテンカイが走っているのに。
「……私が知らない方がいいこと?」
テンカイは少し考えた。
「知らない方が良いことでございます。そして儂と共にいてください」
「判った。一緒にいるね。行動の制約はある?」
「いいえ。ですが四六時中、寝食も共にいたしますよ」
「そうなの。じゃあしばらくよろしくね」
「ええ」
にこりとうさんくさい顔で笑った。色付き眼鏡の奥は相変わらず読めない。
テンカイが私の護衛につくということは、かなり大きな事件だ。
こういうのは初めてではない。
以前、私が江戸を滞在地に選んですぐの時なんて、独神を独占するな、と様々な国から不平不満が飛んできた。
その時はミツクニが表に立って、彼らを説得した。テンカイもお得意の説法で黙らせつつ、私に直接害を与えようとする者から守ってくれた。
だが今回、テンカイは城から出るなとは言わなかった。標的は私ではないのかもしれない。
標的は江戸城そのものだろうか。
しばらくミツクニは忙しいだろう。
「それで。テンカイは私と遊んでくれるの? それとも邪魔しない方がいい?」
「お気遣い感謝致します。すでに準備は整っているので、儂はいくらでもお相手いたしますよ」
すでに結界は張っているのか。
「将棋でもしようよ。シュンカイに勝てないから今将棋で挑んでる最中なの」
「主様のお相手が務まるかは判りませんが、お相手いたしましょう」
結果として、テンカイは私に全勝した。いやなひとだ。
「強すぎじゃない?」
「主様が弱いのでございますよ」
「ひどい」
テンカイはにこにこしている。けど耳だけはずっと外に向いていた。
夕食をテンカイと食べて、湯を浴びてる間はテンカイが扉の外で控えていて、一緒に部屋に戻った。
外はまだ騒がしい気配がある。普段の城は静かなのに。でもテンカイが何も言わないから私も何も言わない。
寝る支度を整えて、すぐに床についたが眠れなかった。
天井が行灯の光を受けて波のようにゆれる。
戦を思い出す。
あの時はどんな状況でも睡眠が取れたのに、今では気になったら眠れない。
廊下で足音がした。複数。早い。
「……テンカイ」
障子越しに声をかけると、テンカイからすぐに返事が返ってきた。
「起きておられましたか」
「状況は」
「心配無用です」
私が動くほどでもないか。
いや。
私は障子を一気に開け放した。
正座したテンカイの口から血が出ていた。袖口も黒くぬれている。
「テンカイ、それ」
「お気になさらず」
「術を返された? 結界が破られたんじゃないの?」
「ご名答。さすがは主様」
破られたのに動けないのは、私の護衛のせいか。
「行って」
「主様」
「江戸城で一番大事なのはミツクニでしょ。そしてミツクニを支える人たちを守る方が優先」
テンカイは動かなかった。
「儂への命令は主様をお守りすることです」
「その命令を出したミツクニが今どういう状況か、テンカイが一番判ってるんじゃないの」
夜だと尚見えにくい眼鏡の奥が、わずかに揺れた気がした。
「……すぐ戻ります」
「うん。行って。ここで待ってる」
テンカイの足音が遠くなった。
部屋がしんとした。
一人だ。
まあ、なんとかなるだろう。
しかし、誰も教えてくれないせいで状況が判らない。江戸への攻撃なのか、ミツクニへの攻撃か。敵の候補が多すぎる。
廊下の向こうで誰かの気配があるのに、盗み聞きもできない。
忍がいれば全て解決するが、あいにくどの里とも契約は結んでいない。本殿の時のような大金も持っていないので雇えない。
そもそも平和の世では、争いの種になりがちな私だ。
ミツクニが周囲を説得してくれているおかげで、人族の里で生活できているのが現状。全く頭が上がらない。
私は蒲団に横になった。眠るわけではない。私の居場所はこの敷き布団一枚分だ。
私は、ここの主ではないから。
壁越しにざわめきが届く。じっと耐える。
普通のひとはこんなに恐怖を抱え続けているんだ。私だって独神だから出来る。必ず出来る。
────視界が不意に、暗幕を引いたように消えた。
目を布で覆われ、きつく縛り上げられる。
無我夢中で暴れたが、腕も足も鉄槌のような力で抑え込まれて動けない。
敷き布団に押しつけられたまま、何もできない。
知らない手が、私の足首を掴んだ。指の一本一本が鮮明に判る。
足を思い切り割り開かれた。着物の裾がずれて、夜気が太ももにざわざわと触れる。
天井を向かされた膝が震える。あられもない姿を、見えぬ何者かに晒している。
怖い。
けれど、いくら暴れてもびくともしない。
上から覆いかぶさる重さに、抵抗する力が残っていなかった。
助けて。
誰か。
金切り声で叫んだ。
「サスケ!! 助けて!! サスケ!!!」
昔の部下の名前を。
未練たらしく想い続けている人の名前を呼んだ。
「サスケ。お願い助けて。サスケ!!」
言っていて涙が出てくる。
来るはずがない。最後に会ったのは数年も前のことなのに。
足を開かれたまま、蒲団に縫い付けられている。こんなの、サスケがいたら絶対になかった。
襲撃者はなにを目的としているのか。
見ているのか、さわろうとしているのか、いれようとしているのか。
何も起きない時間が、一番怖かった。
身体が勝手に震え始めた。
こんなことなら。ミツクニを受け入れていたら良かった。
あの人が私を好きでいてくれるうちに、受け入れていたらこんな形で尊厳を奪われずに済んだ。
だが後の祭りだ。
私は振られた相手を忘れられなくて、ミツクニの気持ちを宙ぶらりんにしたまま江戸に来て、一人でこうなっている。
バチがあたったのかもしれない。
誰かが顔を近づけてくる気配があった。
私は首が痛くなるまで顔を背け続けた。口だけは。それだけは渡したくなかった。
頬に、なにかが布越しに触れた。短く、静かに。
喉の奥から声が漏れた。あっさりと、穢された。
私は抑えられながら懇願した。
「……殺してくれていい。だからやめて」
敵の前ですんすんと泣く独神。持ち上げられようが畏怖されようがこのざまだ。
そっと、私の頭に襲撃者であろう手が触れた。
その手つきのやさしさに頭がおかしくなりそうだ。
だがその矛盾のおかげで急速に冷静さを取り戻していく。
泣くのをやめると、また顔を近づけてくる気配があって、私はそれを首を振って拒否した。
自由に首を振らせてくれる。…………妙なことだ。
私に一部自由を与える意味は不明だが、交渉の余地があると判断して私は会話を試みることにした。
「好きな人がいるの。だから口づけは……だめ」
反応はなかった。だが、落ち着いて続ける。
「もう会えない人なの。その人を忘れたくない。だから口づけられるくらいなら殺してくれたほうがマシ。私は抵抗しないから」
長い沈黙があった。
焦らず反応を待つ。
すると、頬に、もう一度だけ触れた。今度は指のようだった。
「だめ」
静かに非難すると、すぐにやめてくれた。
意味が判らない。敵意がどこにも感じられない。
ついさっきまで、抑える力も容赦がなく、骨を折ってでもという気概を感じたのに。
もしかしてと思い、私は身をよじって足を閉じようとしたが、それは許されなかった。
変な線引きだ。価値観が違う相手に普通の交渉は通じない。
今は時間を稼いでテンカイを待つ他ない。
人質らしくじっとしていると、襲撃者の手が動いた。
寝着の上から、胸に触れる。
「いやぁあ!!!」
声が出た。大人しくしないとと思ったばかりなのに。
再び暴れ回った。腕がまた動かなくなっても足が押さえられていても、首を振り続けた。
やめてやめてやめてと、口を塞がれながら叫んだ。
声が嗚咽に変わって、全力で嫌がった。
しばらくすると、手は離れた。
騒いだ私はぐったりとしていた。
大きく呼吸を続ける私を、敵はなにもしなかった。
なんなの。
冷静になると、胸への触れ方が不思議だった。所詮当たっただけだ。
両胸を掴まれてむちゃくちゃにされるとか、寝着を裂かれて裸に剥かれるとか、そういうことはない。
あの手は、胸を掴んだまま指先を動かさなかった。
犯されないだけマシなんだろうが、私としては似たようなものだった。
独神である限り、こんな無様なことは続くのだろう。
「…………サスケ…………もう私のところへ来てくれないの?」
言っていて、一番泣けてくる。
もう私たちは何のつながりもない。
良い別れ方もできなかった。挨拶もなく去って、よっぽど私に会いたくなかったに違いない。
忍らしい人だったから、忍を好きになった愚か者、と心の中では嫌っていただろう。
私は既に、昔の主だ。終わった関係だ。
さらさらと涙がこぼれる。
顔にべったりと流れていく涙を、私じゃない手が拭う。
「…………ねえ、あなた。さっきから変だよ」
かわいそうなら最初からしないで。
ま、仕事なのだろう、相手も。
「…………私が大人しくしていたら、足は閉じさせてくれる?」
足をぐっと抑えられた。そこは譲れないのだろう。
「このままじっとしていたら、あなたは私を犯さない?」
反応はないが、襲撃者はすぐ目の前にあるであろう私の中心には触れてこない。
何も当ててこない。
襟も開いてこない。
恥ずかしさはあるし、屈辱的ではあるがそれ以外に害はないことが答えだ。
「私を人質にしてミツクニを揺るがせたかった?」
反応はない。
「人質なら…………うん。効果はあると思う。ミツクニ、私のことならなんでもしそうだから」
未練たらたらな女にどれほど奉仕できるかという疑問はあるが、ここで言う必要はない。
「この格好でも我慢する。だから、私を、犯すのはやめてね……?」
声も呼吸も聞こえないが、なんとなく同意してくれた気がした。
手の拘束も先ほどよりは弱い。足は身体で押さえつけてくるがとりたて触ってはこない。
私たちはジッとしていた。
足を上げ続けて少し疲れてきた頃、再び城内がばたつきだした。
襲撃者は即座に消えた。そして、廊下の足音とともに声がかかる。
「主様!!」
息を呑んだような間があった。
私の乱れた衣と、横たわった姿を見て、何かを察したのだろう。テンカイは近づいてくるやいなや、その辺の蒲団で私の身体を隠した。
「遅くなって申し訳ございません」
目隠しを取りながら謝罪された。
「大丈夫。なにもないよ。ただの未遂」
「しかし、それではミツクニ様に」
「ご主人!!」
続けて入ってきたミツクニは私とテンカイを見て、青ざめていった。
「大丈夫。なにもないよ。安心して」
ミツクニが大きく息を吐いた。
「いいえ。襲撃者がいました。そうですね、主様」
私が頷くとミツクニは再び青くなっていた。
余計なことを。
「心配ないって。大丈夫だよ。そんなしんぱい……しな……っ」
顔を背けながらも、私は自然とミツクニに手を伸ばした。
ミツクニはすぐに胸に抱いて、強く抱きしめてくれた。
二の腕に支えられて、力が抜けた。
「ご主人、オレと寝てくれ。せめて近くで守らせてくれ」
このままミツクニが傍にいてくれると安心できる。
けれど、城主としてそれでいいのだろうか。
緊急時に妻でもない女と共寝して。
「それとも……やっぱりオレじゃ敵わないってか?」
私はその質問をどう答えるか悩んだが、すぐにミツクニが言った。
「なんてな。そんなのどうだっていいさ。頼む。オレに守らせてくれ」
領主に頭を下げられた私は、「うん。お願い」と言った。
本心だった。
テンカイが改良した結界の中で私たちは寝ることになった。
そしてテンカイは退散している。
「儂も野暮ではありませんよ」
と言い残して。
いやな人である。
静寂に包まれた部屋で、蒲団は二つ。
私と。ミツクニと。
「……こんな時に言うのもなんだが、やっぱご主人の姿見ると変な気になるな」
私は赤くなった。寝着を着ていることが恥ずかしかった。
「……そういうこと言わないで」
呼吸がしづらい。畳の目がやけにはっきり見える。
普段どうやって寝ているのかも忘れてしまった。
蒲団に横たわることも出来ないでいる私にミツクニが近づく。私は身体を硬くした。
ミツクニが私のことを抱きしめてきて、ドキッとする。
「あ」
嫌じゃなかった。思っていたよりもずっと。
私はそろりと手を後ろに回した。
逞しい胸板。
大きい背中。
私と違う身体に緊張する。向こうも私の身体が当たっているはずだ。
けれど私と違って、ミツクニはこういうことに慣れているのかもしれない。
「ご主人」
「っやぁ」
耳元で囁かれて、私はつい声を出してしまった。耳の裏から首までぞくぞくする。
ぎゅっと抱きしめて恥ずかしさを耐えた。
耳元でミツクニは笑っている。
「可愛い反応してくれるじゃねぇの。じゃあ」
耳に口づけられた。
また私は声を出してしまって、それが拒否ではなく、感じてしまった方だと判った。
胸板越しにミツクニの緊張が伝わる。
「……怖い思いさせちまったな」
「……ううん」
「嘘つくなよ」
首を振ったが、ミツクニには通じなかったらしかった。
「ご主人。顔、見せろよ」
ミツクニの腕がわずかに緩んだ。私の顔が上に向かされる。
近づいてくる顔に、唇が触れ合うのだと判って、私は…………顔を背けた。
頬へ小さく口づける。
襲撃者とは反対側。
そのまま抱きしめられて、私もまだ腕を回したままじっとしていた。
しばらくして、ミツクニが離れた。
「……ったく」
低く言って、そっぽを向いた。
「今夜はここまでだ」
私はつい笑ってしまった。
「ミツクニ」
「なんだよ」
「ありがとう」
返事はなかった。
二人とも自然と蒲団に入った。ミツクニは手だけを伸ばしてきて、私の手を握った。
手を繋いだまま天井を見上げた。
硬い手に包まれているだけなのに、すごく安心して、それだけで寝られた。
私、ミツクニのこと、好きになれるかもしれない。
頬の口付けを許せるようになったんだから。
起きた時には蒲団の中にミツクニがいた。
ぎょっとして、眠気がすべて吹き飛んだ。
ゆっくり出ないと、と思ったが抱きつかれているせいで動けなかった。
「ミツクニ。起きて。朝だよ。ねぇ」
「んん……まだいけるだろ…………」
まだ頭が寝ているようで、私のことを離してくれない。
ミツクニの手が下へと降りていった。
私のお尻をまさぐる。
私はすぐさまつねった。
「痛っ。なんだよ。ご主人!?」
「おはよう。早く起きてね領主サマ」
拘束が緩んだ隙に私はさっさと脱出する。
気まずそうに頭をかいているミツクニに言った。
「怒ってないから。でも昨日の襲撃のことで今日は忙しいでしょ。早く起きて」
そう言うとすぐに領主の顔を取り戻して手早く準備を始める。
私はミツクニが出てから着替えることにする。
それまで、とぼんやり外を見ていた。
ミツクニが私の腕を掴んだ。
「ご主人。行ってきます」
いってらっしゃい。と言えばいいだけ。
でもそういう雰囲気ではなかった。
何かを待っている。
けれど求められているものが判らなくて、少し固まってしまった。
ミツクニは困惑する私をおかしそうに笑って、額に口づけていった。
「……あとで人を寄越す。それまでここにいろ」
と言って行ってしまった。
私は頭を抱えた。恥ずかしくて。
いってらっしゃいの口づけをする場面だったのか。全然判ってなかった。
はずかしいはずかしいはずかしい。
「おや。主様。朝からお元気そうで」
「元気だよ!!」
その日はテンカイがずっとついてきて最悪だった。
「おや、ミツクニ様。……おやおや見間違えました。近頃老眼がひどくて」
「老眼は遠くは見えるんですけど?」
「儂はまだまだ若いということですか?」
こういうこととか。
「異なる髪色の者同士の御子は何色の髪色になるのでしょうね」
「自分で確かめれば?」
「おや。儂と寝てくださるのですか? あいにく僧なのでお断りいたします」
こういうことを言ってきて昇天させようかと思った。
テンカイとしては私がミツクニとくっつくのは歓迎なのだ。江戸の発展になるから。
「そーーんなに言うなら、私がテンカイと結婚も出産もしてあげますけど?」
腹が立って言い返すとテンカイは首を振る。
「主様と直接契るより、摂政として操るほうが効果的です。残念でしたね儂を手に入れられなくて」
「こんな面倒な人、私の方こそお断りだよ!!」
「ひどい主ですね」
「酷いのはそっちでしょうが!」
憂鬱だ。
同じ寝所から私とミツクニが出てきたことは、既に城内の者に知られているようで、朝から生暖かい視線を感じる。
周囲は私とミツクニがくっついたと思っているのだろう。
あながち間違いでもない。
でも。
私はまだミツクニを好きではない。
感謝はしている。頼りにもしている。抱き合えたし、手もつなげた。頬だけど口付けも出来た。
でもまだだ。
もう少しだけ、時間が欲しい。
子作りの覚悟はできていない。
領主の嫁という立場になることだってしっくりきていない。
「ねーテンカイ、襲撃のこと教えてよ」
「今日も将棋をしますか。儂も少しだけ覚えてきましたよ」
「ごまかすの下手すぎ。ねえ、何が起きてるの。私だって振る舞い方が判らなくて困るでしょ」
一理あると思ったのか、少しだけ考える風を見せてくれた。
「主様は知らなくて良いことです。ですが主様への危害は看過できません。よって以前より守りは強めております」
「……もう襲われるのは嫌」
悪霊に捕まって電流を流されたり、痛覚を増幅されたり、殴られ蹴られたりなどの経験はある。
何日間も意識が戻らないことだってあった。
だが押し倒される方が意外と、引きずるのである。
血も涙もないテンカイが少しだけ心配そうな顔をして、口を開いた。
「昨晩の件は持ち場を離れた儂に責任があります。申し訳ございませんでした」
「責めてるわけじゃないよ。でも……やっぱり怖かった」
「主様」
テンカイが軽く私を抱き寄せて背中をとんとんと叩いた。
「申し訳ございません」
あの時、テンカイを行かせたのは正解だった。
「じゃあ」
「教えません」
ぱっと離した。ほんとケチ。
よほど不都合があるようだ。
だったらもう文句言わないでよね。
「……いっそ江戸を出ちゃおっか?」
テンカイの反応をのぞき込む。
「移動中は襲撃しやすそうですね」
「でもさ、私がいることでこの事態を招いたなら、私は出ていくよ」
「原因は主様ではありません。嘘ではなく」
「……つまんない」
底を見せないテンカイから情報を引き出すことは無理。諦めた。
「つまらぬ今をお楽しみ下さい。あなた様は忙し過ぎたのです。ごゆるりと」
確かに昔は忙しかった。休んだって良いかもしれない。
でも有事の時には動きたい。じっとしていられないのだ。
「職業病……?」
「御子でも産めば変わりますよ」
そうかも。
「変わるには準備が必要です。今は耐える時ですよ、主様」
そうか。
テンカイの言っていることは何となく判った。
ミツクニの下にいれば、私が決定することはない。江戸の住民の命・生活の責任も持たなくていい。
その代わりに、最愛の一人を支えるんだ。
正直想像できない。
「……少し、寝ていい?」
「どうぞ。傍にいます」
私は部屋に転がって目を閉じた。
私がこうしている間も、ミツクニは頑張っているのだろう。
頑なに私に話さないのだから、手を貸すこともできない。
私がミツクニと結婚したら、こうやって夫の仕事を知らず、待つばかりなのだろうか。
もしかしたら、ミツクニはそれを私の幸せだと思ってしているのかもしれない。
でもな。
護衛をつけるくらいの危険度と理解しながら、隣にいるのはうさんくさい僧一人。
本人はほとんど顔を見せないくらいに忙しい。
判るけど。判るけどさ。でも。もっと…………。
考える材料もすぐになくなり、私は畳の香りの中で寝た。
「っ、誰!?」
強い殺気に飛び起きた。
私を見下ろしているのはモモチタンバだった。
「久しいな主殿」
「あ、ああ。久しぶり……」
ひどい起こし方だ。主じゃなくなるとこんなに雑なのか。
一応まだ主と呼んではくれているけれども。
タンバはぐっと顔を近づけてくる。
「なっ」
「酷い顔だ。独神とはほど遠い腑抜けの顔だ」
失礼すぎるがその通り。
「だが殺気を察知するだけの感覚は覚えていたようだな。……それも出来ぬようなら話す価値がないと去っていた」
「ぎりぎり合格で良かったよ」
「主殿。暇そうにしているな」
「そうだよ。……みんな私に秘密にするからね」
最悪の起床をくれたお返しに、嫌味の一つでもぶつけておく。
「俺が教えてやってもいい。ただし、俺が教えたことを後悔させるなよ」
この言葉に思わずにやけてしまった。
「……はは。…………ハンゾウみたいなこと言うね」
「本人だからな」
声が変わった。正真正銘ハンゾウの声だ。
「だと思った。タンバがあんな起こし方するわけないじゃん。言葉の全てに底意地の悪さが表れてる。そんなのハンゾウくらいだよ」
「どうする。俺から情報を買うか」
ハンゾウは江戸、つまりミツクニと繋がっている。
今の状況をほぼ正確に知っている者の一人だ。
だが逆に、ここで情報を買えばそのことをミツクニに密告される。
「今のあなたは、どの立ち位置で私に話しかけているの?」
「さあな」
意地が悪い。
でも享楽で私にこんなことを持ちかける忍ではない。
ちゃんと意味がある。
「…………要らない」
私は断った。ハンゾウは鼻で笑った。
「ほう。まあ、このままごろごろ寝ているのが貴様にはお似合いだろうな」
「でしょうね。もう私は引退済みだもん」
お望み通り私はもう一度ごろんと横になった。
「…………あれ、テンカイは」
「用があると言って俺を置いていった」
「ふうん」
護衛なのに適当だな。扱いの悪さが気になる。いつまでも持ち上げられたいわけじゃないけど。
全てが中途半端。
情報はくれない。行動の制限もする。護衛は適当。
「ねぇ、ハンゾウちょっと来て。……顔、近づけてよ」
ハンゾウは素直に私の傍で畳に膝をつけた。
私はそのタンバになった顔をてのひらでじっくり撫でる。
触っただけでは、変装には気づけない。
首に触れ、頬に触れ、指先で何度もなぞると質感の違いが少しだけ判る。
「………………。手、貸して」
ハンゾウの手を借りた。ぱっと見は細く見えるが、やはりごつい。
この手は手先が器用で、毛糸が絡んだ時によく取ってもらった。
「ここ変装してないんだ」
「俺の手を知る者は殆どいない。タンバも小手を装備して指先しか出さない」
チヨメやオロチマルは素肌だったが、たいていの忍は手を一部なり隠していた。
本殿の忍たちは世話焼きで私に触れる者が多く、私から触れることもあった。
手なんて特に、手当てもしたし、はぐれないように握ってもらったし、よく撫でてももらった。
ハンゾウなんて手の感触を覚えるくらいにはお世話になった。
「……………………」
背中に電流が走った。
視界が奪われようとも、敵を見分ける方法はあるじゃないか。
これでも英傑二百人と過ごしていた私。こういうのは得意だ。
「……どうした。主」
私の心を見通したようにハンゾウが楽しそうに聞いた。
顔の動きが抑えられない。
「ありがとう。ハンゾウ」
ハンゾウは鼻で笑った。
「ご主人!」
ミツクニが現れる少し前、廊下の足音に私が気づく前に、ハンゾウは部屋の隅へと下がった。
頭を下げて控えるハンゾウの姿は見慣れない。
私の時は大体見下ろしてたな。主らしい扱いはしてくれなかった。
「ミツクニお疲れ様。ハンゾウがちゃんと子守りしてくれてるよ」
ミツクニは判りやすくほっとしている。
「守るって言ったくせに結局傍にいれなくてごめんな」
「ううん。しょうがないよ。私が同じ立場でも無理だって」
理解を示したのに、ミツクニの顔は晴れなかった。
その気持ちには覚えがある。抱えるものが大きいと、自分の思うようにはいかないものだ。
「ハンゾウ」
ミツクニに呼ばれ、静かにハンゾウは退室した。
入れ替わりに廊下からテンカイが入ってきた。
「またね」
振り返ったハンゾウが少しだけ笑みを浮かべ、すぐに表情を消した。
部屋にテンカイと二人になる。
「主様」
「テンカイ。今から私が言う術を私にかけて」
「儂の術を我が身に受けると? それはそれは……」
テンカイが心底愉快そうにしている。普段はそれなりに隠している嫌な顔が出ている。
「安全性は二の次でいい」
テンカイはすっかり乗り気になっていた。
どんな言葉がやる気を出させるか、主をやめたって忘れはしない。
テンカイに術を施された私は、堂々と城内を歩いた。
家老と歩いていたミツクニは私を見て、「は?」と領主らしからぬ声を漏らした。
「なんでこんなとこ歩いてんだよ」
「ちゃんと私に術をかけているから。襲ってくれた方が、相手を捕まえられるでしょ」
「危ないことはよせ。相手はご主人も狙ってるんだぞ」
「それ、今初めて知った。だってみんな教えてくれないんだもん」
ミツクニはしまったという顔をし、苦々しげに歪めた。
「でも考えて、私を囮にして襲撃者を捕まえられるの、悪くないでしょ」
「馬鹿野郎」
怒鳴られてキョトンとした。
「……襲われるのは城内の人より私の方がずっと慣れてる。それに私……江戸の人じゃない」
言ってて苦しい。ミツクニを突き放す言葉だ。
けれど、私たちは自分以外の命を守る義務がある。
「オレの指示に従うってあんた言ったろ。あんたは大事な客だ。怪我なんて一切させられねえよ」
ミツクニにとっては大事な客。
でも他の人からすると、ただ厄介ごとを持ち込むタダ飯喰らいだ。
仕えた領主を惑わすだけの迷惑な存在。
「あ、ほら! 人が呼んでる。行っておいでよ領主さま」
ミツクニは舌打ちをしていった。
呼ばれれば私たちは、いや、あなたは行くしかないんだよ。
監視がなくなった私は江戸城の廊下を堂々と歩いていく。
教えてくれないなら勝手に調べればいいだけ。簡単なことだった。
歩きながら周囲の様子に神経を尖らせる。
文官が巻物を抱えて走り過ぎる。だが武官は中庭で普段通り素振りをしている。
鎧は出ていない。
昼食の膳はいつもと同じだった。出入りする魚屋の顔も変わらない。
独神が襲われたのに、城は戦の支度をしていな────
気配に気づいた時には遅かった。
壁に叩きつけられて、扉が閉まった。暗い。
そして先日と同じく目隠しをされ、暴れる私を抑え込んだ。
今回の方が隙がなかったのかもしれない。
ひとしきり暴れた後は、疲れてぐったりとしてしまった。
今回は身体を開かれることなく、手足を抑えられているだけ。
「…………先日のひと?」
答えてくれない。
「……今日は襲わなくていいの?」
私のおしゃべりを許す時点でもう肯定しているようなものだ。
「……黙っておく?」
足を数度、軽く叩かれた。多分そういうことだ。
私はしゃべらない方が都合がいいらしい。かといって、猿轡をするほどではない。
私は頷くことで相手に伝えた。
そこから先、何もしてこない。
私は、目隠しの下でひっそりと目を開けた。
透視とは少し違う。
生き物の魂がよく見える。
テンカイが活きのいい贄を選ぶ時に使う術をかけてもらった。
私はそもそも独神という特性上、魂の形を肌で理解している。
目と合わされば、暗闇だろうと命を正確に感知できた。
部屋の中には一人だけ。他にはいない。
この一人さえなんとかしてしまえば逃げることも可能だ。
「っ」
腕を押さえつけられた。怪しまれたか。
しかし目のことはバレていないだろう。
「ごめんなさい。気が動転しただけ。あとはおとなしくするから」
じっとしていれば、なにもされない。
その隙にじっくり観察する。
城の隠し部屋だろう。歩いていた位置と引っ張られた距離で判る。ここには二人だけ。誰の目もない。
なのに、何もしてこない。
一度目は違った。寝所で、庭からも見える場所だった。
わざわざ身体を開かせたのは見せる必要があったのだ。誰かに。
このひとは、襲撃者のふりをしているのではないか。
もう少し試してみるか。
「ねえ。少し痛い。どうせ私は弱いんだから、手くらい放してくれてもいいんじゃないの。……だめ?」
あくまで頼む姿勢で。
だがさらにぐっと押さえつけられた。やりすぎた。次。
「独神なんて邪魔でしょ。だったら殺せば手っ取り早いじゃない。交渉の人質にだってならない。だって私はただの客で江戸と関わりなんてない。利用価値がないの。所詮かざりの肩書しかないんだから」
反応はない。
さて。困った。
なにかしら感情や行動の動きがないと、情報を得られない。
相手を無理やり動かしてみるか。
私は腕に埋め込まれた術を意識する。
「…………むり」
ぼそりと呟く。そうすれば発動し、腕を着火地点に爆破が起きた。
本当は「無為」が発動の言葉だが、「り」と「い」の真ん中にしている。
でないと、腕が取れますよ、とテンカイに笑顔で言われたからだ。
最高に嫌な元部下だ。でも最高だ。
私のお願いを過不足なく叶えてくれた。
自爆での規模は小さく、腕だけがひりひりと痛い。火傷しているのだろうが、手先はちゃんと動くので問題はない。
テンカイめ。かなり痛いと脅してきたくせに、あちあちの鍋に腕があたったくらいの痛みしかない。
この爆破の中で私は逃げ出す。
当然襲撃者はすぐに察知して私を押さえにかかる。
「っぐ」
襲撃者によって抱え込まれた。抱きつかれたとも言い換えられる。
でもこれ。私は知っている。この感覚。
背中に当たる胸板の厚み。胸の下に回された腕。私の身体をどこも傷めない、この力加減。
決して強引ではない誘導ながら、自然と従ってしまう体重移動によって、その場に座らされた。
間髪入れずに腕を掴まれた。しかし肘より下、火傷の部分には触らない。
私はその隙に、私を掴むその手を掴んだ。
指の形。知ってる。爪の形。知ってる。皮膚の感触。……知ってる。
私は震えそうになるのを必死に抑えた。
関節の部分に小さな傷を持つ手は困惑しているようだった。
そっと私の手を握って、私の膝に置いた。
「ごめんなさい」
自然と零れ落ちた言葉。
よく言っていたのだ。
つい熱くなってしまいがちな私をいつも身体を張って止めてくれていた。
その度に私は子供みたいに謝った。
そして今も、聞こえないのに、溜息が頭の上に降りかかったような気がした。
いつものように見上げても、何も見えないけれど、呆れ顔がそこにある。
そうだ。
やっぱりそうなんだ。
サスケがそこにいる!!
大人しくするのはやめだ。
目隠しを捨て去って姿を見たい。話したい。
それから、すぐのことだった。
何が何やら一瞬のことでよく判らなかったけれど、誰かが部屋に入ってきて大きな物音が続いた。
目隠しを取られた時、目の前にいたのはモモチタンバだった。
見回してもそれ以外にいない。
「え。なんで……?」
「呆けた顔をする暇などない。来い」
タンバに急かされるまま連れられる。
連れ込まれた部屋は、予想していた部屋で、そこから出ると廊下に出る。
ミツクニもいる。テンカイも。
「術は上手くいったようですね」
「え。ああ。うん」
「良かったでしょう。術と同時に位置を感知できるようにしておいたのですよ」
「ああすごいね」
私が思うより先まで見ていてくれて優秀なひとだ。
それが裏目に出てしまったけれど。
「ご主人!! 無理しすぎだろ! なんで落ち着いてられねぇんだよ」
「ごめん……なさい。やりすぎちゃって、ごめんなさい」
「あ、いや、不安にさせてるのが悪いんだけどな…………」
ばつが悪そうにしているミツクニも、どうでもよかった。
それより、サスケはどうしたんだろう。上手く逃げられたのだろうか。
この二人に見られたのだろうか。
「主殿の手当てをしたい。連れて行っても構わないか」
「あ。もちろんだ! ご主人、悪い。手当てが先だったよな。悪い……」
歩き始めたタンバに私は大人しくついていく。
別室に移ると、タンバは私の手当てを始めた。
部屋には、私たち二人。気配までは判らないから最低限の言葉を選ぶ。
「…………今、どっち」
「本人だ」
「…………見た、よね?」
「ああ。そして主殿の心の内も想像ができている」
「……………………頼んでいいかな?」
「命令ならば」
命令。つまり。責任の所在の確認だ。
だから私は、言った。
「私個人として、モモチタンバに命ずる」
襲撃者の正体を知りながらも隠すことを、江戸の領主と契約を結んでいる忍へ、独神の私が指示した。
この文脈の最悪の意味を理解しながら、私はかつての部下を巻き込んだ。
「……御意」
顔色一つ変えずに私に傅くこの忍に、私はいつも頭が上がらない。
ハンゾウもそうだ。伊賀を率いている組頭でありながら、私に手を貸してくれている。
そうやって好意で手を貸すひとがいて。
私を守ろうとしてくれているミツクニの好意には、裏切りを示している。
英傑から伸ばされた手は、同じなのに。
その日から、朝日を浴びての起床が気持ちよくなった。
着物選びには時間をかけ、髪飾りたった一つに頭を悩ませた。
食事を手早く済ませて、あたりを歩けるだけ歩いた。
城、町、海、市場。どこでも。
「主様。そろそろ戻りませんか」
「もうちょっと」
「四度目ですが……」
誤算だったのはテンカイがやれ腰が痛いだの、仕事が滞るだの言うくせ、私から離れなかったことだ。
襲撃は護衛がいない時に行われていた。当たり前の話だ。
だからこの年寄り悪僧をなんとか離さないといけない。
いくら外法で身体を弄っていても、所詮は人。
隙なんていくらでもあるだろうと高をくくっていたのだが意外となかった。
いつ用を足しているかも判らないなんて、あり得るだろうか。
食事も風呂も就寝も、とにかくテンカイがいる。
風呂なんて一緒に入ることになってしまって困った。
「どうやら主様は儂から離れがたいようなので、共に済ませてしまいましょう」
向こうもまた、私がどういう者か知っている。脱出のためなら裸でだって逃げ出すと読んだのだろうがその通りだ。
入浴を共にするなんて、ミツクニが何か言うだろうと思っていたが、何も言わなかった。
良い気分ではないはずなのに、嫌な顔一つ見せない。
それが、少し、気に入らなかった。
でも仕方がないのかもしれない。
江戸への襲撃とあって城全体がバタバタとしている。
その対応に忙しいのだろう。
だから私は何日目かの就寝の時に言った。
「ミツクニ。寝る時に私といなくても大丈夫だよ。テンカイがいる」
ミツクニはみるみる機嫌が悪くなった。
「つまりオレが邪魔だってか?」
私もまたその言い方にカチンときた。
「そんなのじゃなくて、有事の際ほど対応を見られるでしょ。私なんかに構うよりここで働く人々を大事にしなよってこと。独神なんて所詮は外様でしかないんだから。上に立つなら、優先順位をつけないとってこと」
ミツクニは私の肩を掴んだ。
「それがどうして、オレがあんたをないがしろにする理由になるんだ。オレがあんたを大事にしちゃ駄目なのかよ」
「客観的に見て、私の優先度は下げるべきなの。既にテンカイを四六時中つけているのだって良く思われてない」
「だったら大人しくしてろよ。毎日ふらふら出歩いて」
ミツクニが止まった。
「……それとも、襲撃を待ってんのか」
「テンカイが隣にいるのに襲われるわけないでしょ」
すぐさま返せた。間なんて与えず。
「まあまあ。お二人とも、おちついて」
テンカイがいることすら忘れて口論をしてしまった。
私は一旦飲み込んだ。
「…………ここは本殿よりもずっと基盤が弱い。悪知恵を働かせる人だって沢山いる。私が原因で足元すくわれてほしくないだけ」
「あんたの本殿は忠誠心において完璧だったさ。……あんたから見りゃオレはまだまだだろうよ」
「いやだから」
「はいはい。主様」
口を手で覆われた。
「ミツクニ様。儂らは少し、話をしてきます。今夜は雑音なくごゆるりとお休みください」
口をふさがれたまま、テンカイの部屋へ連れていかれた。
私は拘束を振りほどいた。
「主様。先ほどの言動はあまり良くはありませんでしたよ」
「なんで。間違ったこと言った? 妻でもない女構ってる暇あるなら事態を収拾しろって思われるでしょうが」
「判っておりますよ。それは儂もミツクニ様も」
テンカイが、後ろから私に抱きついた。
こんな時に何するんだと、暴れて抵抗したが放してくれない。
大きな手が這う。
胸へと。
いや違う。私の真ん中。心臓に手を置いた。
「襲撃を望んでおいでですね。…………本当に儂らのことを考えて下さるならば、心優しき主様はきっと部屋にずっといるはずですよ」
さすがの私も拍動までは制御できなかった。
心拍数が上がる。
「おやおや、心の臓がずいぶんお早いようで。もしや儂のことを意識してくださいましたか?」
なにもできない。
なにも言えない。
「…………人の胸触るなんて僧でなくても駄目だよ」
「これは失礼しました。手を回させていただいたときに丁度当たってしまいまして」
テンカイが私を解放してくれた。
「…………ミツクニには謝るよ。私が悪かったって」
「そうですか。主様が決めたならそれでよろしいかと」
私はテンカイとともに部屋に戻った。
ミツクニは寝ているはずもなく、蒲団の上で胡坐をかいていた。
「……おう」
「さっきはごめんなさい。私が勝手だった」
「いや。…………オレだって本当はご主人の傍についていたいんだ。それは判ってくれよ」
「……うん」
目を伏せていると、ミツクニが撫でてくれた。
「可愛い顔が台無しだぜ。…………あんたは自由にやるのが一番”らしい”んだ」
今一番顔を見られたくない時なのに、ミツクニはそう言いながら私の頬に手をやって無理やり向かせてきた。
「…………おやすみ、ご主人」
額に口づけられた。
返事もせず蒲団に戻ると、もう隣でテンカイが寝ていた。
私も大人しく寝ることにした。うつ伏せで。左右どちらにも向きたくなくて。
寝るにはかなりの時間を要した。
朝になったらミツクニはいなかった。テンカイ曰くもうお仕事ですよ。と。
最悪の目覚めだ。
自己嫌悪。
私が悪かった。
あんたからすりゃオレはまだまだだろうよ。と言うのが、頭を離れない。
ミツクニが一国の主として未熟だなんて思っていない。
よくもまあこんなにバラバラな人たちをまとめ上げ、信頼を集めていると尊敬している。
なのにミツクニは、自分が私の過去の手腕に劣ると思っている。
違うのだ。あれは有事だったからこそまとまっただけだ。
平和の時代にまとめあげるほうがよっぽど難しい。
そしてバラバラなひとのなかには私も入っている。
好き勝手やっている私になんだ。自由にやるのが一番らしいだなんて。かっこつけにもほどがある。
本当は心の中で叫んでいるだろう。
こんなに自分は尽くしているのに何故裏切るようなことをするのか。
お前に義理も礼もないのか。って。
「おや主様。今日の外出はいかがなさいますか」
「今日はいい。部屋で本読んで寝てる」
「左様ですか」
その日の私は、たまに外を眺めるにとどめた。
外出はやめた。
城内も歩かないように、殆ど部屋に引きこもった。
時折ミツクニが訪れた。私の好きな和菓子を持って。
新作、見た目がきれいなもの、高級そうなもの、沢山持ってきてくれた。
でも一緒には食べてくれなかった。すぐに仕事に行った。
テンカイとつつこうにも、粗食を心がけているなんて僧みたいなことを言って遠慮した。
私のためだけの菓子を、私だけが食べたってつまらない。
無意識に窓の外を見てしまった。
「なにか気になるものでも?」
「鳥を見ていただけだよ」
四六時中テンカイがいる生活に慣れ、テンカイの部屋は私の読みかけの本や、非常食で散らかっていた。
「ねー。テンカイー。これ新作出てないの?」
「昨日出たばかりですよ」
「毎日新刊出してほしい。はぁ。また最初から読むかぁ……」
「共に読経でもしますか」
「暇だからいいよ」
一緒に読経する。
長ったらしいのだが、日々唱えていると少しずつ覚えてくる。
この調子なら暗唱も夢じゃない。
小さな達成感を楽しんでいると、廊下の足音が近づいた。
「テンカイ様! 結界の揺らぎが発生しました」
テンカイがすくっと立ち上がる。
「主様。儂は確認をしてきます」
「はいはい。いってらっしゃい」
私は部屋に一人になり、部屋の静けさが重くのしかかる。
代わりの護衛もいない。話し相手がいなくてつまらない。
だがこれは────好機だろうか。
いやいや、こういう時こそ何かあるものだ。大人しくしないと。
ああでも。
経本を置いて、そっと立ち上がった。
一回だけ。すぐ帰ればいい。
城回りだけ。それだけ。
私は人目を盗んで歩いた。
通常時より役人が多く配置されている。
一見すると日常であるが、少しでも内情に詳しければ警戒態勢を取っていることが判る。
顔の割れている私が歩くには難しいが、言い訳はなんとでもできるだろう。
石垣に沿って歩く。角を曲がると人通りが途切れた。日陰が深い。襲うには良い場所だ。
植え込みの向こうに人影があって足を止めた。庭師だった。
いつもの若い人だ。私を独神と知って遠慮なく話してくるから、今日は避けて歩く。
赤く塗られた橋を渡る。欄干から堀を覗くと、水面の下に暗がりがある。人ひとり、身を潜められそうだった。
渡り廊下が途切れる場所。蔵と蔵の間の細い隙間。屋根から降りれば誰にも見られない軒下。
そういうものばかりが目に入るたびにドキドキして止まらない。
少し足をのばしつつ、ぐるっと城を回った。
なにもなかった。
残念。
本当に残念。
部屋に戻ると、テンカイがすでにいた。
「おかえりなさいませ」
「ただいま」
それだけだった。
後ろにはミツクニもいた。最悪だ。
「あの、ミツクニ」
「ご主人。聞いてくれるか」
言い訳をミツクニはさえぎった。
「襲撃者を捕らえた」
テンカイが静かに続けた。
「先ほどのことです。賊は甲賀の忍とのことです」
それ、私が心を弾ませて歩いているときには、もう捕まっていた、ってこと?
「もう安心していいぞ」
私は満足そうにしているであろうミツクニの顔を一切見られなかった。
「……良かった。じゃ、私は部屋に戻るよ」
部屋を出るとテンカイが当然とばかりについてきた。
どうでも良かった。黙っていてくれるならどうだって。
城内を歩きながら耳を澄ます。
襲撃者が捕縛できて喜んでいるようだ。
賊は他にもいるとの声もある。
「テンカイ。結局この騒動はこれで終わったの?」
「いいえ。まだ賊はいるでしょうね」
敵は複数。まだ希望はある。
「ねえ、捕まえた人に会いに行ってもいい? いいよね。直接会ったの私なんだから。もし見て、違ったらまだ私を狙う人は捕まっていないってことだもんね?」
「いいですよ」
あっさりとテンカイは許可し、すぐに案内してくれた。
靴を履き替え、城外へ向かうはずがとんぼ帰りした。
「牢屋敷に行くんじゃないの」
「本来であればそうなのですが、みだりにこちらの情報を流されても困りますので」
テンカイは蔵へ行き、壁についている板を三枚、順に押した。
壁の一面が音もなくずれて、下への石段が現れた。
他の者が見てもただの壁にしか見えないだろう。
テンカイは振り返りもせず先に降りていく。手にした灯明の火が壁に揺れて、テンカイの影だけがやけに大きく伸びた。
二度目の角で、光が完全に消えた。
どんどん石段が狭くなっていき、肩が壁に触れそうになる。
石が湿っていて、足を置くたび水の膜を踏む感触がある。
闇の中へ進むにつれて空気が変わっていく。
土と錆と、そして、甘い匂い。
知っている匂いだった。戦に舞う赤い鮮血。喉の奥がせり上がった。
テンカイの灯明が照らす先は三歩分しかなく、その向こうは闇一色だった。
もう一度曲がった先に、鉄の格子があった。
「…………なんで」
冷たい鉄の檻に入れられていた。
わたしのすきなひとが。
足が動かない。
あれだけ見たかったのに。
「なんで。なんで、こんな」
かつて私の傍で支えてくれたサスケが、そこにいた。
手首には重々しい鎖が巻かれ、その端は冷たい壁に繋がれている。
私は頭を抱え、指先が頭皮に食い込む。視界が滲んでいく。
「……どうしてここにいるの。サスケ」
サスケは微動だにしない。うつむいたまま、影に溶け込んでいる。
しばらくして、テンカイが口を開いた。
「……そうなると思って、儂らは隠すことにしました。牢屋敷に収容できない理由もお判りでしょう。独神がいる江戸で英傑が反逆したなどと民を混乱させてしまいます」
足が勝手に動いていて、格子に近づいていた。
「サスケ」
返事はない。うつむいたまま、動かない。
「顔、上げてよ」
しばらく間があった。
ゆっくりと、サスケが顔を上げた。
目が合った。
怪我はない。どこも汚れていない。捕まったのに、傷ひとつなかった。
何も言えなかった。サスケも何も言わなかった。
地下の空気が冷たい。水が壁のどこかから滴っている。
サスケの目がわずかに逸れて、また戻った。
手を伸ばすと、檻に触れる寸前にテンカイに腕をつかまれた。
「おやめください。対英傑用に術を施したものです。いくら独神とは言え身体が持ちません」
触ることもできない。こんなに近くにいるのに。
「…………テンカイ。サスケの処遇はどうなるの」
「処刑しかありませんね」
けろっと言う。あっさりと。思わず目をむいた。
「主様。よくお考えください。サスケ様……いや、サルトビサスケは江戸の情報を盗み、他国へ流した重罪人。おとがめなしとはいかないのですよ」
「…………」
内容は確かに処刑ものだ。
庶民まではこの騒動は知られていないが、城内のものは賊の存在を知っている。
なにもなしとはいかないだろう。
けれど、だからといって、かつての仲間を手にかけるというのか。
「ミツクニと話す」
震える声でそれだけを告げると、私はテンカイの手を振り切り、逃げるように地下の階段を駆け上がった。背後でサスケを繋ぐ鎖の音が追いかけてきた気がして、耳を塞ぎたかった。
執務室に飛び込んだ。
「ミツクニ!!」
机に向かっていたミツクニが、驚いたように顔を上げた。私の顔を見るなり痛ましげな表情を浮かべた。
「……やれやれ。テンカイの奴、見せちまったのか」
「サスケを、どうするの……?」
詰め寄る私に、ミツクニはすぐには答えなかった。
窓の外の江戸の街並みを一瞥してから、静かに私を見つめた。
「ご主人。オレは江戸の領主だ。この町を守る義務がある」
「判ってる、そんなこと! でもサスケは……!」
「判ってねぇよ」
ミツクニの声が、これまでにないほど低く響いた。
「あいつはオレたちの内情を、敵対する勢力に売ったんだ。あんたが知るあいつは『英傑』かもしれないが、今のあいつは『江戸の敵』なんだ。見せしめに殺すしかねぇんだよ」
私は歯を噛みしめた。
サスケは忍。依頼人に左右される。
同じ屋根の下で暮らした仲間とか、昔の主とか、そういうのは無関係。
忍は金さえ払えばなんでもやる集団だ。
なんでよりにもよってなんで江戸の内情なんて。一番罪が重いものを。
「……ご主人、あんたを悲しませたくねぇ。でも、これだけは曲げられねぇんだ」
上に立つ者の責務は、痛いほど判る。自分もそうだったから。
けれど、私だって曲げられない。
私は机に縋り付き、なりふり構わず頭を下げた。
こぼれた涙が机の上に落ちていく。
「お願い。猶予が欲しい…………」
長い、永遠のような沈黙が流れた。
「……三日だ」
ミツクニが絞り出すように言った。
「処刑まであと三日。その間だけ、あいつの身柄はあんたに預ける。……ただし、テンカイの監視付きだ。逃がそうなんて考えるなよ。もしそんな真似をすれば、さすがの独神もお尋ね者だ」
「……ありがとう」
私はミツクニの顔を見ることができなかった。
彼が私を想う気持ちを利用して、無理を通した自覚があったから。
三日。
私は、三日で確かめなければならない。
わぁ~。マルチエンディングだぁ。
どっちに転んでもハッピーエンド。
見ている人はどっちがいいかな~。
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