ホーム
小説
絵
日記
イベント・発行
ブックマーク
メールフォーム
→返信
応援する👋
闇取引の件から一ヵ月。
真夏の暑さが和らぎ始め、朝夕には僅かな秋の気配が漂う頃。
夜風に揺れる提灯の明かりが、まだ暑さの残る通りに涼しげな影を落とす。
前の町とは違い、ここでは誰も二人を怪しむ様子はない。
町を巡る商人たちの間では、あの街道の噂は既に広まっているだろうが、この町の人々にとって、それはまだ遠い場所の話でしかない。
葉擦れの音が涼やかに響く中、今宵も商人たちが宿の談義所で商売の話に花を咲かせている。
彼らの笑い声に耳を傾けながら、独神は密かに安堵を覚えていた。
見知らぬ土地で過ごす時間は、オオタケマルとの関係にも、ゆるやかな変化をもたらしていた。
独神はとにかくオオタケマルには逆らわなかった。命を奪うこと以外はなんでもやった。
盗みも諜報もやった。暴れるオオタケマルを止めなかった。
オオタケマルはそこそこ機嫌が良く、なんでもないことで独神を連れ歩くこともあった。
取るに足らない雑談もよくした。
そんな平穏な日々が続いた明くる日の夕方、障子の外を風魔の忍びが駆け抜けた。
着物を畳んでいた独神はそっと障子の隙間に耳を寄せた。
伝令から小声で伝えられた。
「明日。夕暮れ。中央の神社へ」
それだけ言うと、素早く立ち去って行った。
独神は溜息をついた。
(会いたくない……。でも……)
会う約束をしたのは自分だった。反故には出来ない。
丁度外出しているオオタケマルにどう切り出そうか。
少しずつ修復できた関係を、また壊すかもしれないと思うと気が重い。
独神は重苦しい気持ちで、もう一度溜息をついた。
すぐに腹をくくった独神は、夕食の時にオオタケマルに言った。
「フウマコタロウの部下から連絡が来たわ」
箸を持つ手が止まる。
「明日。夕暮れ。中央の神社。だそうよ」
「んなもん、律儀に守る必要はねェ」
即答だった。独神は予想していた反応に、軽く目を伏せる。
「でも、会わないと何するか判らないでしょう? だったら会って、一旦満足させた方が良いと思うの」
オオタケマルは箸を置き、独神をじっと見た。
「なに企んでやがる」
「何も」
即答で返す独神に、オオタケマルは舌打ちをした。
「手前のことだ、どうせ何か考えてんだろうが」
本当に何も考えていない。
ただコタロウを遠ざけたいだけ。
何かを考えているのは向こうの方だ。
「あの忍も。例によって余計な手出しをする気だろうが」
「それはある。……どうにか良い条件を引っ張ってこれたら良いのだけれど」
観念したように答える独神に、オオタケマルは大きく舌を打った。
「俺も連れていけ。その場にってわけじゃねェ。気配は消してやるよ」
「それは駄目よ」
即座に否定する独神に、オオタケマルの目が険しく眇められる。
「なにがだ」
「コタくんは私と二人きりで会いたがってるの。他の人がいたら、きっと姿を見せないわ」
オオタケマルは黙って独神を見つめる。その目は次第に冷たさを増していった。
独神は、その視線の意味を理解しようとしていた。
やがてオオタケマルは、ゆっくりと、まるで舌の上で言葉を転がすように告げた。
「……ならよォ、いっそあのガキを手籠めにしちまえば、操れるんじゃねェか」
「嫌」
考えるより先に言葉が出た。感情的で、子供じみた拒絶。
その反応に、オオタケマルの目が危険な色を帯びる。
「殺し以外はやる……。そう約束したのは誰だったかねェ」
オオタケマルがゆっくりと立ち上がる。その影が独神に覆い被さるように伸びた。
「嫌だと言える立場だと思ってんのか?」
独神は小さく体を震わせた。
「相手は忍よ。それも下忍じゃなくて、組頭。私じゃ……」
「向こうは手前に御執心じゃねェか。さっさと股開いて言いなりにさせりゃ良いだけだろうが」
「だ、だからっ! そんなこと簡単に……!」
オオタケマルは冷たく笑う。その口元が残忍な形に歪んだ。
「俺は手前の馬鹿げた不殺ってやつを尊重してやったぜェ? 次は手前の番じゃねェのか?」
オオタケマルは窓の外を見やった。街道を行き交う人々の姿が見える。
「……それとも、俺が殺しをしても良いってことにするか? そん時は呑気に暮らしてやがる英傑にもちょっかい出させてもらうけどなァ」
独神はじっと畳を睨みつけた。
最善は何か。考えた。
「……判った」
掠れた声で答える。
「やれば、いいんでしょう? コタくんと……」
「ああ。あの組頭様を手前が飼い慣らせ。そうすりゃ俺も大人しくしてやるよ」
独神は俯いたまま、小さく頷いた。
その仕草を確認すると、オオタケマルは窓から離れた。
だが、その目は依然として鋭い光を宿したままだった。
「……裏切んじゃねェぞ」
その言葉は、まるで呪いのように響いた。
***
翌日の夕暮れ時。
風が石段を吹き抜けていく。
石段に腰を下ろした独神は、境内に誰もいないことを確認していた。
昨夜のことが、重く圧し掛かる。
でも今は、それを考えているわけにはいかない。
(来てるのは分かってるのに。相変わらず、こういうの好きね)
独神が軽く溜息をつくと、夕闇が人の形を成すように、そこにコタロウが立っていた。
「独神ちゃん、随分と待たせちゃったね」
まるで昔と変わらない無邪気な笑顔。だがそれを全て信じてはいけないことを独神は知っている。
「コタくん。久しぶり」
「うん。でも、ずっと見守ってたよ」
「知ってるわ。あなたの配下が何人も私の周りにいるもの」
コタロウは独神の隣に腰を下ろした。二人の間には、ほんの僅かな距離。
それでも、その距離は昔より確実に開いていた。
「へえ、気付いてた? さすが独神ちゃん」
「風魔の組頭に戻ってから、随分と里の名が上がっているらしいわね」
「まあね。でも僕は変わってないよ。独神ちゃんのためならなんでもする。それは昔から同じ」
その言葉に、独神は微かに眉を寄せた。二人の過去が、夕闇と共に思い出される。
戦場で、市中で、本殿で。
血で血を洗う日々の中、コタロウは本当に独神のためだけに戦っていた。
だからこそ、今の言葉には重みがある。重すぎる。
「私のために血を流すのは、もう終わりにして」
「うーん、それは約束できないかな」
子供のような仕草で首を傾げるコタロウ。
その無邪気さの裏に潜む危うさを、独神は見逃さなかった。
独神はコタロウの働きの全てを知らない。
きっと「独神ちゃんのため」という大義の下、多くの悲劇を生んだことだろう。
「ねえ、折角だから英傑たちの様子を教えて。色々知っているんでしょう?」
話題を変える独神に、コタロウは従順に頷いた。
その様子は、まるでお伽番のようだった。
「あ、そうだ。ビンボウガミの話、面白いよ」
独神の表情がぱっと明るくなった。視線も、自然と空へと向く。
「人々の中に溶け込もうとしてるのは、知っているわ」
「最近、人族で仲良い人がいるんだよ。結婚も視野に入れてるって」
両手を軽く合わせて喜ぶ独神。声音まで弾んでいた。
「それは良かった! きっとできるって信じてたわ」
最後の言葉を、独神は思わず口にしていた。
コタロウは大きく頷いている。
「そう、独神ちゃんの信じた通りになっていくんだね」
その言い方に、独神は何かが引っかかった。
独神の言葉が途切れる。
夕暮れの風が、二人の間を吹き抜けていった。
「あ。そうそう、この前英傑見かけたんだけど」
「誰?」
「アマツミカボシ。道場の前でね」
「へえ。アマツミカボシ? 懐かしいわ」
独神の声音が柔らかくなる。
英傑の名を口にするだけで、心が温かくなるのは、今も昔も変わらない。
「面白いんだよ。寺子屋の子供たちに剣術教えてる」
独神は思わず声を上げそうになった。
「あのこが!?」
「うん。最初は護衛として来ただけなのに、今じゃすっかり馴染んでて」
「子供と? とっても素敵だわ」
「子供の手作りのお守り大事そうに持ってたり、貧しい子の弁当におにぎり追加してたり。らしいよ」
独神はそれを聞いて笑っている。
「怪盗の経験ね! 生きてると何が役立つか判らないものね」
英傑の話に心が躍る。この時間が永遠に続けばいいのに。
贅沢を言うなら、さっきから、石段の向こうで感じる視線なければもっと良い。
(きっと風魔の忍ね。コタくんのことだもの。見張りは仕方ないわよね)
こうして、英傑たちの近況を語り合う中で、独神の表情はどんどんと和らいでいった。
それは普段の仮面とは違う、素直な柔らかさを帯びていた。
「みんな、それぞれの生き方をしているのね」
石段に座ったまま、独神は空を見上げた。
その横顔を、コタロウはじっと見つめている。
「オオタケマルってさ」
その名前に、独神の背筋が僅かに伸びた。
今まで避けていた話題。避けるべきだった話題。
「暴れまわるし、強奪するし。ほーんと迷惑なヤツだよね」
「ええ。でも……」
言葉を選ぶように、独神は一瞬の間を置く。
「少しずつ、何か方法が見つかればいいと思うの」
「方法?」
コタロウの声が低くなった。
「何の方法かな」
沈黙が落ちる。
石段に、コタロウの指が食い込んでいく。
「ねえ、独神ちゃん」
抑えきれない感情が、その声を震わせているのだと判る。
「僕とオオタケマル、何が違うの?」
その問いは、独神の心臓を直接締め付けるように響いた。
独神は言葉を詰まらせた。
「……。それは……。私のこと、何とも思っていないから。……かな」
その答えに、コタロウは小さく笑った。
まるで、待っていた答えを聞いたかのように。
「本当にそう?」
コタロウはゆっくりと独神に近づき、その長い黒髪に触れた。
その仕草は昔と変わらない優しさを含んでいたが、今はどこか別の意図が見え隠れしていた。
「独神ちゃんにとって、結局オオタケマルも"救うべき誰か"なんでしょ?」
その言葉に、独神の背筋が凍る。
長年自覚しつつ目を背けていた本質を、見抜かれた衝撃。
「他の大勢の"誰か"と同じように」
コタロウの声は冷たく響いた。
その瞬間、独神の指先が光を帯びた。
術が走る。
生まれて初めて、コタロウに向けて。
(駄目!)
光は一瞬で消え去った。だが、その僅かな閃きが、全てを変えてしまう。
「へえ」
コタロウの声が、夕闇に響く。
「僕に向けて術を使うなんて。独神ちゃんらしくないね」
その声に無邪気さはなかった。
「でも、これで判ったよ」
一歩。また一歩。
コタロウは独神に近づく。その動きには、親しみある軽やかさは残っていない。
まるで、獲物を追い詰める狩人のようだ。
「独神ちゃんはやっぱり変わってないね。僕のこと、みんなのこと、救おうとするばかりで」
差し出された手が、独神の頬に触れる。
その指先は、昔より冷たかった。
「それなのに」
耳元で囁かれる言葉は、墨のような黒が浸食する。
「独神ちゃん自身は、誰にも救わせてくれないんだ」
***
宿の一室。
オオタケマルは窓の外を見つめていた。夜風が入り込んで白髪を揺らす。
独神は部屋に入るなり、その空気に息を呑んだ。
「遅かったな」
いつもより低い声。そして妙に静かだった。
「忍は手前の思い通りに動きそうかァ?」
その問いに、独神は小さく頷いた。
「ええ。少しずつ、話は進めていくわ」
「ほう?」
わざとらしく気のない返事を返した。
「随分と楽しそうだったじゃねェか」
その言葉に、独神は首を傾げてみせた。喉元まで上がってきた焦りを、必死に押し殺す。
オオタケマルの口元が、冷たく歪む。
「大嘘吐きだなァ、独神様は」
最初は小さな嘲笑に過ぎなかった声が、やがて室内の空気を凍らせるような冷たい響きとなって広がっていく。
「手前……。最初っから俺を見下してやがったな」
独神の瞳が、わずかに揺れる。
「八百万の英傑を束ねて、界帝すらブッ殺した独神様がよォ」
オオタケマルは冷笑を浮かべながら、ゆっくりと近づいてきた。
その一歩一歩が、まるで独神の心臓を直接打ち付けるように重い。
「軽く脅されただけで、なんで俺の言いなりになる? ずーっと引っかかってたんだよ」
オオタケマルは独神の真正面に立ち、見下ろすように視線を落とした。
「英傑共への脅しも、俺の支配も、手前にゃ戯れみてェなもんだったってわけか」
「違うわ」
言い訳をしようとして口を開く。でも、それ以上の言葉が出てこない。
目の前の男から放たれる威圧が、独神の喉を完全に塞いでいた。
「俺はよォ、手前の"善意"に付き合わされてたってェことだ。俺を"救ってやる"……とかなァ」
独神がびくりとする。そして気付いた。全部聞かれていたことを。
オオタケマルの拳が、激しく、そして不規則に震え始めていた。
「話は全部聞かせてもらったぜ。手前の"高み"からの慈悲深ェ目線も、英傑共への誘導も、な」
オオタケマルの拳が畳を打ち付ける。その音が、夜の静けさを引き裂いていく。
廊下を駆ける足音。宿の者が障子の外で立ち止まる気配。
「大丈夫でござい――」
オオタケマルが振り向いた瞬間、声が途切れた。
慌ただしく遠ざかる足音。それを、誰も咎めはしない。
「手前の慈悲なんざ、いらねェんだよ」
この二、三ヵ月で見慣れたはずの表情が、今は見知らぬ怪物のように独神を見下ろしていた。
その姿は、昨日まで見せていた馴れ合いの薄皮を、一枚一枚剥ぎ取っていくかのようだった。
「俺の支配がどんなものか、その身で思い知らせてやる」
「……ちが…………」
独神の指先に術が集まりかける。一瞬の閃きで、この状況から逃れることは容易い。
そうやっていつも、力で全てを解決してきた。
平和を説きながら、結局は暴力で押さえ込んできた。
自分が正しいと信じて疑わず、その正しさを力で押し付けてきた。
それが今、皮肉な形で全て暴かれようとしていた。
(私が一番、平和から遠いじゃない)
独神は自分の指を見つめる。
術を使えば簡単だ。暴力を術で制し、心を術で従わせ、全てを丸く収めることができる。
でも、そうやって自分より弱い者たちの心まで踏みにじって、何を成し遂げられるというのだろう。
自分もまた、支配者でしかないのに。
(私は、みんなの幸せを願える立場なの?)
独神として生まれて、人々の上に立つことを決められていた。
この運命を疑ったことも、呪ったこともある。
けれど最終的には、上に立つことを選んで、覚悟した。
我を殺して、民を救うことが正解だと信じ抜いた。
平和になった後は、英傑たちを幸せにすべきだと自然と思った。
そうやって、みんなを救おうとして、結局誰か一人でも救えただろうか。
目の前にいるたった一人を、こんなに怒らせてしまって。
指先の術の光が、月明かりに揺らめく。
かつてこの力で、八百万もの英傑を束ね、界帝すら追い払った。
その力を使えば、今この状況も変えられる。
でも、それは結局、力による支配でしかない。
優しさを装った暴力。善意という名の横暴。
(もう、そんなことは────)
独神の指から、術の気配が消える。
代わりに、深い諦めのような覚悟が芽生えていた。
これが、自分の犯した過ちへの償いなのかもしれない。
誰かを救おうとして、結局は己の力を振りかざして違う誰かを傷つけることしかできなかった「独神様」という存在への清算。
高みから見下ろすことしかできなかった自分への、最後の裁き。
その夜、月明かりが二人の間に落とす影は、もう二度と昼の光では消せないほどに濃く、深いものとなっていった。
これで二話は終わりです。
あれだけ凛としていた独神がとうとう折れてしまいました。
送信中です
※コメントは最大1000文字、5回まで送信できます