ナイショ3(終)

朱色に染まった太陽が海へ潜ろうとしていた。
鴇色の定期船はコンクリートに影を落としながら人を産む。
ぽつぽつぽつと産まれた黒い粒は右の山へ、中央の坂へ、左の漁船へと散っていった。
私はその様子を上から見下ろすと、さっと踵を返した。
勾配が強い舗装された道をリズムよく踏みつけていく。
この島は所謂限界集落で、島民の数も四百人前後の小さな島だ。
島には橋が架かっておらず、本土への行き来は日に二回の定期船のみで、悪天候時には島に閉じ込められる。
勿論スーパーもなければ、コンビニもない。個人商店が数店舗あり、そこで生鮮品や日用雑貨を購入できる。
とはいっても、本当に最低限のものしかないので、あまり頼りにはならない。
花粉症が流行ればティッシュは必ずなくなるので、トイレットペーパーで代用した時も過去の失敗の一つだ。
老人が多い為か小さな診療所は存在しているが、当然ながら最低限の設備しかなく、緊急時にはドクターヘリで搬送される。
本土で過ごしてきた人間から言わせれば、とにかく、不便な場所である。
それでも、生まれてきた所だから、墓を守らなければならないから、他所に行きたくないから、等の理由で島民はこの島に住み続けている。
私みたいな移住者は殆どいないので、島民全てに顔と名前を覚えられ、人気者の気分を味わえることが長所だろうか。冗談である。
島の良い所は、景色だろう。本土にいた頃海の近くには住んだ経験がなく、少し歩いただけで海が見られる環境というのは物珍しい。住み続けて数年だが飽きることなく、毎日綺麗だと思って眺めている。
島の役所に勤めている私は仕事柄外を歩き回る事が多く勤務中に様々な顔を見せる海を見られるのは良い。
その事を島民に話すと、産まれてこの方ずっとあり続ける海を、特別視出来ないそうで、共感してもらえたことは今の所ない。
海を眺めるより、定期船を見る方が楽しいと言う。
島の子供や大人は朝夕の定期船に乗って本土の学校や会社へ行く。
当然定期船は島民だけでなく、外からの訪問者も連れてくる
暇な島民は定期船から知らない顔がいないかをよく確認するのが日課だ。
お金を持っているか、何かを売りつけられそうか、目の保養になるか。重要なのはそこだ。
来たばかりの頃は、来る人を毎回じろじろ見るなんて失礼な行為だと嫌だったのだが、この習慣を毎日見ているとこれが普通と思うようになった。住めば慣れてくるものだ。

「どう?今日は客来てた?」

職場の先輩にあたるおばさんは毎日聞いてくる。

「あんまり見てなかったので判らないです。週末じゃないし、来てないんじゃないんですか。
 ほら、最近悪天候が続くってニュースで言ってましたし、旅行客なら避けますよ」
「えー、でも、もうホテルの予約取っちゃって……とか、自分探しの旅……とかあるじゃん」

おばさんは島出身で高等学校への通学以外で島を出たことが無い。この場合の島を出たことがないと言うのは、本土へ行ったことが無いという意味である。
とにかく暇なので、一日二回の旅行客チェックが楽しみの大半をしめる。
残りの楽しみは昼休憩と帰宅後のテレビだ。
島は高速無線が通っており、やろうと思えばインターネットだって繋がる。
だが所謂限界集落であり、新しい事はあまり受け入れられない島民たちは回線を敷設しようとは思わない。
となると娯楽はテレビになる。
学校で習った現代史で一つのテレビに肩を寄せ合い、時に争ってテレビを見る様子が描かれるが、この島ではそれがまだ普通である。
子供たち──特に本土の学校通う学生──は無線回線を引いてくれと親にせがむのだが、親世代に理解が無い者が多くなかなか望み通りには動いてもらえない。
そんなものだからスマホやゲーム機片手にネット環境の整った我が家の周囲をうろうろと徘徊された。
最初は子供の事だからと思って許していたが、毎日毎日毎日毎日窓の外で人影が右へ左へ動くと気持ちが落ち着かず、何度も夢でうなされた。
自分の精神の限界から役場の偉い人へ掛け合い、今では公民館をフリースポットとし子供たちは「ギガがない!ギガがなくなる!」と言いながら、公民館の敷地に団子になるのがありふれた光景だ。
島のインターネット事情がこうなので、IT社会の波に乗れない大人たちは娯楽施設ゼロで外界から遮断された生活が暇で暇でしょうがない。
暇と言う事は時間に縛られていないので、中身のない会話が何時間も続くのが普通だ。
この話も油断すると長くなるのでさっさと手を打つ。

「私、届け物を頼まれたのでこのまま帰りますね」
「また坂上まで荷物運ぶの?」

しなくても良い苦労してご苦労様と表情にありありと出ている。

「ダイエットに丁度いいですから。それじゃあ、また明日」
「若いわねえ、お疲れさま」

本土に住む娘夫婦から送られてきたという箱を持って、私は職場から更に上へと上っていく。
荷物は船で運ばれるので、元気がある者や坂下に住む者達は自分たちで取りに行くことが多い。
対して、足腰が弱ってしまった坂上の高齢者は誰かに頼んで持ってきてもらったり、島の郵便屋を利用する。
私は仕事柄島を回る事が多いのでついでに、と頼まれる事が多い。
実のところダイエットが目的という訳ではなく、余所者の私がここで受け入れてもらうためには島民に積極的に関わるべきだと考え、進んで手伝っていった結果である。
島民たちは自分たちとは違う日本語を話す私を警戒し、なかなか受け入れてはくれなかった。
島での連絡事項も一番最後。忘れられることすらあった。
当時は傷心中だった事もあり、排他的な態度に病みかけたが、私を退けようとする者にこそぐいぐいと近づいていき、己を晒していくと、結構な確率で心を開いてくれた。
何度も繰り返すうち、ただ得体のしれない余所者を怖がっていただけだったのだと判り、時に失礼なくらい人の輪に入るように心がけた今、それなりに楽しく生活できている。
坂を上っていくと、独居老人が一人住んでいる。子供が巣立って寂しいのか、荷物を渡すと毎回お茶に誘われる。今回もまたそうだった。

「白桃ですか。これって美味しい種類ですよね」
「そうそう、今剥くから上がってな」
「おじゃましまーす」

家に上がり、奥さんの写真が飾られた仏壇で線香をあげる。
亡くなったのは私が島に来る前の事だからどんな人かは知らない。
知らないからこそ、彼女のテリトリーに入る時には必ず線香をあげるようにしている。
ただお茶を飲むだけなのだが、仏壇で笑う彼女が目に入ると申し訳ない気持ちになってくるので、一応。

「今年は薄いな。雨が多かったんだな」
「雨が降ると味が薄くなるんですね」
「桃以外もそうだ。トマトでも苺でも、水が多いと味が薄まる」
「へえ」

おじいさんは何度目か判らない野菜のウンチクを語り始め、貰った桃を散々こき下ろしていく。
一通り終わったら島を出ていった娘夫婦への愚痴だ。どんな話題になっても行き着く話題は同じ。
私は美味しい桃だと思いながらその話を半分くらい聞き、気持ちの半分は朝からつけっぱなしであろうテレビのニュースにある。
全国ニュースに切り替わると昔住んでいた地域付近が映り、私は遠くなってしまった記憶を度々思い出す。
色んなことがあった。あり過ぎるくらいだった。
出来れば思い出したくないものたち。私が捨ててしまったものたち。
もういくつかの記憶は曖昧で、もう輪郭が朧気だ。

「夕ご飯の支度があるのでそろそろ帰りますね」
「うちで食べていきな」
「すみません。今日はもう準備してて。また今度ご馳走になりますね」
「そう言って、他の奴の所では食べてんだろ」
「またまた~。そう拗ねないで下さいよ。またね。桃ありがと!」

大げさに手を振って、坂を滑るように降りていく。
危ない危ない。
寂しがり屋老人に付き合うと最終的には泊っていけと言い出すので、早めの退散がお利口さん。
外を自由に歩けない老人が、配偶者を亡くすと、気持ちが弱る一方でとにかく近づいた誰かに縋ってしまう。
下手に近づくと蟻地獄のようにずるずると引き寄せられてしまい、逃げられなくなる。
私は時折暇つぶしに付き合うのは構わないが、流石にそんな老人たちの残りの人生を背負う事は出来ないので、多少怒らせてもすっぱりと帰るようにしている。

特に今日は誰にも捉まりたくない。誰にも会わないようにさっさと帰宅したい。
今日は本土から来た珍味を食べてだらだらと過ごしたいのだ。
私は海に沈む夕日に向かってタタタタと転げるように下りていく。足の筋肉がぴんと張るが足を止めない。
一歩前に出れば海に飛び込んでしまいそうな錯覚を覚えるが、陸地は続いている。
この感覚は傾斜が多い島だからこそだろう。自然が沢山のこの島を、私はなんだかんだで気に入っている。
面倒な事も多いが、隣人の顔もろくに判らなかった都会とは違って、誰もが私を知っていて様子がおかしければ家を訪ねてくれる。
他人との距離感が狭い事はストレスもあるが、寂しさはない。
寂しくない事が大事な事だ。
私は独り身で、限界集落のここに住んでいては多分最後は孤独死だろう。
だから私はここに引っ越してきた。
ここは海に浮かんだ大きな老人ホームだ。

足の痛みに伴いペースが急速に落ちていき、ペタペタと歩いていると前方の生垣と生垣の間に人影が見えた。
そっと影に隠れる。
この近所だと徘徊する人は何人かいて、半分くらいは話が長く、半分くらいは徘徊癖があるだけの大人しい人だ。
つまり二分の一の確率で外れである。
私は探偵のように足音を立てないようそろりと歩き、先程の生垣に身を隠して角の向こうを覗き込んだ。
後姿は男性だ。スーツを着ているので、老人ではなく本土の会社員だろう。二分の一と二分の一の"外"の結果だ。
大外れ。胸がドキドキする。
痛いほど胸を突くのはなんちゃって探偵ごっこが所以ではない。
勿論足の疲れからのものでもない。
後姿が、昔の知り合いとよく似ていたからだ。
知り合いと呼ぶには少し踏み込んだ関係だったけれど、もう交流はないので知り合いで十分だろう。

落ち着かない気分のまま、私は自宅へ帰宅した。
玄関で靴を脱ぎながら、ぽちぽちと電気をつける。
手洗いうがいをして、届いた珍味の一つを開封して、引き伸ばしとCMの多いテレビを見ながら黙々と食べる。
ネットで絶賛されたレビューを見た時には食べたくてしょうがなかったのに、実際に口にしてみると特に感情が揺れ動かない。
口を動かしながらも頭は別の事がこびりついて離れない。
せっかく忘れていたのに。
顔だって靄がかかるようになってきたのに、あの後姿を目にしてからは急に鮮明に顔が出てくるようになった。
香水の香りまで記憶が呼び覚まされる。
まったく迷惑な話だ。
あの人はもう私とは別の道を邁進しているというのに。
とても気分が悪い。
残った珍味の袋をテープで止め、風呂場に向かい二つのハンドルを捻って蛇口から出る湯を適温に調節する。
ドドドドと言う音を背に受けながら風呂の扉を閉め、そのまま私はサンダルに爪先を入れて外へ出た。
島に転々とある民家もぽつぽつと光が消えている。高齢者の就寝は早いのだ。
街灯もない中、スマホで足元を照らしながら散歩をする。
田舎の良い所は夜に出歩く酔狂な者がいないという事だ。
私が一人で歩いていても誰かと出くわす訳でもなく、考え事には最適だ。
職場とは逆に、坂を下りていくとすぐに海へ着く。
定期船が停泊する所と少し離れたところに個人所有の船が横に並んでいる。
私は船を持っていないが何回か乗った事がある。すぐに酔った。
定期船で酔ったことが無かったので準備をしておらず、控えめに言って地獄だった。
何度も乗るうちに慣れてはきたが、身体が怖がってしまい進んでは乗らない。
乗るのは釣りに誘われた時くらいだ。
船を一つずつ見ていき、今度は本土の方へ目を向けた。
闇の中にぽつぽつと光があるお陰で、日中よりは判りやすい。
本土の生活はもう懐かしいと思えるほど、昔の事だ。
でも時々夢には見る。
高いビルが立ち並び、人がひしめいていて、車ではなく電車やバスで移動する人々の事を。
こことは違い時間に厳しく、他人に無関心だった。
気楽ではあったが、何かあった時の事を考えるとふと怖くなった。
人との繋がりが希薄で良いのは若い時までで、誰かの手を借りなければ日常生活を送れなくなった時はどうすればいいのかと怖かった。
十分な金があればいいが、そうでなければどうすればいいのだろう。
私には判らなかったし、想像できなかった。
それについては、生家に戻って親類を支え支えられるのが一番気楽だと思ったのだが、私は地元には帰らなかった。いや、帰れなかった。
あの人の事で両親に対する後ろめたさを感じてから、タイミングを逃し続け今は連絡もしていない。
最後の連絡がいつかも覚えていない。
多分、どちらかが死ぬまで連絡をする事はないだろう。
……なんて、今日は暗い事ばかり考えてしまう。もう帰ろう。
誰かに出会う事はないとは言え一応夜道だ。
私は船着き場から砂浜へ降りた。細かい砂粒がサンダルの中へ入ってくる。
砂を落とす為に片足立ちをして払っていると、眼前の砂浜で何かが動くのが見えた。
ライトを当てると人のようだった。
──脱走老人だ。
と、私は直感した。ここに住みだしてから知ったのだが、呆けだすと何故か家人の目を盗んで外へ行く。
もしも夜の海に落ちたら助からない。私は急いで駆け寄り、その腕をそっと掴んだ。

「ここにいたんですね。私と一緒にお家へ帰りましょう」

とにかく否定しない事。呆けているように見えても、本人は大真面目だったりするのだ。
とにかく優しく、驚かせないように。
家に送り届けるために顔の確認をとライトを照らすと────絶句した。

「……」
「……」

後ろに飛び跳ねて距離を取った。
砂浜で楕円の光がゆらゆらと動く。波の音が聞こえてこない。心臓のバクバクという音が煩い。

「……久しぶりだな」

知っている声だ。
大昔に何度も耳元で囁かれた声。心地よい音で耳が震える。
立っているだけなのに息が荒くなる。どうしていいのか判らない。
逃げたいのに、足が動かない。声も出せない。

「夜間の女性の一人歩きは危険だ。身体に障るからもう帰るが良い」

なんでこの人がこの島のこんな時間にふらついているのだろう。
この島にも一軒だけ民宿があるが、予約が入ることは滅多になく、あれば周囲に吹聴しているはず。
なのに私の耳には届いていない。

「……泊まる場所あるの?」
「んー……まあ、当ては外れてしまったが、この気候ならば死なぬだろうしその辺で休むさ」

野宿をしようとする壮年男性の腕をもう一度掴んだ。
そのまま早歩きで自宅へ向かう。
誰にも会いませんようにという私の願いが通じたのか、誰にも知られることなく家へ余所者を運び込んだ。
電気をつけながら一番に風呂へ向かって蛇口を閉める。

「お風呂入れたばかりだから浸かって。服はある?」

振り返って見てみると、彼は小さな鞄一つしかない。
いや、それよりもおかしなところがある。
彼の身体に違和感を感じる。服が変だ。いや、違う。変なのは服じゃない。あるはずのものがない。

「……左腕、どうしたの」
「これか。少しばかりな……。気にする必要はない」

気にするでしょ。なんで、どうして。

「……一人でお風呂平気?」
「気を遣わんで良い。そもそも見ず知らずの男が家に上がれば其方の名に傷がつく。儂は外で構わぬよ」
「みんなびっくりするでしょ。余所者がそんなことして。即通報よ。とにかくお風呂は入って。砂がついているとお布団汚れるから」
「……すまぬ。ありがたく頂くとしよう」

彼が風呂に入っている間、急いで寝る準備を整えた。
気候が穏やかな時で良かった。冷暖房器具がいらない。
私は自分のベッドで、彼は倉庫化している部屋で寝てもらおう。
物が少なく殺風景だが寝るには全く困らない。
簡単に掃除機をかけて、布団を敷く。
あとはティッシュやごみ箱でもあれば、困らないだろうか。後で聞こう。
客室の準備は出来るくらいには時間が経った。
片腕がない人間を、風呂に一人にして大丈夫か判らない。
タオルを置くついでに声をかけておこう。
脱衣所へ行くと、手持ち鞄の上に丁寧に畳まれた服が掛けられていた。
着替えのような物は見当たらないので、まだ鞄の中なのだろう。
絶対に見つけられるよう、鞄の上にタオルを置いた。
念の為声をかけた方が良いと思ったが、突然私の前に現れた彼に何と言えば良いのか判らない。
他人の私は彼にどう話しかければいいのだろう。昔はどんな接し方をしていたのかもう判らない。
私は黙って脱衣所を出た。
居間でスマホを触っていると、頬が上気した浴衣姿の彼が現れた。
寝着が浴衣なのは相変わらずのようだ。私はスマホを置いて話しかける。

「何かお困りですか?」
「いいや。気持ち良い湯であった。ありがとう」
「あ、ドライヤー……」

普段は脱衣場に置いてあるのだが、面倒な時は居間に持ち込んでテレビを見ながらスマホを弄りながら、乾かしている。
昨日がその面倒な時だったせいで、彼の髪は湿り気を帯びていて、くせ毛がすっかりぴんと落ちていた。

「ここに座って。ここで乾かすから」
「いや、借りられるだけで十分すぎるほどだ」

まただ。彼は私と会ってから、遠慮ばかりだ。赤の他人ではあるのだがひどく落ち着かない。

「いいから。家主の言う事は絶対です」

彼の腕を引いて椅子に座らせると、私は強制的に髪を乾かし始めた。
手櫛でくせ毛を伸ばしながら、彼が綺麗に見えるように乾かしていく。
こんなの付き合っていた頃でさえしなかった。終わってからするようになるなんて。
昔はなんて不自由だったんだろう。
これもこの人が変な肩書を持っていたから──私は、彼の秘密を思い出した。
裏社会を牛耳るような男が何故こんな所へいるのだろう。周囲が彼の奇行を許した事にも得心がいかない。
彼がいた町とは遠く離れたこの地で、彼の商売や支配権などとは無関係のはずだ。
彼に今すぐにでも聞いてみたいと思ったが、冷静な私が囁く。
他人の私が知る必要あるのかと。
縁を切った相手に必要以上に関わる必要はない。関わればまた……。
私は黙って手に温風を当てながら彼の髪を梳いた。
綺麗で言う事を聞かない髪は湿気がなくなるとすぐにくるりと曲線を描こうとする。根性曲りは誰に似たのか。

「出来ました。気になる所はありますか」
「いいや十分だ。ありがとう」
「お布団なんですが別室に用意しましたのでこちらへ」

案内ついでにトイレの位置も教える。
彼は短い返事だけで、何の雑談もしてこなかった。
必要なものはあるかと聞いても、十分だとしか言わない。

「何かあったら遠慮無く言ってください。私は居間の隣の部屋で寝ていますから」
「判った」
「明日も仕事なので私はしばらく休んだら寝ます。おやすみなさい」
「おやすみ」

扉の向こうに彼が消え、少しだけ耳を澄ませた。音はない。
私は身を翻し、風呂へ入ることにした。
湯船に浸かりながら考える事は彼の事だ。そういえば昔、彼の家で一緒に入ったっけなと。
うちの風呂とは違い、大人二人が入っても余裕な風呂なのに、わざわざ抱きしめられて入ったような覚えがある。
私はそっと右手で左腕に触れた。……いや、止めよう。
沸き上がった感情を振り払うように立ち上がった。
寝る準備を整え、もう一度彼がいる部屋の前に来た。また耳を澄ましたが何も聞こえない。
生きているのだろうか。少し不安になる。「おやすみなさい」と声をかけ、私は自室に帰った。

──朝、少し早めに起床し、簡単にだが朝食を作った。……二人分。
身嗜みを整え、出勤の準備を終えてから、彼の部屋の扉をノックした。

「おはようございます。起きていらっしゃいますか?」

中からくぐもった声が聞こえ、衣擦れの音をさせながら扉が開いた。

「おはよう。……すまぬ、今起きたところだ」

浴衣を乱し、目が半開きの彼のだらしなさに少しだけ肩の力が抜けた。

「私は今から出勤します。朝ご飯はテーブルの上にあるのでどうぞ。
 必要なものは好きなように家を探って下さい。私の部屋以外なら問題ありませんから。
 あと鍵は開けっ放しで大丈夫です」
「すまぬ。気を遣わせた」

また彼は謝った。何度目だろうか。

「別に。……一人も二人も同じですから。それじゃあ」
「いってらっしゃい。気を付けるのだぞ」
「……いってきます」

廊下に投げてあった鞄を拾い、私は勤務先まで続く長い坂を歩く。何年住んでいても息があがる。
道中近所の人と会い、その度に挨拶を返した。

「楽しそうだね。良い事でもあった?」
「ちょっと、料理が上手くいったから」
「そんだけ?」



島の仕事は大概ルーズだ。時間も内容も、前時代的。
書類が手書きなのは当たり前。なんでもFAX。メールなどない。書類があるだけまし。
私はだらだらと仕事をこなし、昼は帰宅する事にした。あの人の昼食を忘れていたのだ。
彼がこの島の事をどれだけ調べたのかは知らないが、商店の細かい事情までは知るまい。
うちから一番近い商店は島内で一番まずい、なんてこと。
二番目に近い商店に辿り着けているなら良いが、隻腕の余所者なんて怪しい人間に島の人間が親切にするとは到底思えない。
彼が家でひもじい思いをしていたらと思うと、今朝そこまで気を回せなかった自分に大声で叫びたくなる。
帰宅して居間を見たが、彼はいなかった。部屋にも、トイレや風呂、庭にもいない。
静かすぎる家に胸がざわめく。
もう一度部屋に入ると布団は丁寧に畳まれており、彼が持っていた鞄が無かった。
私は急いで船着き場へ走った。
一回目の定期便は朝なのでもう出港した後だ。
付近の人に聞きこむと、船に乗って行ったのは島民しかいなかったと言う。
私はそのままご近所さん一人一人に尋ねて回った。
「他所の人、見なかった?」と言うと、大抵の人が彼と会ってお茶をしたそうで、転々と場所を移動していた。
それを一つずつ辿ると、私の自宅付近にまで戻ってきた。
隣の家の庭に入っていくと、縁側からおばさんと、そしてあの人が目に入った。
おばさんは私に気づくと大声で手招いた。

「ほら、早くおいで!あんたもご飯食べていきな!」

見ると、彼の前には食器が並んでいる。
それを見た途端、目頭が熱くなってきて耐えきれず身を翻して走った。
視界が容赦なく歪む中で、全速力で走っていると、島の中腹にある神社にたどり着いた。
そこだけは神の領域だからと、手つかずの木々が残され、夏は木陰をふんだんに作る。
主に子供の遊び場として使われるが、今は昼食時だからか誰もいなかった。
中年の女が一人で鼻を啜ろうと知られることはない。
だが後ろから砂がすれる音がする。
小気味よい音は何度もうねりながら、私の下へ辿り着いた。

「……どこまで追いかけてくるのっ」
「其方がいるならば、どこまでも」
「なんで私の所へ来たの!」

私と彼は完全に縁が切れた。この手で切ったのだ。

「其方に会いたかった」
「私は会いたくない」

背を向けたまま返答すると、沈黙が満ちた。
目頭を押さえつけて、必死に涙を閉じ込めた。
彼の為に流す涙などもうない。
彼に関するものはあの日全部捨てたのだから。
なのに昨日会ってから私は彼と再び関わろうとしている。
私以外の人間に世話になっているのを見て、嫉妬までした。
そんなことをしてはいけない。そんなことは彼のためにならない。
あの時私の存在は彼にとって不要だと結論づけたはずだ。
彼を想えば二度と縁を結んではならない。
例え彼から乞われようとも。

「おねえちゃんまたサボり?」
「それともまたパシリ?」

う。まずい。昼食終わりの子供達が神社に帰ってきたようだ。
案の定余所者の彼の事が目に入り、「この人誰?」「旅行?」「左手なくね?」と遠慮なく言う。
大人も面倒だが子供は更に厄介で対処に困る。
私は彼の手を引いて、子供の追及から逃れた。
とりあえずの行き場は家しかないが、家の付近には近所というほど近所ではない島民がうろうろと歩いているのが目に入る。
次は大人からの追及だ。
私たちの顔を見るとにやにやと笑みを浮かべている。とっさに彼を掴む手を離したがあまりにも遅い。

「その旅行客、嬢ちゃんの知り合いだったんだって?」
「ええ、まあ……」

さてこんなに好奇心いっぱいの人間から逃げるには何と言ったらいいのか。

「知り合いだったら昨日も宿開けてたのに。悪いな」

当てが外れたって、そう言う事か。多分片腕を見て断ったのだろう。
少しでもマイナス点があると、すぐに警戒してしまうから、仕方がないかもしれない。
だがそのせいで、私は彼を一晩泊める羽目になったのだ。
ちゃんと泊まらせてあげていれば、私はこんな気持ちにならなかったのに。

「よし、今晩は泊めてやるよ。それとも、やっぱり嬢ちゃんの所が良いのか?」

このにやにやは居心地が悪い。勘繰っている。
私と彼が恋人か、元恋人か、はたまた元旦那か、不倫相手か、色々と想像を巡らせて楽しんでいるはずだ。
この様子だと、おじさんの宿に泊まれば根掘り葉掘り私との関係を問うはずだ。それは阻止しなければ。

「まだ本土の事や友人の近況も聞ききれていないんですよね。だからもう少し泊まって頂くことにします。彼は恩人ですし出来るだけ力になりたいので」
「恩人つって相手は男じゃないか」
「いやいや~、寝る部屋だって別だし関係ないですよ」
「ふうん。ま、嬢ちゃんが平気なら良いけどな。それに男側の好みってのもあるしな」

若干馬鹿にされたが、引いてくれたのだから良しとしよう。

「そういえば、昼休憩まだ続いてんのか?」
「時間!まだご飯食べてない!?」
「ほら、そこで飯食ってけ」

結局隣の家のおばさんちであの人と二人、ご馳走になった。
おばさんはおばさんで私と彼の関係が知りたくてうずうずしているようだったが、あの人が会話を引き受けてくれて、角が立たないよう全部煙に巻いてくれた。
そういうところはやはり私なんかとは年季が違って頼もしい。
私との関係も恩人同士であり旧友という、最も無難な関係に収めてくれた。
私も次に誰かに聞かれたら、彼が言ったように伝えよう。
昼食を終え、私は仕事に戻るが彼はまだ世間話を続けるようだった。
多分、心配いらない。私なんかよりもずっと上手くやれる。
私は不安を抱くことなく職場に戻った。

「休憩長すぎない?……これ、全部やってよ」
「も、勿論です。喜んで」





家に帰るとあの人がいて「おかえり」と言った。
「ただいま」と返して、居間に行くとテーブルの上に見慣れた皿だが私のものではない物が置いてあった。
四皿もある。

「近所の御婦人方からのお裾分けだ」
「へえ……」

私もよくお裾分けを頂くが、多分今回のはこの人に対してだろう。
片腕がないのは大きなマイナスだが、私の知り合いという全くの余所者でない事が判明したら、殆ど帳消しだ。
となると残るのは、見目の良さだろう。
別れた時よりも若干老けたとは思うが、整ってさえいればそれもまた深みがあるように見える。
というのは贔屓目なのかもしれない。やはりこの人の顔は個人的にとても好みなのだ。
今日の夕食は、お裾分けと簡素なみそ汁と白米。

「いただきます」
「いただきます」

昨日と合わせても、この人と顔を突き合わせるのは初めてだ。
そろそろ、私は斜め前に座る彼にこの島に来た理由を聞こうと思う。

「ねえ、あなたはどうしてこんな島に来たの?観光地でもないから、偶々……なんて理由は受け付けない」
「昼に言った通り、其方に会いに来た」
「今更でしょう。私たち終わったんだから」
「終わらせたのは其方だ。ただの一つの言葉もなく、強制的に遮断した」
「その通りです。私の人生にあなたは必要ないと判断しました」
「その言葉。あの時其方が部屋で言った事と同じだな」

部屋で言ったとは、なんのことだろう。私はあの人に何のメッセージも残さなかった。
部下に押し付けた手紙でさえ「この件に関わった者達を処分しないで下さい」と、彼に対しては何も言わなかった。その方が彼の心を折れると思ったから。
だから部屋で言ったというのは納得いかない。
……部屋で、言う?それは、独り言……では……。

「……それ、あなたはその場にいなかったはずですよね?」
「時効だろうから話すが、其方の部屋には当初から盗聴器を設置していた」

……は?嘘でしょ。

「とはいえ、儂の部下が優秀すぎて気付かれてしまってな、最後のその言葉しか判らなんだ。
 その前に其方らがどんな言葉のやり取りをしたのかじっくりと聞くつもりだったのだがなあ」

背筋が凍るこの恐怖と嫌悪。久しぶりの感覚だ。彼といると度々あった。

「それは残念でしたね。とはいえ、終わった事です」
「儂は終わったとは思っておらぬ。あの日を超えて継続しておる。今も」

彼があまりに真っ直ぐ見てくるので、私は逸らした。ちびちびと白米を食べる。

「……其方は素晴らしい逸材だ。儂の急所、心の柔らかい部分全力で抉ってくれた。
 昔の事だというのに、其方に言われた言葉を思い出すと今でも胸が痛む」

私自身はあまり覚えていないが、それなりに暴言を吐いていた気がする。
手を出したこともあった。自身の失態を思い出すと恥ずかしくて辛い。
あの時はいつも全力で、全力過ぎた。

「其方の手紙も効いたぞ……。別れの際で儂の事を一切書いてくれなんだな。
 手切れがこれかと、かなり引きずった」

やはり、あの時彼の事を書かなくて正解だ。
下手に嫌いと書いたり、さようならと書くと執着が止まらないと思ったのだ。

「儂との思い出を全てごみに出してくれたのも効いたな。其方は容赦がない。
 儂は今まで騙されていたのだろうかと疑ってしまうくらいだった。
 其方も全てを失えば苦しいだろうに、それでもそれらを捨ててしまうほどの覚悟をもっておったのだろう。
 あれでは其方を無理やり連れ戻す気が持てなんだ。……上手いなあ、其方は。
 徹底的にしなければ、儂が手練手管の限りを尽くして、我を通すと思ったのだろう。
 それだけ、儂を判っておった。誰よりも」

私が残したメッセージの全て、彼は全部判ってくれていたようだ。
だからこそ、彼は私に接触しなかったのだろう。でも、数年経った今どうして。

「其方ほど儂を知ろうとする者も、其方ほど深みに嵌りたいという者も現われなんだ。
 だから、権力も金も、背負ってきたものは全て捨てた」
「全てって……どういうことですか」

すると彼は妖しく笑った。

「儂からの仕返しさ」

仕返しという言葉は私の中にすんなりとは入ってこなかった。
全てを失ったと笑う彼は本気なのだろうか。
彼が守ってきた者達は?彼が得ていた資産は?彼が築いてきた地位は?
彼にあったはずの左腕だって……?

「どうだ。相手の為にと全てを捨て去った者を目の前にした感想は。
 今其方が抱いている感情が、あの時──其方が町から去り会社も住居も知り合いも全て捨て去った──儂が受けた痛みだ」

わたしのせい……?
彼が背負ってきたのは、彼の人生そのものだったはず。
それらを、全て、捨てた……?私のせいで?

「重いであろう?まあ、あの時は痛みの分の愛情もまた、伝わってきたがな」
「そんな事はどうでもいいです。あなたを慕っていた人たちは、あなたが私よりも大事に守ってきたものを、捨てたの?」
「全ての縁を切った」

どうして……待って。違う。私が望んだのはそういう事じゃない。
あなたには最も相応しい世界で、生き生きと生きて欲しかった。
二足の草鞋なんて履かずに、ただの一つの世界で胸を張って泳いで欲しかったのに。
徒労感でその後何も言うことが出来ず、頂いたものを全て平らげるまで私たちは黙り続けた。

「……お風呂は今から溜めるので少々お待ち下さい」
「昨日も言ったが、其方に面倒をかけるつもりは無いのだ。
 其方としては、儂が島民に余計な事を話される事が困るのだろう。言うべきではない事を教えて欲しい。
 さすれば、明日からは民宿の世話になり、其方に負担をかけずに済む」

仕返しなんて言うくせに。
全部捨てるなんて馬鹿なことするくせに。
なんで、そこは頼ってこないの?

「行かなくていい」

近づいてくるくせに、変に距離を置こうとする所が一番…………。

「あなた一人程度、負担なんてないから。そこは、遠慮しなくていい……」
「だが先刻のように其方と儂は傍から見れば男と女でしかないのだ。そういう悪評は嘘であっても拭えぬ」

尚も距離を取ろうとするところに、ついかっとなってしまった。

「あなたと私は付き合っていたんだからあながち嘘でもないでしょ。余計な心配しないで!」

風呂の湯が溜まるまで脱衣所で時間を潰し、溜まったら即座にあの人を風呂へ押しやった。
何も考えないようガチャガチャとSE過剰な動画をテレビに映して見ていた。
風呂から出た彼が居間に顔を出したらテレビごと消した。すると彼が言った。

「家主は其方だ。儂に気を遣わずいつも通り過ごしておくれ。其方は映像が好きなのだろう?」
「……別に、好きではないです」

それだけ言うと逃げるように風呂へ入った。
身体も洗わず、ざばんと浸かる。頭がぐるぐるとしてくる。後悔。怒り。悲しみ。寂しさ。不安。……それと。
頭を振り払い、烏の行水で済ませてさっさと居間に戻った。
彼は部屋に戻っていると思っていたが、居間の椅子に小さく座っていた。

「少し良いか」
「なんです?」

少しも良くない。今は話したくない気分だが、仕方なく応えた。

「言いにくいのだが、儂は片腕になったものでな。今まで出来た事が出来なくなったのが現状で」
「で、何をして欲しいんですか?」
「今日馳走になった皿たちを明日返す為、洗ってもらえないだろうか」

……あ。

「そういえば、左腕って……どこまであるんですか?」
「見せよう」

袖をめくると、肘の部分が丸くなっていてその先がない。

「確かに、これだと両手が必要な事って出来ませんね。よくお風呂入れましたね」
「それは慣れだ。だが皿洗いはそもそもやってこなかったのでな。まだどうしていいのか判らぬ。それに其方の家を汚す訳にもいくまい」
「判りました。お皿は洗いますから、明日の返却はお願いしますね」
「感謝する。返却は儂が責任持って行う」

風呂で綺麗になった後の皿洗いは嫌いだが、今は少し、楽しい。

「終わりましたよ。拭いておきましたから、明日お願いしますね」
「助かった。ありがとう」
「いいえ。私も頂いたものだから、気にしないで下さい」

それにしても、一度聞いてしまうとついでに色々聞きたくなってしまう。

「あの、不躾な事聞きますけれど、片腕って他にどういう時に困るんですか。
 さっきご飯の時は食器を持ち上げられないなと思いましたが」
「食事に関して言えばナイフとフォークを使うものだな。切ると刺すは同時には出来ぬ」
「確かに」
「後、蓋も容易ではないな。足を使うとか、何かに挟む等の工程が必要となる」
「あ、じゃあプリンの盗み食いなんて出来ないんですね」
「儂は盗んで食わぬがな」

……私じゃなかった。

「……まあ、その開けるというのが難しいという、ね……そういう事ですよね?」
「左様」

余計な事を言ってしまった。あの人もちょっと笑ってるし。
隠そうとはしてるけど!隠れてない!

「普通に笑ったらどうです?」
「笑ってよいのか?」
「……やっぱり駄目」

とうとう噴き出してしまわれた。

「ふふっ、すまぬすまぬ。其方が可愛らしい事を言うもので、ついな」
「ただの食い意地です」

わざとむくれて見せる。すると彼の右手が近づいたので、私は反射的に目を閉じた。
でも何もない。目を開けると何のことはない、さっきまでのあの人がいた。

「其方は明日も仕事だろう。手間を取らせてすまなかったな」
「いえ。別に……あなたがいてもいなくてもしていた事です」
「今宵もまた、ありがたく一部屋貸してもらうぞ」

そう言って彼は立ち上がると、空き部屋へ帰っていった。
私は居間にいながらぱたんという静かな音を聞いた。
私、今期待した。
彼に触れられる事。
もう他人なのに。





忘れ物をしたので勤務先から急いで帰ってきたら、彼はいなかった。
多分その辺をうろうろしているのだろう。
やはり人々の上に立っていた者だからか、人々の信頼を得るのが上手い。
勤務先で普段足を運ばないような人までが彼の話をしていた。
とりあえず、彼がフリーかと聞いた人には判りませんと返しておいた。
女たらし、女たらし、女たらし……。
目的の物は自室の机に置いてあったのですぐさま回収した。
するとタイミングよくインターフォンが鳴った。誰だろう。

「どうぞー!」

扉を開けたのは知らない人だった。

「……どなた」
「おいおい、どうぞと言ったのはそっちじゃねえか」
「近所の人だと思ったので。それで、どなた」
「まあまあ。ところで、ここに片腕のない男がいるって聞いたんだが?」

どきっとした。彼を探しているなんて、どうせまともな人じゃない。

「いません」
「それはねえな。島民から話は聞いている。ここで寝泊まりしてるってなぁ」
「いないと言ったらいません」

ここは弱気になったら駄目。

「あなたは警官ですか?だとしたら手帳を拝見させて下さい。それに所属と階級も」
「ははっ、詳しいな。だが残念。俺はただのラーメン屋だ」
「ならばお引き取りを。出前を頼んだ覚えはありません」

扉を勢いよく閉める。じっと待っていたが、無理やりあけてくる様子はない。
一度別の部屋に移動し、相手がいなくなったことを窓から確認してから、予定通り忘れ物を持って勤務先へ帰る。
何事もなかったかのように振舞っているが、内心は冷汗が止まらない。
だが、以前彼とデートに行く前の講義で、不測の事態が起こってもあの人を探すなと言われた事がある。
私に接触するような者は私の不安を煽るだけ煽って、あの人の所へ走らせ場所へ案内させるのが目的だから、日常をこなすようにと。
だからこそ、私は何もしない。このまま定時まで働いて、いつも通りに帰宅する。

得体のしれない訪問者へのストレスがマッハの中帰宅すると、彼は「おかえり」と言って出迎えてくれた。
何もおかしな様子はなく、元気そうだ。そんな彼を確認すると、私は安心感で身体の力が抜けた。

「大丈夫か!?」

座り込んでしまった私に、彼が駆け寄って私の背にようやく触れた。
それがスイッチとなって、私は彼の首に抱き着いた。

「……あやしい人があなたを探してる。昼に聞かれた。いないって言った。ラーメン屋がどうとか言ってた。どうすればいい?」

彼の為に、私がどう動けばいいのか、指示を仰いだ。

「それならば問題ない。既に処置は済んだ」

さすが。私が余計な事をしなくて良かった。

「……よかったあ」

安心しすぎて涙が出てくる。
勢いが良すぎたのか涙だけではなく、私が思っている事もぽろぽろと零れ落ちた。

「あなたがつれていかれちゃうかとおもった。せっかく、よけいなものがなくなったのに。
 ……ようやくわたしだけのものに、なるかもしれないところだったのに。じゃまがはいって」

堰を切ったように、本音が漏れた。

「だれにもあなたをわたさない」

泣きながら、逃げられないように強く抱きしめる。
くつくつと押し殺したような声が上から聞こえた。

「はは……。そうか。渡さない、ときたか。っ……」

笑いだ。笑いを押し殺している。

「其方もようやく、儂が望んだ答えを出してくれたようだ」

とんとんと背を叩かれ、私は彼を放した。
昔のように私の涙を拭う彼は、なぜかとても泣きそうな表情を浮かべていた。
でも、口角はちゃんと上を向いている。

「其方と儂と、大切な話がしたい。二人で」

私は頷いた。

「長話になる。ひとまず夕食を共にとろう。
 それから風呂も終えて、明日の仕事の準備が出来たら始めたいと思う。……構わぬだろうか?」

首を振った。

「感謝する」

私たちは普通にご飯を食べて(彼はまたどっさりとお裾分けを貰って来た)、普通に風呂へ交互に入って、仕事の準備は特になかったので、居間の机で向かい合って座った。

「まずは昔話がしたい。其方が儂を望んでくれた日からの事を、あの時の儂が何を考えておったのか聞いてもらいたい」
「はい」

私とこの人が他人ではなくなった日は、もうずっと昔の話だ。

「其方と関係を結んでからの儂は、毎日が楽しかった。
 会える日も会えぬ日も、其方を想える日々が愛おしかった。
 ……正直に言うのはなかなか気恥ずかしいな」

私も最初はそうだった。しかし、会えない時間が長くなるにつれて変わっていった。
毎日辛かった。会えた日だけが楽しいだけで、反動で残りは悲しかった。

「判っておる。其方が儂と同じ気持ちではなかったことを。
 浮かれていて、儂もあの時はあまり気付いてやれなかった。憚らずに言うならば、軽く見ておった」
「……そっか」

当時の私なら手が出そうなところだが、生憎今の私はそんな事はしない。
納得してしまうから。やっぱり、って。
私と彼との僅かな温度差は、当時なんとなく感じていた。

「先の見通しが立つ儂と、待つだけの其方は雲泥の差であった。
 決定権はいつもこちらで、其方は従うしかなかった」

私たちは対等ではなかった。
私には常に選択権がなく、受け入れる事しか出来なかった。
私が選んだことと言えば、恋の相手に選んだ事と、思い出もろとも恋を捨てたことだ。
始まりと終わりは、自分で決めた。

「時が経つにつれ、其方はこんな儂の関係に慣れ、適応していった。
 それは儂にとっては都合が良いものだった。
 我儘を言わず、儂が望む事を先回りしてくれた。
 其方はままならぬ状況を仕方なしと全てを割り切っていったのだ。
 すると面白い事にな、儂の方が調子を崩してしまった。
 其方が諦めていく事に不安を覚えた。其方からの愛情が薄れたように感じた。
 本当は逆であるというのに。
 其方に普通を捨てさせた儂が、今度は普通が欲しくなった。……不思議よな」

私もあなたも求めたものは同じだったのに、どうして拗れてしまったのだろう。

「あなたが築いた環境は私と会う前に既に完成していました。
 沢山の部下達であり、地位だったり、権力だったり、金銭的なものを含めたあなたの世界。
 その唯一の汚点であり、異物は、私だった」

あの人の部下が訪れて言った言葉。「ファミリー」という確かな関係性。
私はその前に敗北した。完膚なきまでに。

「……あなたの迷惑になるなら、私は消えるべきだと考えました。
 でも本当は、あなたと普通に街を歩いて、普通に生活したかった。
 出来れば……あなたと結婚してみたいとも思った。
 子供はいなくていいから……あなたと一緒に居て良いって、世間にも認められたかった。
 朝目が覚めたらあなたがいて、夜寝る前にもあなたがいて、そんな事を毎日毎日繰り返したかった。
 でも、こんな願いはあの世界のあなたには邪魔だから、全部諦めた。
 あなたも含めて、全部捨てました。
 あなたが立ち上がれないように、私の考えうる全てで徹底的にあなたを傷つけ、関係を遮断しました。
 連れ戻す気になれないくらい、心を折られたはずですよね?
 それなのに数年も経って、全てを捨ててまでしてどうしてここに来たんですか」

それが一番知りたかった。
あの時の私は完璧だったからこそ、彼は別れを受け入れたのだ。
それがどうして、全てを捨ててここに来れるだけのエネルギーが生まれたのか。

「其方は詰めが甘い」

彼は手持ち鞄を探り、私に紙を渡した。
特売のチラシだ。物価の違いはなさそうだから最近のものだろうか。
目を通してみると、価格の所に何か書かれている。
少し嫌な予感がしたが、ものの見事に的中した。

「確かに去る時の手紙は儂のことなんぞ何も書いておらんかった。
 儂に関わる全てを捨てているのも悪意しか読み取れぬ。
 しかし、少し前の其方が残したこれのお陰で、儂は自信を取り戻せた。
 儂を一歩先へと歩ませる決め手となったのだ。
 数年経ってしまったのも、挫けていたのではなく全てこの島に行く為の根回しだ。
 組織の規模が大きすぎて、ひょいと逃げるわけにはいかなかったのだよ」

詳しく説明をしてくれているが、聞きたかったそちらよりも、彼に手渡された昔の手紙を見てしまったことへの衝撃の方が大きくて耳に入らない。

「……捨てて下さいよ、恥ずかしい。あなたは捨てろって言ってたのに」
「処理は儂に任せると聞いておったのでな、勿論手元に残しておいた」

何が「愛しています」だ。当時の私を羽交い絞めにして奇行を止めさせたい。

「其方という人間がそう簡単に心折れるはずがない。
 なにしろ、あれだけ就職に失敗しておいて、平然としておったからな。
 心臓に毛が生えているとはこのことかと感心した。あれは衝撃的だったぞ」
「やめて!立て続けに私の恥ずかしい過去を掘り起こさないで!聞きたくない聞きたくない!」
「そんな其方が突然儂を切るということは、儂の為以外に他ならぬ」

自信満々な論調でよくもまあ断言できるものだ。……間違ってはないのだけれど。

「そこで儂も、ようやく腹を括れた。其方以外を切り捨てる決心がついた」

結局、私の行動は彼に向こうの世界を切る決断をさせてしまった。

「お見合いの時も……そうですよね。私が動かなければ、あなたは自分の行動を曲げる事はなかった」
「あれか。……確かにな。だが仕方あるまい。其方に手を出されるわけにはいかなかった。
 そもそも其方の存在を知られた儂が悪かったのだ」

あれさえなければ、彼の組織が内部で対立する事はなかった。

「……あなたの安定を壊すのは、毎回私ですね」
「其方は儂の人生に唯一手を入れられる人だ。誇って良いぞ」
「…………申し訳ないですよ」

そんなことを言われると、溢れてくる。見ないようにしていた事が。全部。

「……私はようやくあなたのいない世界を当たり前だと受け入れてきたのに。
 正直に言うとあなたにだけは二度と会いたくなかった。会えば全部思い出す。
 あなたへの不満も、あなたへの願いも、あなたが好きな事も、あなたに裏の仕事をやめて欲しいと思っていた事も。
 あなたが守るファミリーなんて人たちに嫉妬してたことも」

それに一番の懸念材料。
それは、どう恰好つけても、彼は所詮ただの犯罪者で社会を乱す悪ということだ。

「ずるい。あなたはいつもずるい」

私にとって、彼は悪党ではなかった。ただの良い人だった。
だからせめて、さっさとその肩書を捨てて欲しかったのに、それは言えなかった。
それを失えば彼は彼でなくなる。肩書込みで彼だから、普通になんてなれないと思っていたのに。

「私は、あなたを嫌いになった事なんてない。
 ただ蓋をしただけ。見ないふりをしてきただけ」

彼の思い出は、大切なものだ。
出会った事も、よくしてくれた事も、恋した事も、未来を描いた事も。
捨てたくなかった。彼と離れるべきだったとしても、せめて思い出だけは残したかった。
でも、彼と離れる為には捨てる事が必須だった。断腸の思いで捨てたのだ。
本当は彼とも離れたくなかった。あのまま破綻するとしても、最後まで傍に居たかった。
好きな人とずっといたかった。

「ずるいあなたは嫌い。また私に夢を見せてきたあなたは大嫌い。
 今度こそ叶わないなら、もう私は立ち上がれない。ここでやっていくのだって、大変だったのに。
 あなたを思い出さないようにするのは何年もかかった。ようやく、出来たのに。
 ここで一人で死のうって、ようやく言い聞かせたのに」

涙も拭わず、彼を糾弾する。

「あなたは私の人生を捻じ曲げる覚悟があるの?」

これが遊びだなんて絶対に許さない。
希望をチラつかせた罪は重罪だ。
私の数年の努力を無にした責任は取ってもらう。

「……捨てたのは其方の方ではないか。と、ずっと思っていたのだがなあ。
 想い続ければ良かった儂と、振り払い続けなければならなかった其方では、傷の深さは全く違うのであろう」

彼はまた鞄から何かを取り出した。

「儂の嘘が上手いのは其方もよく知っておろう。だから、何をしても信じてきってもらえぬと思ってな」

クリアファイルに入れて丁寧に扱われていたその紙はA3サイズの見慣れれぬものだった。
彼に促され紙を広げてみる。左上には婚姻届と書かれており、右の証人欄だけ記載済みで押印もされていた。
それは、私の両親の名前と印鑑。

「な、なんで?」
「はは、抜かりがないであろう?」
「い、いやいや、私だってずっと会ってないんですよ。それなのに、あなたが突然行ってどうにかなるものですか?」
「どうにかならぬよ。大事な娘の事なのだから、当然ではないか」

つまり、両親を説得してくれた、と。とても大変だっただろう。
娘本人はおらず、名前も聞いた事がない男が突然訪ねてきたのだ。
詐欺と思われ門前払いが関の山だ。話し合いのテーブルにつくことすら難しいのに。

「其方だって他ならぬご両親が認めてくれた方が安心できよう。
 これならご両親に嘘を吐かず、誤魔化さずとも良いのだ。わざと疎遠にする必要もない」

まっとうなやり方。順番。

「これが、儂が出来る最大限の誠意だ。どうか其方に受け取ってもらいたい」

彼は席を立ち、頭を下げた。幾度も人に頭を下げられたであろう彼が、私に対して。
結婚してくれないかと、希ったのだ。

「……」

私も席を立ち、彼の前に立った。
頬に触れ、そのまま顎に指を滑らせて、頭を上げるように促した。
そして、つま先で立ち身体をうんと伸ばして口付けた。
私は一つお願いをした。

「……玩具でもいいから、ペアの指輪が欲しい」
「勿論だとも。……あー、すぐには難しいから、少し日数は貰うぞ。
 なにしろ、土地も証券も権利も全て捨ててしまった故、懐が寂しくてな……所謂無職というやつだ」
「…………なにそれ」

了承の口付けをした後だというのに、堪えきれずに大笑いしてしまった。

「その歳で無職になっちゃったの?え、資格とか経験とか……って経験?」
「反社会的組織なるものは、資格も経験もいらぬ、初心者に優しい職種なのだ」
「い、いや、そうだけど。そうなんだけどさ。ふふふふ」

笑ってしまう。何を言い出すのやら。

「それ大丈夫なの?私探そうか?」
「いや、自分の事なのでな。儂自身の足で探そう。なあに、どんな状況であってもなんとかなるものだ」
「遠慮しなくていいのに。じゃあ私は、あなたにご飯くらいはあげましょうか」

と、ふいに彼と会った頃の事を思い出した。

「まるで逆の立場になってしまったな」
「……本当ですね。今は当時のあなたが私に興味を持ったのも頷けますよ」

本当に出来るのか、それともすぐに泣き言を言い出すのか。
彼は安定した所で優越感たっぷりに私を見ていた事だろう。結果がどうなろうと構わない。
ただ予想を超えてくれれば、愉快である、程度の小さな遊戯。
だが以前とは違う。ただの他人なら結果は構わないが、婚約者ならば結果を問う。

「ま、悩んでたってしょうがないのは確かです。
 とりあえず衣食住は揃ってますし、私も今まで以上に稼いできます。
 あなたはあなたで、お金の匂いがする場所をしっかり嗅ぎつけて、しっかり懐を温めましょう」
「うむ。勿論だとも。……儂はキャベツのみの生活は出来そうにないからな」
「海には魚がいます。この島なら魚か海藻が無料で手に入りますからご安心を」
「其方のその心強い言葉を聞くと、不安感が募るな」

前向きにもなる。だって、これからは──。

「さて頑張るのは明日からにして。今宵は……これを書き上げようではないか。其方の気が変わらぬうちにな」
「変わりませんよ。あなたこそ、もう一度ボスに返り咲きたいなんて言ったら坂の上から海へ転げ落ちてもらいますよ」
「ははっ、なかなか怖い事を言う」

あ。

「あの、届けとは別に約束して欲しい事があります」

今度は曖昧にしない。

「私の残りの人生、全てをあなたにあげる。
 だから、あなたの全てを私にちょうだい」

過去の私が言えなかった事を、今の私が代弁する。

「……傲慢も傲慢。しかし其方は儂という人間を信じられるのか?」
「信じません。……信じるだけなんて待ちの姿勢はもう嫌です。
 物事を曖昧にする事が苦手な私は、白か黒かはっきりさせないと落ち着けません。
 今度からは遠慮しません。思う存分問い詰めますし、好きなだけ探ります」

私は彼に合わせきれなかった。
合わせられるような質ではなかったのだ。
だったら自分のままで、彼と接していくしかない。

「やはり、其方は儂の手には余る」

諦めるのかという言葉を寸前で飲んだ。

「儂も今までのように遠慮はせぬ。傲慢爺の欲を呑んでもらうぞ」

彼は妖しく笑った。口元を吊り上げ、目元まで笑う彼はやはり生き生きしている。
彼はこうあるべきだ。そんな彼が好きだから。

「……あの。ちょっと疑問なんですが。…………遠慮、してたんですか」
「していたぞ」
「あれで……?」
「うむ」
「……??」

眠れる獅子を起こしてしまった気がしたが、まあいい。

「これからは、あなたとずっと一緒に居ます」
「儂とてそう易々と逃すつもりはない。其方もまた、儂の手綱をしっかり握っておるのだぞ」
「勿論。二度と放しません」


【エピローグ】


「え、卵片手で割れるようになったんです!?」
「ふふ。儂が一歩リードしたぞ」
「き、器用ですね……」

晴れて夫婦になった私たちだが、前途多難だった。
今までの生き方が違い過ぎて、価値観がまるで合わないのだ。
恋人時代は文句があろうと、どちらかが呑み込んで表に出さないようにしていたが、これから長い人生を共に歩むとなるといつか破綻する。
そう考えた私たちは身勝手な自己犠牲心を捨てた。己を隠すのを止めた。
何度も(私が一方的に)言い合いをしたし、口達者な彼に毎度負けて悔し涙を流して罵倒した事もあった。
すり合わせに苦労した私たちは一つだけルールを課した。
それは、喧嘩をしても同じベッドで寝る事。背を向けてもいいが、必ず一日の最初と最後は共にいる事だ。
朝になるとお互いに(主に私が)落ち着いてきて、謝罪する事も許容する事も出来た。
そして、朝食はいつも一緒に作る。
隻腕の彼に料理はハードルが高いと思っていたが、肘だけしかない左腕を器用に使い、創意工夫を凝らして出来る事を増やしていった。

「卵焼きだって上手ですよね。鍋を傾けられる私の方が下手って……」
「其方は大雑把なのだ。それに、そもそも食べられれば形がどうあれ同じと思っておるだろう」
「……」

彼は裏社会のボスとかいう怪しげな肩書で町を闊歩するような男ではあったが、丁寧な暮らしをする人だった。
対して私は酷いものだった。物事を後に後に回すタイプであり、勿論洗い物だってすぐ洗わない。
買い物から帰ったらまず床に物を置いて、気が向いたら片付けるような人間だ。

「でも、私はどんな失敗作でも食べられます」
「……」

拘りが薄く胃袋が頑丈な私は何でも食べる事が出来る。対して彼は味と消費期限にうるさい。
自分の料理に対する評価が厳しいが、酷評されたものでも私は美味しく食べられる。
そもそも彼が追い求めるレベルが高すぎるのであって、日常なら問題ないのだ。

「其方には感謝しておるよ。拙い儂に文句一つ言わぬのだから」
「私は毎日違う朝食を考えてくれるあなたに感謝しています」

二人で朝食をとり、私は出勤。彼は家の事をしながら、在宅の仕事をこなす。
複雑なので理解を放棄したが、多分私の収入の倍の倍以上は稼いでいる。
経歴が真っ黒な彼は表での仕事は無理だろうと、私が二人分稼ぐ気だったのだが、心配無用だった。
カネの流れを知る彼は、カネの産み出し方を熟知している。更に法の穴を突けるほどの知識も持ち合わせているのだ。
凡人の私には理解できないが、とても、凄い……らしい。

「あんたの旦那、またその辺ぶらついてたけど?」
「元気な証拠です」

島の皆は彼をヒモだと思っている。
実のところ金銭面も生活面も私が支えられている側だが、その体でやっていくように彼に強く言われているので否定は一切しない。
彼の評価が下がるのは嫌だと反論したが、彼はそれについては折れてくれなかった。

「儂らが一番大切にしなければならぬ事は、死の迎えが来るまで平穏な日々を送る事だ。
 些末な事を気にして見誤ってはならぬ」

彼が一切茶化さずに言うので、私は渋々ながら従っている。
勿論私だって、何故彼がそう言うのかは知っている。
普通の生活を送る為には、お金の匂いをさせてはならない。
お金は人を豹変させるからだ。
……だからといって、彼が実際と異なる低い評価を受ける事は私には受け入れがたい。
彼は私と自分の事を常に考えてくれている。
身体的ハンデがあろうとも、年齢的なハンデがあろうとも、何食わぬ顔でこなしていく。
私には見せないが、身体についてはかなり練習しているのは察しが付く。
そんなに頑張っている人がヒモ扱いされるのは、良い気分ではない。
もっといい設定をあの人なら考えられたろうに、その辺はとてもいい加減で、寧ろ遊び人扱いを楽しそうにしているのだ。
本人が良いなら、私もとやかく言わないようにしようと心掛けてはいる。でも時々態度に出る。

仕事が終わると勿論寄り道なんてせず帰宅だ。
彼はいつも「おかえり」と出迎えてくれるので、私は「ただいま」と言って鞄を廊下に置く。で、知らない間に鞄が自室へ置かれている。
彼が偶に実家の母と重なる。そうそう、今年は実家に二人で帰ったのだ。
両親と彼は年代がほぼ同じなので、大体私+三人で楽しんでいる。
私はいつ実家に行っても、彼が私の生家で楽しそうにしている姿を見るのが楽しい。
いや、幸せだ。両親とは死ぬまで断絶も考えていたのに、彼と一緒に過ごせる日がくるなんて夢のようだ。

「今日はどうであった?」
「普通。特に変わり映えはないかな。坂の上のおじいちゃんが蜜柑取りに来いって言ってた」
「なら明日儂が伺おう。其方は気にしなくて良いぞ」
「……うん」
「何か?」
「うー……いいや」
「そうか」

以前と変わらず、私に頼みごとをする人は多い。
それについて何もないのだが、相手がどれだけ年上であろうと男一人の家に私が行くことを彼は許さない。
気にしすぎではないかと言ったが、彼は「いやだ」の子供じみた三文字で封殺してくる。
一方の私は、彼がどこで誰といようと気にしない。おばさま方とお茶していても気にならない。
私を追ってきてくれた人だから。女性関係は信用している。
それに誰といた、どこで過ごしたなどの情報はちゃんと私の耳に入ってくる。
女の敵は女。この敵対関係が上手く作用してくれるお陰で、私が彼の行動を制限する必要はない。
所謂都会の男である彼の洗練された所作と顔で、おばさま方の心を掴み、時に男の心まで奪い早々にヒエラルキーの上に立ってしまった彼は、正直私の手に余る。

「あなたはどうだったの?」
「儂は……手頃な土地が手に入った」
「うん……?」
「良い機会だから、物流の多い隣の島にでも引っ越さぬか?」
「……え……うーん。いきなり言われても」

青天の霹靂すぎる。しかも話が大きすぎて理解が追い付かない。

「そうですね……スーパーの買い出しに船がいらなくなるのはいいね。病院もあるし」
「であろう?」
「ちょっと考えたいです。病院の事を考えると、そもそも本土に帰った方が良い気がしますし」
「本土ならば更にもっと手頃な土地がごろごろあるぞ」

うちの資産どうなっているんだろう。
彼が死んだ時に私一人でちゃんと手続きが出来るのか心配になってくる。

「でも本土ってあなたの知り合いに会う可能性が上がりませんか?
 あなたにもしもの事があるのであれば避けたいです」
「ゼロとは言えぬが、それほど儂に執着していればここまで足を運ぶであろう。
 場所を選べば、本土であろうと平穏に暮らせると考えるぞ」
「……やっぱりもっと考えてからにします」

私たちは一見平穏な生活を手に入れたように見えるが、実のところいつだって危険と隣り合わせだ。
あの人は裏に関する者全てと縁を切ったと言うが、人を踏みつけて生きてきた彼はその分人から恨まれている。
逆恨みも含めば、彼を亡き者にしたい者は沢山いる。
彼は所在を眩ませるために今まで築いた人脈を駆使しているというが、いつ誰に裏切られるかは判らない。
私たちは死ぬまで安心する事が出来ない。

「あ、お風呂溜めますね」

風呂は二人で入ると少し狭い。隙間という隙間に身体を収める様はテトリスのようだ。

「儂の所へおいで」
「狭いですよ。お風呂から上がってからでも良いじゃないですか」
「今したいのだ」

片腕がなくなった彼はもう私を抱きしめることは出来ない。
右側の拘束はいつも緩くて、私でも簡単に逃れられる。
彼はもう強引に無理やり言う事を聞かせる事は出来ず、いつだって私の意思が問われるようになった。
だから私は彼が望めば自分から近づいて、腕の中に収まってあげる。
狭い中で抱きしめ返すと満足そうな顔をするので、満更でもない。
放してから、お互いの身体が十分温まった頃に私たちは風呂を出た。
私は彼の身体を拭いていくのが楽しい。
最初彼はあまり乗り気ではなかったが、毎日やっているとお互いに慣れていく。
彼としては私と対等にいたいから世話になるのを嫌ったのだろうが、私は私で彼に十分支えてもらっているのだから、何かしら世話を焼きたかった。
与えられるだけでなく、彼に与える存在になりたかった。

お風呂の後、彼は私とくっついていたい気分のようだったので、ソファーで膝枕をしてもらいながらテレビを流していた。
彼は今でもテレビの類は好まないが、会話をしながらなら良いそうだ。
どういう理屈かと思えば、自分に注意が向かないから、などという可愛い理由だ。

「そろそろ寝るとするか」
「はーい」

健康的な彼は就寝時間は必ず日付を超えない。
私もそれ程何かしたいことがあるわけでもないので、今はそれに合わせている。
どうしても一人で見たい映画があれば、夜中ひとりで視聴すればいいだけだ。
彼と一緒に住むようになってダブルベッドに変えた。
彼が左側で私は右側だ。
理由は……恥ずかしいのだが、腕がある方が外側だと私を容易く抱きしめられるから……だそうだ。
彼が半身を傾けこちらに向いた。
いくら綺麗な顔とはいえ、至近距離で見る事には慣れた。
お互いが少しずつ近づいて口付ける。
「おやすみ」「おやすみなさい」大抵はその後は軽く雑談をしながら寝るのだが、今日は稀な方の日だ。
彼の手が頭を撫で、後頭部からから首へと滑っていく。
そして唇が私の頬へ、そして首へと下がっていく。

「っ」
「痕は」
「駄目」
「見えぬようにする」
「……絶対、ですよ」

彼は皮膚の薄い部分を啄み、ちうと吸う。
ちくりとした痛みが咲いた。花弁を散らしていきながら、偶に歯が肌を刺す。

「いっ!」

彼はよく噛んでくる。
前はそういうことをしなかったので聞いてみると、自分には痕を残すなと言っておいて、自分がするのは気が引けたからという殊勝な態度。
遠慮がなくなった今は好きにしているらしい。

「儂にもして良いのだぞ」

と、彼は言うのだが私はしない。噛まれるのは痛いと身を持って知っているからだ。
ただ鬱血させるのは罪悪感があまりない。
彼の白い肌に綺麗な朱を落とすのは楽しいし、私に好きにされている彼に満足している。
二人で交互にして遊んでいると、彼は私の背に腕を回して動かなくなった。

「……考えてる?」
「この先を、しようかしまいかをな」
「じゃあ寝ましょう?」
「其方は嫌か?」
「ううん。でもちょっと違うんでしょ?する理由が」

本当に欲しいと思えば彼は形だけの伺いを立て、私の返答に関係なく好きにするだろう。

「さっきの話だ。其方に不自由させている事が……な」

色々な感情を滲ませた彼に、少し笑った。

「いいの。一番はあなたが私の隣にいることなんだから」

軽く抱きしめ返すと、胸元の彼が「其方には敵わぬ」と笑っていた。

きっと、どんな家庭にだって将来の不安はある。
私たちはそれが、裏社会からの脅威であるだけだ。
絶対的な幸せも、壊れない幸せもこの世には存在しない。
いつ去るか判らない幸せが、私たちの肩で羽を休めている今を大切にしていきたいと思う。


【Fin】

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